「ジェミニとほうき星」
マーティンと祈吏のもとに訪れたある年の春のお話
5月の東京文フリでの無配でした。
――『今年は桜が咲くのがいつもよりもうんと早くて、なんだか季節が先回りをしているみたいでした。でも、すごく珍しい景色が見れたので見てください。』
いつも通りのやわらかな言葉ととともに届けられるのは、はらはらと舞う白い雪の下で風に揺れる薄桃色のやわらかな花たちの、儚くも鮮やかな姿だ。
――『東京でこんな景色が見られるなんて、不思議だなって。これから先、もしかしたら最初で最後なのかもしれません。いっしょに見れなかったのは残念だけれど、せめてものおすそわけです。』
花びらのようにはらはらとたおやかに降り注ぐやさしい言葉たちに、もう何度目かわからないあまやかなため息をこぼす。
四角い端末に納められた景色から視線を逸らしたその先には、青空に溶けるような薄桃色の花たちが咲き誇る姿を、通りすがる誰もがみなうっとりと見上げている。
日本で見られるそれとは、姿形こそ似通っていても、受け止められるものはまるで違う――生き急ぐような早さであっという間に咲き誇り、儚くその姿をかき消していくそれは、去りゆくものの刹那的な美しさをいとおしむ日本人の気質ともよく合っているのかもしれない。
――『こないだは見事な写真をありがとう。こちらでも宮殿の前の桜が満開になりました。
花々の咲き誇る道をちいさな王子様やお姫様たちが駆け抜けていく姿は、なんど繰り返し見ても飽きません。詳しくはまた手紙を書くから、読んでもらえれば嬉しいです。』
するすると画面の上を滑らせるようにタップして、フォルダの中から選んだとっておきの写真と共にメッセージを送る。
地球四分の一周分を隔てたうんざりするような距離を飛び越えて――それでも、こうしてこのちいさな四角い端末越しにこんな風に繋がり合えること。リレーのバトンを繋ぐように、こうして時間を隔てながら同じ花を見上げることが出来ること。
その喜びは、どんなに言葉にしたって到底語り尽くせるものなんかではあるはずもない。
「祈吏にも約束した通り、春のロンドンを案内するね。落ち着いてからで構いません、またきっと遊びに来てください。
次に会える日を心待ちにしています。」
うっとりとまぶたを細めるようにしながら、とうに過ぎ去ったはずの、やわらかな指先の感触をそうっと思い起こす。
最後に会ったあの日から、もう一年の月日が過ぎ去ろうとしていた。
それでもまたこうして変わらぬ思いを抱き続けたまま、新しい季節は訪れを告げている。
――『お花見ってなかなかタイミングを合わせるのがむずかしくって。近くの公園でもライトアップがあったんだけれど、あんまり早く咲いちゃったせいもあってか、半分近くは散ってしまった桜の木が光に照らされていたそうです。それもちょっと残念だけど、自然のことだから仕方ないよね。』
――『人間の都合の良いタイミングで咲くようにってコントロールされるよりはよっぽどいいんじゃない? 苦労して盛り上げようとした人たちは気の毒だけれど。』
――『わたしもそう思う。でも、カイの友だちは葉桜だってピンクと緑が両方楽しめるから徳でいいんじゃない? って言ってたみたいで。』
――『へえ、面白いね。』
――『それに、おいしそうだからって。』
四角い画面の中には、濃い緑の葉っぱにくるまれた薄桃色のお餅の写真が続く。
――『桜餅、知ってる?』
――『写真では見たことあるけれど、食べたことはないかな。』
――『近くにおいしいお店があるの。こんどまた案内してあげる。』
――『ありがとう。』
こんど、またきっと――こうして約束が誓い合えることは、すこしもあたりまえのことなんかじゃないのをちゃんと知っている。
「それでね、約束したんだ。こんどは春のロンドンを案内するね、桜の名所だってたくさんあるからきっと気にいるよって。さすがに今年はまだいろいろばたばたするだろうから、まだ先になるだろうけどって」
「卒業旅行でこっちに来てって、そう言えばよかったんじゃないの?」
「前にも来てもらったことがあるから、そこまでは。ほかに行きたいところだってあるだろうし」
打ち消すように頭を振って答えれば、すっかり見慣れてしまったあいまいな笑顔が返される。
すこしばかりあきれたような――それでも、掛け値無しのおだやかさをひそめたようすの口ぶりで返される言葉はこうだ。
「つくづくお人好しよね、あなたも」
「買いかぶりすぎじゃないかな」
苦笑いまじりに答えれば、すぐさまかぶせるような返答が落とされる。
「そんなこと言ったって、私なら考えられない」
「会ったことがないからだと思うよ、きっと」
「なに、またのろけ?」
「そりゃあね」
おどけた口ぶりで告げられる返答をかわすように、ふわり、と笑いかけながら僕は答える。
「百時間話したって話足りない」
うっとりとまぶたを閉じれば、まなうらに浮かぶ暗闇には初めて言葉を交わし合ったその時の、ぎこちない会釈がありありと浮かぶ。
花びらみたいにふわふわと軽やかなあまい香りを身にまとった、とびっきりのかわいい女の子。
誰よりも大切な恋人の双子の姉で、彼の初恋の相手。
――それが、僕のたったひとりの、誰よりも大切な『妹』だ。
すこしだけぬるくなったカップのふちを辿るように指先で触れながら、僕は答える。
「カイのことを大切に思ってくれてありがとうって、そう言ってくれたのは彼女の方だよ。カイのことが大好きなのは自分だっておんなじだからって。だからこれから仲良くなろう。僕たちだって家族になろう。そうなれるはずでしょう? って。どれだけ勇気が必要だったと思う? ずっと隣にいてくれたいちばん大切な相手を奪った相手にそう伝えてくれたんだよ? 僕なんて、一生かかったってかなうわけないよね」
あんなに誰よりも強くてやさしい女の子、世界中を探したってほかにいるわけもない。
「大切なのね」
ぽつり、と吐き出されるように紡がれる言葉を前に、ふかぶかと息を吸い込むようにしたのち、僕は答える。
「自慢の妹だよ」
視界の端、窓の向こう側に広がる空の下では、ほころび始めたばかりの桜の花びらが音も立てずに静かに揺れる。
いっせいに咲き誇り、跡形もなく儚く散る――日本で見られるほんのひと時のきらめきのようなそれとは異なる形で、日本から持ち込まれた美しい花々を咲かせる木々はこの街を彩る。
ひとつの木が花を落とすころには、また色合いや形が少しずつ違う花が咲き誇り、それが姿をかき消すころにはまた違う花がほころびはじめる――無邪気な花々はリレーのように順番にその役目を果たしながら、長い『春』を彩ってくれる。
「来年にはロンドンで一緒に桜を見られるんだね」
「なんだか夢みたいだね、そんなの」
「夢なんかにしちゃだめだよ。もう何年待ってると思ってるの?」
冗談めいた口ぶりで囁きあいながら、指先を握り合った記憶があざやかに蘇る。
あれからもう一年経っただなんて、なんど思い返しても不思議だ。
夢みたいにおだやかで、夢みたいにふわふわとあまやかで――いくつもの夢を繋いだ先の、なによりも確かな『いま』がここだ。
――もうすぐ、やっと会える。
これからはもうずっと隣にいられる。
ふたりだから描けるあたらしい日々が、もうすぐここではじまる。
――『一年遅れてやっとマーティンに追いつきました。カイはきっとはずかしがって見せてくれないだろうからわたしがないしょで送ります。似合わないってずっと言ってたけど、すっごくかっこいいでしょう? ついでで構わないから、わたしの晴れ姿もいっしょにみてください』
あんまりにも『らしい』茶目っ気たっぷりのメッセージとともに送られてきたのは、卒業式の式典のためにと、正装を身に纏った彼らの姿だ。
ダークブルーのかしこまったスーツに身を包み、緊張を隠せないようすのぎこちのない笑顔を見せる恋人の横に寄り添うのは、こっくりとした茶色の袴と艶やかな赤の着物姿で豊かな髪を結い上げた、とっておきの自慢げな笑顔での晴れ姿を見せてくれる最愛の妹の姿だ。
綺麗になったな、ほんとうに。やっかみなんかかけらもないまま、心から素直にそう思う。
いまから十年前、こうして同じように四角い端末越しに見せてもらった時とは当たり前だけれどまるで違う。
四角い画面の中に切り取られたその一瞬のきらめきの中、こぼれんばかりのまばゆい笑顔を振りまいていた十二歳の女の子は、あの頃からずっと変わらないきらめきを身に纏ったまま、ぐんと洗練された輝きを放つとびっきり素敵な女性にいつしか成長していた。
こんなにもあたたかな気持ちでその姿を見守ることが出来るようになるだなんて、十年前の僕にはまるで想像も出来なかったのに。
――『図書館の裏の公園の桜が満開になったよ。君が来るころにはもう見頃は終わってるだろうけれど、そのころにはまた違う花が咲いてるだろうから一緒に見ようね。』
しばしば一緒に座ったベンチに腰を下ろしながら、スマートフォンの画面をタップしてメッセージを届ける。
ひとりで座るベンチの片側は、不在の気配をありありと感じてなんだかとてもさびしい。
それでも、こんな気持ちを味わえる時間も残りあとすこしなのだと思えば、それすらも新鮮だ。
初めてふたりで過ごした春の日の記憶を、いまさらのようにまざまざと思い返す。
ひどく複雑そうな顔をしながら遠く離れてしまった故郷に咲くのと同じ花を見上げるその姿に、胸が詰まるようなあまい息苦しさに襲われたあの日のことを――
あれからいくつもの春を越えて、数え切れないほどのたくさんものを失って、きっとそれ以上の、抱え切れないほどのたくさんの宝物を手に入れて――自分たちは、こうして大人になった。
こみ上げる感慨に深々と息を吸い込めば、胸の中いっぱいに満ちた春の匂いに心ごと浸されていくのをこんなにもたしかに感じる。
いままでと違う季節が、とっておきの未来がこれからやってくる。
春はいつだってあたらしい気配に満ちてわくわくするけれど、今年の春は何よりものとっておきだ。
たぶん一生忘れない。これからだって季節が巡るたびに何度も思い出す。その隣にはきっと、これからはずっと変わらず彼がいてくれるのだと、心からそう信じている。
やわらかにこぼれ落ちていく光の粒に包まれるようにしながら、満開の桜からは白い花びらがひらひらと音もなく舞い降りる。
儚く降りしきるその光景の中に、いつしかまぼろしの白い雪が残像のように重なっていることに気づく。
いつか命が尽きる時、最期に見られる景色もこんな風なら良いのに。
ゆっくりとまぶたを閉じながら、いつのまにか浮かんでいたそんな想いにぼんやりと身を委ねるようにする。
真っ白に心に降り積もるそれは、ひたひたと心のうちを満たす幸福のありかそのものようだった。
300字ポスカ企画→春ヘキと続いているお話です。
今年の春は雪の降る中で桜が咲いていたと聞いて書きたくなりました。
祈吏の話している「カイの友だち」は忍です。

PR