りんちゃんと周くんがお散歩するお話
子どもの掌はちいさくてやわらかくて、たよりない。
こわごわと差しのばしたそれに触れるその度に、とっくの昔に失ったと思っていたはずのかけがえのないもののことを思い起こしそうになる。
「それでね、幼稚園の近くの道にとりさんがいる手すりがあるの。ここに車がきちゃだめですよってしるしなんだって。とりさんはいつもかわいいおようふくを着ててね、いまはおはなのついたぼうしとマントを着てるの」
「へえ」
「あまねくんは知ってる?」
「江ノ島の駅前でみたことがあるよ、それといっしょなのかな」
「そうなんだぁ、いいなぁ」
何でもないような相槌まじりの返答にも、たちまちにきらきらと輝きに満ちた言葉がかぶせられるのだから、照れくさいような気持ちを抑えきれない。
「りんのおうちの近くにもね、この先に公園がありますって案内の板の上にりすさんがいるの。りんは背が大きくなって届くようになったから、りすさんに会うとなでなでしてあげるの」
「りんちゃんは優しいんだね」
「だってかわいいんだよ?」
くすくすと笑いながら答えてくれる姿を前に、思わずうっとりと瞼を細める。
いい子なんだよな、ほんとうに。なにせ、こんな自分にだって心を開いてくれるくらいなんだから。
大切な友だちの今年で四歳になる、何よりも大切な一人娘。
そんな彼女がまっすぐに恋い焦がれる『王子様』と、長年ともに過ごすパートナー。
疎ましく思われたっておかしくないはずの自分にこんなふうに心を許してもらえている理由が何なのかなんて、周にはいつまでたってもわからない。ただひとつ確かなことがあるのだとすれば、こうしてともに過ごさせてもらえる時間をたまらなくいとおしく感じているのだということ、ただそれだけだ。
歩くスピードや歩幅、会話のペースや返答の内容、手を握る強さ。
幾度となく過ぎるちいさな不安や迷いはいつだって、輝くようなあかるくおだやかな笑顔が包み込んでくれる。
「わぁー!」
高らかな鳥のさえずりのような澄んだ声での歓声をあげながら、うんとちいさな指先は宙をさしてみせる。
「あまねくんみて! ほら、ミモザがまんかい」
視線のその先では、見知らぬ民家の軒先からあふれんばかりの勢いでぽんぽんとちいさな綿毛が寄り集まったような黄色い花をびっしりとつけた枝が垂れ下がっている。
「かわいいねえ、ふわふわしてる」
うれしそうに瞼を細めて見上げる姿に、ぎゅっと胸の奥を掴まれたような心地を味わう。ほんとうに、こういう気持ちはどんなふうに言葉に表せばいいんだろう。
「りんちゃんはミモザが好き?」
「うん、黄色くてぽわぽわってしてるのがかわいいでしょう」
「そうだね」
そういえば最近、雑貨屋の店先なんかでもミモザの花があしらわれた小物や洋服を目にすることが多くなった気がする。ああいう流行っていったい誰が決めてるんだろう。
あてどなく思考を巡らせていれば、じいっとこちらを見上げるまなざしとともに、すこしだけたよりなげな言葉が洩らされる。
「でもりんは菜の花とチューリップもかわいいから好きなの。あまねくんはなんのおはなが好き?」
――気を遣わせたな、きっと。一匙ばかりの申し訳なさを胸に、取り繕うようにぎこちなく笑いながら答える。
「かすみ草かな」
「りん知ってる、白くてちっちゃくてぽわぽわってしてるやつでしょ」
「すごいね、よく知ってるんだね」
答えるかわりのように、満開の花が一気に開いたかのようなやわらかな笑みが返される。
「でもしのぶくんはもっとたくさん知ってるんだよ、りんもね、しのぶくんにたくさん教えてもらったもん」
「そうだね」
「あまねくんも教えてもらったの? しのぶくんに」
「うん、」
やわらかに頷くことで答えてみせれば、すこしだけ複雑そうな色を帯びた笑みが返される。
「忍くんはね、」
じいっとこちらを見上げてくれるつぶらなまなざしに見入られるような心地になりながら、ゆっくりとたぐり寄せるような心地で言葉を洩らす。
「りんちゃんが幼稚園やおうちであったことを教えてくれるのがすごく楽しいんだって。りんちゃんよりもずうっと大人だからそのぶん知ってることはたくさんあるけれど、りんちゃんが毎日見ているものとおなじものは見られないからね。だから、りんちゃんがあたらしく見たり聞いたり感じたことを教えてもらえるのはすごく楽しいんだって。これからもたくさんいろんなことを教えてほしいって、そう言ってたよ」
答えながら、いつかのその時が脳裏にありありと描かれていくのを感じる。
「……ほんとう?」
「ほんとうだよ」
舌っ足らずですこし震えた頼りない返答に精一杯の笑顔で答えれば、返事の代わりのように汗ばんだやわらかな掌がぎゅっとこちらのそれを握り返してくれる。
大好きなんだな、ほんとうに。どこか罪悪感にも似たあまい息苦しさがせり上がってくるのを感じながら、視界の端を通り過ぎていくレゴブロックを積んだみたいなパステルカラーの家々や古びた病院、青々と草木の生い茂る空き地をぼうっと眺める。
ひどくありふれたこんな光景をそれでも新鮮に思えるのは、隣にいてくれる相手がいてくれるからこそなのを、もうずうっと前から知っている。
「前にしのぶくんとおでかけした時におはなのお店があったの。青いテントの屋根のお店でね、かわいいお花がお店の前にたくさんあってみいんなおしゃれできれいに並べてあって、おねえさんがお世話してあげてたの。それでりんがかわいいっねて言ったらいっしょにみようねって言ってくれてね、りんにおはなをくれたの」
「へえ」
そういえば言ってたな、そんなことがあったって。おみやげにと手渡されたちいさな花束はとっくにしおれてしまってお別れを告げたきりだけれど、あの日のささやかな思い出はいまも色褪せないままだ。
「しのぶくんね、りんにはいどうぞってお花をくれたの。王子さまみたいだなぁって思ってりんはすごくうれしかったの」
頬を上気させ、うっとりと瞼を細めてみせながらささやかれる言葉に、こちらまで心を温められてしまうのを抑えきれない。
「りんちゃんは忍くんのお姫様だからね」
「ええ~」
「俺だってそう思うけどなぁ」
「わぁ~!」
こらえきれない照れくささにむず痒いような不思議な心地を味わっていれば、包み込むようにやわらかな満面の笑みがこちらを迎え入れてくれる。
「あまねくんも王子さまでしょう?」
「そうかなぁ」
照れくささをこらえるようにしながら尋ねれば、得意げな笑顔がたちまちにこちらを包む込む。
「言ってたもん、しのぶくんが」
「あぁ、」
ばつが悪いような心地から、思わず不自然にそっと目をそらしてしまう。
子ども相手にそんな。いや、らしいとしか言えないし、うれしくないわけではないのだけれど、そこはまぁちょっと。
戸惑いを隠せないこちらを前に、たっぷりと自信で満ちあふれた明るい言葉は続く。
「しのぶくんはあまねくんが大好きでしょう」
「りんちゃんのことも大好きだよ」
俺だってそうだし。照れくささから付け足すようにぽそりと答えれば、ぱっと花の咲いたような軽やかなあかるい笑みが広がる。
「そっかぁ~」
ふふふ、と得意げに笑う表情に、なぜだか裏腹のあまい息苦しさがふつふつとこみ上げてくるのを感じる。
もうこれから先ずっと触れるはずのない感情のはずだと決めつけていた、それなのに――自ら望んで『切り捨てた』はずのやわらかくあまやか痛みは、相反するようなぬくもりをいつだってこちらに教えてくれる。
「りんちゃんは忍くんとなにをしてるのがいちばん楽しい?」
「うーん」
こちらをじいっと見上げたまま、感慨深げなようすでちいさなお姫様は答えてくれる。
「おえかきも楽しいでしょ、どうぶつえんとかすいぞくかんも楽しかったでしょ、おおきい公園も楽しかったでしょ、みいんな楽しいの。しのぶくんといっしょにいておしゃべりしてるといっつも楽しいみたい」
「そうなんだ」
わかるよ、という言葉を胸の奥にぐっと飲み込む。そうだよな、ほんとうに大好きなんだから。どんな瞬間だっていとおしくって大切な時間なのに決まってる。
「でもしのぶくんはほんとに楽しいかなあってちょっと思うの。りんはちいさいけどしのぶくんは大人でしょう?」
こちらをじいっと見上げながら告げられる言葉の奥には、ほんのわずかな翳りの色が覗く。
「そんなことないと思うよ」
「そうかなぁ」
いまだ不安げに揺れるまなざしをじいっと見つめながら、つとめてきっぱりとあかるく答える。
「忍くんいつも言ってるよ、りんちゃんとこんなことして遊んだ、こんなこと話した、次はいつ会えるのかなぁって」
――これはほんとう。年齢も性別も境遇もまるでちがうのに、なぜだかこのちいさなお姫様と我が家の王子様は不思議とうまがあうようなので。
「わぁ~!」
満面の笑みで告げられる言葉に、思わずこちらも頬がゆるむのを抑えきれない。
「あまねくんねえみて、チューリップだよ!」
固くつないだ掌をぎゅっとひっぱりながら、ちいさな指先は満開に咲き誇るレンガ作りの花壇を指し示してみせる。
「すごいねえ、かわいいねえ」
赤に黄色に白にピンク。絵の具のチューブをそのまま出したみたいなぱっきりと鮮やかな明るい色は、視界に飛び込んでくるだけで不思議と心を温めてくれる。まるで絵本の世界がそのまま飛び出してきたみたいにまぶしくてあかるい。
「幼稚園でもチューリップを育ててるの。みんなで球根を植えてお水をあげたの」
「りんちゃんは何色のチューリップが好き?」
「ピンク! でもあかむらさきも大人っぽくてかっこいいでしょう」
「大人っぽいのも好きなんだ」
「うん、かっこいいもん」
「へえ」
感心したようすで答えれば、得意げな笑顔がこちらをやさしく包み込む。
――こういうところなんだよな、なんていうか。どこかの誰かに似ていなくもない……とでもいえばいいのだろうか。
「あまねくんはなにいろが好き?」
「あぁ、」
考えたことがなかった、そんなこと。思わず面食らうこちらを前に、にこにことうれしそうな満面の笑みがこちらを待ちかまえてくれている。
「白かなぁ。なんかこう、落ち着いた感じがするから」
「しろ!」
元気いっぱいに復唱してみせるその姿は、なぜだかとても誇らしげだ。
「しのぶくんは何色なのかなぁ」
「どうだろう、聞いたことないからなぁ」
こんなに長くいっしょにいるはずなのに、知らないことってまだ案外あるもんだ。
「あとで教えてもらおっか」
「うん」
思わずそっと瞼を細めながら、通り過ぎていく見知らぬ誰かの長く伸びる影にぼうっと視線を落とす。
「りんちゃんほら、ユキヤナギが咲いてるよ」
河川敷へと続く散歩道を歩くそのうち、緑一色だった道沿いが一面に文字通り、雪をかぶったように真っ白に染め上げられる。
決して溶けることのない雪――風に揺られながら小さく可憐な花が咲き誇るそのさまは、儚さを連想させるその名とは裏腹にどこか堂々とした力強い美しさを感じさせてくれる。
「かわいいねえ。ちっちゃいおにんぎょさんのお花みたい」
「そうだね」
「お花の赤ちゃんみたい」
いとおしげに瞼を細めるようにしながら、うんとちいさな指先がくすぐるようなやわらかさで溶けない雪に触れてみせる。
ちいさな子どもとこうしてそばにいると、こんな風にしていつのまにか失ってしまった視界をすこしだけ分けてもらえるのだということにいまさらのように気づく。
「こういうお花の名前って誰がつけたかのかなぁ。神さまが最初からつけてみんなが知ってるわけじゃないもんね」
もしそんなことが起こりうるのなら、それはそれで大変おもしろい現象ではあるのだけれど。
「学者さんとかじゃないかな。はじめに見つけた人がたくさん花のことを調べて、それでこう呼べばいいんじゃないかっていうのを決めるんだと思うよ」
――おおむね間違ってはいないと思うのだけれど、たぶん。どこか気弱な心地のまま答えれば、そんなこちらのわずかなくもりをたちまちにかき消すかのように、うんとうれしそうに明るく笑いながら、目の前の女の子は答えてくれる。
「すごお~い」
目を輝かせながら、まばゆく光り輝くような言葉は続く。
「おとうさんおかあさんがみんなにいるんだね、りんといっしょだね」
「……そうだね」
誰しもが、それぞれにさまざまな思いや祈りを込められた名前を持っている。だからこそ、ただひとりの『その人』であることを証明してもらえる。
「あまねくんあのね、りんね」
どこか誇らしげに伸びやかに咲き誇る季節の花々をうっとりと眺めるようにしながら、ちいさなお姫様は答えてくれる。
「お花が咲いてるといつもしのぶくんになんて名前なのか教えてもらうの。パパもママもいっぱい知ってるけど、しのぶくんはもっとたくさん知ってるの。りんだってしのぶくんにおしえてあげたいのになぁって思うけど、しのぶくんのほうがいつも知ってるの」
「……うん、」
「だからね、いつかりんがしのぶくんもしらないお花のことを教えてあげられたらいいのになぁっていっつも思うの。そしたらしのぶくんはお花のこと見るたびにりんのお花だなぁって思ってくれるでしょ?」
答えながら汗ばんだ掌をぎゅうっと握りしめられると、ふつふつと言葉にならないような気持ちがあふれ出してくるのを感じる。
――こんなに小さいのになんで知っているんだろう、誰かに教わったなんてわけじゃないはずなのに。こんなにも誰かをまっすぐに好きで、相手にとっての特別でありたいと思う気持ちのことを。
「あのね、りんちゃん」
不器用に背を折り曲げ、視線の高さをあわすようにしながら周は答える。
「忍くんはさ、りんちゃんに教えてもらわなくてもりんちゃんと一緒に見たなあってことだけできっといろんなことが特別に大切に思えてるはずだよ。お花だってそうだし、遊びにいった場所もそうだし。だからこれからもりんちゃんと一緒に思い出がたくさん作れれば、きっと忍くんが見るものみんながりんちゃんでいっぱいになるよ」
――ずっとそうだったから、自分自身が。まるで言い聞かせるような心地になりながら答えれば、たちまちに心の中はふつふつとおだやかな思いに満たされていく。
「りんだけじゃないの? しのぶくんも?」
どこか頼りなげな不安と期待――その両方が綺麗に溶け合うかのような不可思議な瞳の輝きをじいっと見つめながら、きっぱりと明るい口ぶりで答えて見せる。
「俺だってそうだよ。これからきっとミモザを見ればりんちゃんだなって思うし、ピンクのチューリップやユキヤナギにもおんなじことを思うよ。きのうまではぜんぶふつうの花だったのに、きょうからみんな、りんちゃんとみた大切な花になるから。忍くんだってきっとおんなじだと思うな」
「そっかぁ~」
花のほころぶようなやわらかな笑顔に包み込まれると、たちまちに心ごと踊らされるような心地よさに包み込まれる。
「そろそろ忍くん帰ってくるよ、おかえりって言ってあげようよ」
汗ばんだやわらかな掌をぎゅっと握り返しながら尋ねれば、上目遣いに得意げな問いかけが投げかけられる。
「りんとあまねくんがデートしてたって聞いたらやきもちやいちゃうかなぁ」
「どうだろう。俺も入れてーって言うかもしれないよ?」
「りんがあまねくんのことひとりじめだもんね」
瞼を細めたやわらかな笑顔に、射抜かれるような心地よさを味わう。
「ねえあまねくん、ここにもおはなだよ」
ちいさな指先は、道の端にひっそりと咲いたごくちいさな水色の花を指し示して見せる。
「かわいいねえ、なんて名前かなぁ」
ああ、それならたしか――画用紙で切り抜いたみたいに綺麗な花の形をまじまじと見つめながら、記憶の引き出しから探り当てた名前をささやく。
「キュウリ草だよ、葉っぱのにおいがキュウリに似てるからなんだって」
「すごーい。あまねくん、ものしり!」
瞳をまあるくしながら告げられる言葉に、いつかのあの日の影が重なる。
――いたんだ、ちゃんと。出会えるはずなんてもうないと、そう思っていたのに。
「……あまねくん、どうしたの?」
「なんでもないよ、気にしないで」
打ち消すようにやわらかく笑いかけながら、差しのばした掌でこわごわとちいさな頭を撫でる。
笑いながら、ふたりで歩いていく。
この道の先にずっと続いていくはずの、穏やかであたたかな未来を信じるようにと。
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