春の名前の続き
名前があることを知ると、それだけでぼんやりと形のないものが色づきはじめるのをこの身体と心はなにもかも知っていた。
たとえばこの腕の中にいる相手は、互いに恋をしている相手だから『恋人』だなんてことを。
やわらかに潤んだまなざしをじいっと見下ろしながら、くしゃくしゃの髪を指でそっと掬ってはなぞる。
撫でたいくらいにかわいらしいから撫子――ほんの少し前の、短い散歩の最中に教えてもらった火花を散らしたようなあざやかな花の姿をぼんやりと思い返す。
撫で回したいくらいにかわいい、だなんて思う気持ちが自分にもあったんだよな。それを知った時の驚きと戸惑いは、いまだにありありと思い返せるほどだった。
理性だとか本能だとか欲望だとか、そんな様々なぶかっこうで剥き出しの感情がないまぜになったみたいなひどくらんぼうで子どもじみた横暴な気持ちを感じるそのたび、いまだにめまいがしそうになるくらいに息苦しくなる。
押し潰してぐしゃぐしゃにしたい――なんてわけじゃないから。
不器用に身体を浮かせて、精一杯に気遣うつもりでじいっとようすを伺って、言葉でそれを確かめて――でもそんなのきっと自己満足に過ぎなくて。
不安や恐れをかき消してくれるのはいつだって、寄り添うように高まる体温や、やわらかに潤んで重なり合う肌の感触、きつく伸ばされる掌、そのひとつひとつだ。
「……あまね、」
花みたいにぼうっと染まった顔が、じいっとこちらを見ている。射止められるようなそんな心地になりながら、つられるようにぴたりと動きを止める。
「ごめん、痛くしてた?」
鎖骨の上を這わせていた舌の動きを止めて、そっと問いかけてみる。傷付けないように、痕を残さないように。気遣っているつもりでも、いとおしいと思う気持ちはたやすくブレーキを壊してしまうから。
「……ごめん、ちがう」
「あやまんな、」
すこしだけムキになったふうを装いながら、ぎゅうっと耳を塞いで睨みつける。
あまく潤んだ瞳は期待に満ちた色を宿しながらかすかに震えていて、とくとくと心を震えさせる。
「……なんでだろね、好きだなって思うと呼びたくなる。周って」
「――ありがと」
ばつが悪いような心地に襲われながら、力なく答える。
「照れてんの? かわいい」
くしゃくしゃに笑いながら、汗ばんだ掌は植物の蔓みたいに自在に伸びて、こちらの背中にぎゅうぎゅう絡みつく。
「そうだよ」
得意げに答える忍の顔だって、花の色を溶かし込んだみたいにますますぼうっと赤い。
「……かわいい、好きだよ」
「うん、」
こんな時はなんて答えるのが正解なんだろう、ほんとうは。
無骨な相槌で答えると、言葉を塞ぐみたいにらんぼうに口づける。やわらかくこちらを絡めとる舌の痺れるようなあまさと吐息のあたたかさに、心ごと重たく沈められていくみたいにくらくらする。
何度したって慣れるわけなんてあるはずもなかった。いとおしさは繰り返すたびに目減りするどころか、ますます募っては膨らんで、行き場をなくすばかりだ。
「忍、」
「……うん、」
見つめ合ったまま、盛り上がった鎖骨を指先でするするとなぞる。
「好きだよ」
「……ありがとう」
途方もない安堵感に包まれるのを感じながら、そっと唇を落とし、舌を這わせて形の良い骨の感触をなぞる。
指先は敏感な箇所をなぞり、舌は肌の上を伝う。
シーツの上では、まるで逃げ出すのを恐れるように、不器用に汗ばんだ脚が絡み合う。
ゆるやかな拘束は、互いを閉じ込め合う檻のようだ。
変わったよな、といまさらみたいに何度もそう思う。ほんとうに、はじめてこんな風に許された時とまるでちがう。
まなざしの心地よさ――だけなんかじゃない。あの頃とはまるで身体そのものが違う。どこまでも沈み込んでいくような、重ね合わせた肌のやわらかさも、互いにおなじぬくもりを分け合っていく掌や唇を伝う熱も、自らを受け入れ、繋がり合う時に感じる心地よい息苦しさも。
どこまでもどこまでも、沈み込んでやわらかに溶けてしまいそうに心地良くて――それなのにこの境界は決して溶かされなくて。
こんなふうになるだなんて、ほんとうに思いもしなかった。こちらの気持ちを見透かされて、悪戯に手を伸ばされたあの時とはもうまるでちがうのをお互いがなによりも知っている。
――愛されてるよな、ほんとうに。
自惚れなんかじゃなく、なによりもそれを感じるのがこんな瞬間だった。この素直な身体はなによりもそれを全身で教えてくれるから、肌を重ねるたびにその思いは強まる。
それでも、その心地よさはあっけなく溶けて消えてしまう魔法なのを誰よりもお互いに知っているからこそ、懲りずに何度も繰り返す。
飽きれるほどに愛していて、なんどこうしたってどうしようもなく足りない。
「……あまね、」
「ん?」
息苦しそうに、それでも精一杯に忍は笑ってみせる。
ああもう、ほんとうにかわいいな。こんな顔、きっといままでほかの誰にも見せたことがないんだろうな。
こんなふうに忍を愛してもいいのはいままではきっと周だけで――たぶんきっと、この先もそうで。子どもじみた独占欲は、確信するたびに抱えきれないほどの募るようないとおしさに変わる。
「……どしたの」
「なに?」
ゆっくりと髪をかきあげながら尋ねれば、細められたまぶたでじいっとこちらを見つめながら、濡れた吐息がぽとりと落とされる。
「笑ってるから、周」
「怒ってるほうがいい?」
「ちがう……けどいい、どっちでも」
なにひとつ余すことなく愛しているから、それでいい。
許されていると教えてくれるまなざしとはだかの心に、さわさわと音もなく心は揺らされていく。
「……でもうれしい、笑ってると」
「俺もだよ」
額と額を擦り合わせるようにしてじっと見つめ合いながら、確かな気持ちをそうっと重ね合わせる。
ほんとにちゃんと返せてるのかな、なにかひとつでも。こんなにもなにもかももらってばかりで、息苦しくなるほどだから。
「あのさ、」
「うん?」
いいこいいこをするみたいに汗ばんではりついた前髪をかきあげながら、そうっと尋ねてみる。
「ちゃんとしてる? 俺は」
相応しいとそう言えるだろうか、恋人として。
「決まってんでしょ、五百点だよ」
「……あますぎんだろ」
あきれたように答えながら、絡ませた腕の力をぎゅうぎゅう強める。
恋をしている相手だから、恋人。
それでも恋はそもそもひとりで身勝手におぼれるものだから、ふたりでその気持ちを寄せ合う同士だけがお互いをそう呼ぶことを許される。
言葉ってすごいな、ほんとうに。
――でもそれなら、この恋がすべて溶けたらその先でふたりはなんになる?
この先、この国の仕組みやしきたりが変わればきっと自分たちだって名前のついた何かになれる――でもきっと、そんなことなんかじゃなくって。
「……周はさ、」
言葉にできないわだかまりに揺らされていれば、陶然に溺れるまなざしは、もつれあった指を絡ませたまま、淡く滲んだ吐息混じりのあたたかな言葉を肌の上へと落とす。
「じょうずになったねって言ったら怒る? ほんとのことだけど」
つられるように、みるみるうちに頬は熱くなる。
偽りなくほんとうのことだとそう思う。おっかなびっくりに抱いていたのはたしかだし、経験らしきものもほとんどないほうだった。
高め合うすべならどことなくわかっていても、慈しむすべなんてすこしもわからなくって、いつだってずっと手探りで――愛してもいいと教えてくれたのは、なんどもこうしてきたからだ。
「……怒ってどうすんだよ」
それでも、照れてしまうこと。その結果、すこしばかり口ぶりが荒っぽくなってしまうことはどうにか許してほしいのだけれど。
「おまえだってそうじゃん」
耳元に唇を寄せ、あまやかな囁き声をそうっと注ぐ。
受け入れてくれてありがとう、ほんとうに。
この腕の中でやわらかく満ちていく身体がなによりものその証だと、なによりもそう信じているから。
気怠くて心地よい眠りからゆっくりと目を覚ますと、薄い明かりに包まれていた部屋の中の空気はすっかり一変していた。窓から差し込む光はすっかり翳り、夜の帳が静かに満ちはじめている。
傍からつたうぬくもりは、水底にたゆたうように心地良く気怠いこの身体にひたひたと染み渡るように優しい。
「……あま、ね」
ふるふる、と音もなく震えるうすく色づいたまぶたはぱちりと開くと、おぼろげにこちらを捉えてくれる。
「ごめん、つかれた?」
「ううん、へいき」
にいっと笑いながら、温まった身体を猫みたいに無邪気に擦り寄せられる。ほんとうに、腹が立つくらいにどうしようもなくかわいい。
いいこいいこをするようにくしゃくしゃの髪を撫でてやれば、くしゃくゃの無防備な笑顔がかぶせられる。
「まだ眠かった? ごめんな、起こして」
「……いい」
ぶん、と勢いよくかぶりを振ると、逃さない、と言わんばかりにぎゅうぎゅう抱きしめられる。
「もったいないから起きる。そんでこうしてる、あまねと」
「わかったわかった、いいから」
宥めるようにぽんぽんと背中をなぞれば、こくこくと頷くいい子のお返事が返される。
――ああもう、一生こいつには敵うわけがない。
(それで構わないと思っているあたり、なんだかもう)
これから先立ってきっと、こんなふうに何度も繰り返し繰り返し、飽きることなく恋をするのだ。
それはきっとなによりもの、確かな『名前』の授けられた幸福な確信だった。
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