ほどけない体温、周と忍の春
5月の東京文フリでの無配でした。
――『セント・ポール大聖堂の桜が満開になりました。はじめはミスマッチな風景だと思っていたけれど、これもまた、日本から持ち込まれた花がこの国にきちんと溶け込んでいるあかしなのだろうといまでは素直にそう思えるようになりました。
こちらは変わりなく過ごしています。季節の変わり目は体調を崩しやすくなるかと思いますので、どうぞお気をつけてお過ごしください。』
すっかり見慣れてしまったいやにかっちりしたメッセージとともに送られてきたのは、荘厳な大聖堂をバックに咲き誇る、見慣れた薄桃色の花々のみごとな姿だ。
あちらにだって日本で見るのとさほど変わらない桜並木があちこちでも見られれば、日本風庭園なんてものもあるらしいけれど、やっぱり、こうして「ならでは」の見事な景色を見せてもらえるのはとりわけうれしい。
それが不特定多数に向けて公開されたSNSの画面越しなんかではなくって、一対一のメッセージであればよけいに。
「瀧谷にも見せていいからね」
スクロールした先に現れるメッセージに、思わず苦笑いが漏れる。相変わらず仲がよいようでなにより。ありがとう、ほんとうに。
「しのぶ――、」
ことり、と音を立てて裏返しにしたスマートフォンをダイニングテーブルの上へと置きながら声をかけてみれば、すこしだけ間をおいての「なあに?」がベランダの方角から返される。
――やっぱりやめよう、あとすこしだけ。
一呼吸をおいたのち、やわらかに言葉をかける。
「コーヒー淹れるけど、持ってったほうがいい?」
「うん」
声だけでも伝わるうれしそうに瞳を細めたいつものあの表情に、それだけで心はいやおうなしにゆるむ。
「週間天気予報だとさ、しばらく持ちそうだって。雨んなっちゃうとあっという間だもんね、ほんと」
引っ越す前の部屋から持ち込んだそれぞれにちぐはぐなデザインのコーヒーカップを手にしたまま、ベランダの向こう側に広がる四角く切り取られた景色をぼんやりと眺める。
まばゆい光の粒にくるまれ、やわらかにふちをにじませる芽吹き始めた緑の木々に囲まれながら、ひらひらとした桃色のフリルの花びらを優美に広げた八重桜の樹は、朝の光の中で堂々としたたたずまいを見せてくれる。
「まだ八部咲きくらいだしさ、もうちょっと楽しめるよね。なんかさあ、すっごい得した気分」
「だな、」
毎年のように、気づけばあっという間に過ぎ去ってしまう花々の咲き誇る姿を、多少は遠目とは言えこうして手近な距離で楽しめるのはやっぱりうれしい。
たっぷりとした生地のパーカーの袖口から顔を覗かせた指先ですうっと指し示すようにしながら、恋人は答える。
「あすこの木さあ、桜なんだよなって、年明けくらいに気づいて。教えてあげよっかなって思ったんだけど、やっぱ黙ってよって思って。その方がさ、春になってからびっくりすんじゃん? うれしくて」
にいっと得意げに笑いかける頬は、かすかな薄桃の色に染まる。
「……おまえらしいな」
「でしょう?」
得意げに笑いかける顔を横目に眺めながら、湯気を立てるカップにそっと口をつける。
「もっと近くで見る?」
「んー、」
わざとらしく渋るようにしながら、あやふやににじんだ言葉を紡ぐ。
「よくない? ここで。なんかさ、近づきすんのもあんましだなって」
「周らしいや」
「――ありがと」
ぽつりぽつりと答えながら、ほつれた指先をそうっと重ね合わせる。
お互いに新しい場所へと移り住むための準備に明け暮れた、例年よりもずっとあわただしかった去年の春のことを不意に思い出す。
急ぎ足で駆けていくこちらのペースにあたかも併走するかのように、この季節に彩りを添えてくれる花々も例年よりもずうっと早く咲き誇り、その姿をかき消していった。
「今年はもうさすがに降んないかなぁ、雪」
「どうだろうな」
「今度はみれるといいね、いっしょに」
ごくあたりまえといわんばかりのおだやかさでかけられる言葉に、心はやわらかに軋む。
あれから一年の後、あの頃とはちがう場所で、あの頃と変わらないもの・変わりゆくもの、その両方をこんなにもおだやかに胸に抱いたまま、こうしてまたふたりで生きている。
去年のいまごろを過ごした部屋にはもうきっと、ふたりのことなんて知るはずもない誰かが住んでいる。
いつもどおりにいやに念入りにさますようにしながらちびちびとコーヒーカップに口をつける恋人の姿を横目に眺めたまま、周は答える。
「伏姫くんからさ、連絡きてて。元気にしてるって。向こうも満開だってさ、桜」
「へえ」
うれしそうに瞳を細めて笑う姿に、まぶしさがじわりとにじむ。
「見せてもいいってさ、おまえにも」
「わざわざ言わないでもいいのにね」
くすくすと屈託なく笑いながら、続けざまに紡がれていくのはこんな言葉だ。
「ほんっとさぁ、ちょうかわいいよね」
「まぁ、」
当人にしてみれば不本意な感想なことくらいは、百も承知の上で。
「一年経ったんだね、もう」
「だな」
誰よりも大切な相手とともに生きていくため、すこしだけ不安げなようすで――それでも、いままで目にしたどんな姿よりもずうっと誇らしげな笑顔をたずさえて遠い異国へと旅立っていく姿を見送ったその日のことをありありと思い返す。
あっという間だった、なんてすこしも思わない。
心の奥底で揺らいでいたやわらかであやういかけらのひとつひとつ。きっと、自分ひとりでなんかとうてい見つけることの出来なかったそれらを拾い集めて、磨いて、こぼれ落ちてしまいそうなそれらをみな、ポケットの中に大切にしまって。
そんな風にして、たがいの呼吸のリズムを合わせあうようにしながら大切に大切に、いつくしむように積み重ねてきた末に手にしているのが、何よりも確かな「いま」であることをちゃんと知っているから。
「いい天気だしさ、あとでまた散歩いこうよ。橋の向こうにおっきいスーパーできたじゃん、ホームセンターとくっついてるとこ」
「洗濯と窓掃除終わったらな」
「手分けしてすればいいじゃん、ね。またじゃんけんする?」
空いたほうの掌でくしゃくしゃと頭をなぞってやれば、いつもどおりのあの、屈託なんてかけらも感じさせない、いつくしみだけを溶かした笑顔がたおやかな日射しの中へと溶かされていく。
あと何度こんな風にめぐる季節を繰り返して、やわらかに咲きこぼれる花たちをこうしてふたりで見届けることが出来るのだろう。
これからもそれがずうっと続けばいい。願うことが許されるのなら、このちっぽけな『人生』らしきものが尽きてしまう、その日まで。
「ね、どしたの周」
「……あとで話す」
「そっかあ」
先延ばしにした言葉の変わりのように、いびつに震えた指先をもう一度そうっと結び直す。
さざめくような風に揺らされながら、白い花びらは無数に舞う。
ちかちかとまたたく朝の光にくるまれながらしきりに降りしきるその姿はまるで、ここからはじまるあたらしい道筋を照らし出すささやかな星の光のようだった。

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