風邪をひいたひょうしに
熱にうなされた頭はのぼせたみたいにぼうっと熱くて、それなのに、相反して身体はぐるぐるに重たい毛布を巻きつけてなお、妙な寒気に襲われていびつに震える。喉は何かがつかえたみたいに息苦しくって、身体中からはオイルを挿し忘れたロボットみたいな軋んだ鈍い痛みが訴えかけてくる。
ああもう、嫌だなぁ風邪って。
なによりもの一大事は、誰よりも大切な相手の顔がちゃんと見えないことだけれど。
「イオンウォーターの粉末あるから、お湯に溶かして飲んで。机の上にあるから。あと、冷蔵庫に牛乳寒天とプリンあるから。昼はレトルトおかゆ買っといたからそれ食べて。あと、財布置いといたから病院行くならそこから出していいから。しんどかったらタクシー呼んでいいから」
矢継ぎ早に告げられる言葉に、こくこくと頷きながらじいっと耳を傾ける。
ああもう、声は幸いちゃんと聞こえるけれど、ぐらぐら無様に滲んで揺れる視界ではどんな表情で伝えてくれているのかなんて、なによりも大切なことがすこしもわからない。
「……あまね、」
かすれてくぐもった声を必死に振り絞るようにしながら、ぶざまな言葉を紡ぐ。
「ごめんね、仕事大丈夫?」
「連絡したから、遅れるって。平気だから、ちょっとくらい」
答えながら、几帳面にきっちりとボタンを留めたカフスからすらりと伸びた掌はゆっくりと汗ばんだ額をなぞりあげてくれる。
「休めなくてごめんな、早めに帰るから。いるもんあったら連絡して」
「うん、」
「帰ったら飯作るから。あとなんかいるもんあった? なんかまんがでも借りてくる?」
「進撃の巨人の続き、読んでないやつ」
「余計に具合悪くなりそうだからやめとこうな」
苦笑いとともに、汗ばんだ掌をぎゅっと握りしめてくれる優しい感触に酔いしれる。
ああ、こんな感じだったよなそういえば。もうとっくに大人になったから、すっかり忘れ去っていたけれど。
こんなにも心細くない、それどころかなんだか不謹慎でもほんのすこしうれしく感じるような風邪の日が来るだなんて、全然予想できるはずもなかった。
「……ごめんね」
「謝んないでいいから、はやく治して元気になろうな」
「俺もがまんするから、周もがまんしようね」
「わかったから」
呆れたように笑う顔を、滲んだ視界でぼうっと眺める。
早く元気になれるのに越したことはないけれど、こんな時間だってすこしくらいは悪くもない。
ただいまの、そのあとで
綿密な計画の末の定時ダッシュののち、足早に用事を済ませて我が家へと帰り着く。
さてはて、報告のLINEは都度届いていたけれど(39℃の体温計の写真を目にした途端、裏腹にこちらの肝が冷えるような心地になったのは仕方あるまい)、様子はどうやら。
「ただいま」
寝ていたらかわいそうだから、どうにか起こさないように。いつもよりも丁重にドアを押し開き、うんと控えめのボリュームでぽつりと呟く。
……よっぽどのことがなければ欠かさないでいてくれる玄関までのお迎えがないあたり、わかっていてもやっぱり寂しい。いや、この状況で迎えに来られでもしたら、逆に怒るところだけれど。
「……忍」
遠慮がちにベッドルームの扉に手をかけながら、そっとようすを伺う。明かりの落とされた壁際のベッドには、ひとりぶんの小山が出来ている。
「おかえり、周。ごめんね、いろいろ……」
かさかさにざらついた声をあげながらベッドサイドの明かりがそうっと灯される。途端に浮かび上がるのは、もぞりと布団の隙間から姿を現した赤らんだ顔がぼんやりとこちらを捉えてくれる姿だ。
「気にすんなって言ったろ」
ドアの脇へと邪魔な荷物を投げ置くようにして、そろそろと足早にベッドへと近づく。
「ごめんな、遅くなって。ちゃんと薬飲んで寝てた? しんどくなかった?」
「まだちょっとしんどいけどたぶん平気。インフルじゃないってさ」
得意げに笑う顔を前に、汗ばんだ額にはりついた前髪をゆっくりとはらってやる。
「めし食えそう? 食べたいもんある?」
「おうどん。やらかくしてふわふわのたまごいれたの」
「できたら呼ぶから、ちょっと待っててな」
「うん」
名残を惜しみながらベッドサイドの特等席を離れ、ドアに手をかける──そんなタイミングで、引き止めるような声がかかる。
「あまね、」
「おう、どした」
向き直るこちらを前に、精一杯ににっこり笑いながら恋人は答える。
「マスクしないとだめだよ、うつるじゃん」
「……ん、」
真面目なんだよな、こういうとこは。
呆れ笑いを浮かべながら、投げ置いた買い物袋とビジネスバッグを手にひとまずは台所へと急ぐ。
ああもう、だろうと思ったけれど。
思わず大げさに嘆きながら、買い物袋の中身を冷蔵庫へと順番にしまっていく。視界に映し出されるのは、水切りかごに行儀よく並んだぴかぴかの使用済みの食器だ。
浸けておいてさえくれればこちらで洗っておくのに、なんでそんな、こんな時まで。
(やっぱり買わなきゃな、食洗機。)
決意を固めながら、深々と息を吐き出す。
だってほら、面倒な家事を任せられればそのぶんだけふたりの時間も増やせることだし、まあそこは。
つめたくしてね
なんとはなしにおかしいな、とは思ったのだ。
休日の朝、目覚ましいらずでいつでもすっきり目を覚ますはずの彼氏がめずらしく起きない、それになんだかいつもよりもわずかに触れ合った体がぼんやり熱い。
あれ、きのう頑張ってもらいすぎた? オーバーヒート? いやいや、そうじゃなくて。
ひとまずは貴重な寝顔を間近でぼうっと眺めていれば、いつもよりも心なしか赤く火照った瞼がふるふると震え、王子様のお目覚めを教えてくれる。
「……おはよ」
「周、おはよう」
答えながらぎゅうぎゅう抱きつくと、やっぱりあからさまに熱い。
「……どした」
声色はぶっきらぼうだけれど、跳ね除ける意思なんてなにもない。
いつものそれよりもなんとはなしに掠れてざらついた声にさわさわと心を揺らされるのを感じながらそうっと声をかける。
「周、なんか熱いよ。しんどくない?」
「……かも、わかんないけど」
「待って、」
ゆっくりと額をくっつけると、あからさまにぼうっと熱い。
「熱あるよ、たいへんじゃん」
そういえばきのうの晩、なんだかいつもよりもぼんやりしたようすに見えたのは? こちらを捕らえてくれるまなざしがわずかに潤んでいるように見えたのは? 気持ちの高鳴り、なんてもので手短に片付けてしまっていた思い当たるいくつもの節を前に、わあ、と悲鳴じみた声をあげたくなる。
「……まじか」
諦めたようにぽつりと答えると、ちいさくごめん、と囁くのと同時に、ぐっと強く力を込めて跳ね除けられる。
────え、それはちょっと派手にショック。
呆然とするこちらを前に、てきぱきと跳ね起きながら恋人は答える。
「すぐ病院行く、気づかなくてごめん。おまえシャワー浴びて着替えて。あと、着替えたらでいいからマスクして、すぐ」
「いっしょに行く?」
「いいよ、うつるだろ。悪いけど家のことしといて、また埋め合わせするから」
てきぱき喋りながら、いつもよりも僅かばかりによろめいた足取りでベッドを抜けでる。
後に残された身に残るのは、ふたりぶんの体温でぬくまった毛布(心なしかいつもよりもぼんやりあたたかい)とところどころが滲んでぼやけたままリフレインする昨晩の余韻だ。
なんでこうも要領がいいんだか、うちの彼氏は。いや、そんなところも好きだけれど。(そりゃあもう死ぬほど)
「あまね、」
よろよろとおぼつかない足取りで起きながら、素早く着替えて出かける支度を始めている背中に声をかける。
「無理しちゃだめだからね。買い物行ってくるから、お医者さん終わったら周はまっすぐ帰ってきてね。やることあったらちゃんといってね、無理しちゃだめだよ」
頼れる背中は、こくこくと頷くことで答えてくれる。
……ちょっとくらい甘えてくんないかな、などと思うのはあながち贅沢ではないはずだ。
まあなんにせよ、お大事にということで。