「ねーねー。じゃあさ、水族館とかってどう? ほら、あたらしいとこ出来たでしょ? こないだ」
カウンターを挟んだ向かい側からは、甘えたような上目遣いのまなざしがじいっとこちらを捉える。人形みたいにぱっちりとおおきな瞳を縁取るようにぐりんと綺麗なカーブを描いたまつ毛にはブルーグリーンのエクステが植えられていて、まばたきの度にちらちらと光に透けるさまは熱帯魚のおびれにもすこし似ている。
いやはや、女の人の身嗜みにかける創意工夫ってすごいよな、ほんとうに。そういった意味での感心ならいまだってなくはないのだけれど。
精一杯の愛想笑いを浮かべるようにしながら、極力滑らかに答える。
「あー、魚って苦手なんですよね僕。においがダメなんで」
いや、自分で言っておいてあれだけど、そんな言い訳ってあり? 思わず苦笑いで誤魔化すようにしながら、傍の同僚に視線だけでヘルプをうながす。
「お客さん、悪いんですけどその辺にしといてもらえます? うち、そーゆー店じゃないもんで。あと、この子ってばこう見えて案外ピュアなんですよ。こんな綺麗なお姉さんに迫られちゃうとキャパオーバーなんで」
「そーそーそーって、こう見えても何もないっしょ? ご覧の通りピュアホワイトなんですけど」
「ええー、どこがー?」
けらけらと明るく笑う仕草につれて、肩までの明るい茶色のミディアムヘアとおおぶりの金色のピアスがしゃらしゃら揺れる。
困ったな、こういうの。客商売なんだから、すこしくらいは慣れているつもりではあったけれど。
「ていうかぜったい遊び馴れてるでしょ? おにいさんの感じなら。そうじゃないとぜんぜんないし、説得力」
ぽってりと艶めいた唇を震わせるようにしながら紡がれるあまやかなささやき声に、ちくりとにぶく胸を突き刺されるような心地を味わう。
あいにくそれはよく言われますね、たしかに。
ふう、とわざとらしく息を吐きたくなるのを必死に飲み込むようにして、ぼそりと小声で囁くように答える。
「好きになっちゃうと純情なんですよね、それが」
日頃の行いのせいとは言え、中々信じてもらえなくてそれはもう苦労をさせられたレベルの。
苦笑いを浮かべたままグラスを磨こうかと手に取れば、引く様子もないままにうわずった声が響き渡る。
「ふーん、そっかあ。良いなぁ」
「なにが、です?」
思わず聞き返すように尋ねてみれば、どこか得意げな笑顔とともに、はらりと花びらがこぼれ落ちるような軽やかさでの言葉が手渡される。
「いるんだなぁって思って、おにーさんの純情が捧げられてるひと」
だってそうでしょ、いまの言い方。ぱちり、とまばたきを落としながら告げられる言葉に、心地よく心の端を掴まれたかのような錯覚をおぼえるのだから不思議だ。
「――まあ、」
嘘を吐いたって仕方ないのだし、ここは正直に。
思わず口ごもるようにしながら答えれば、カウンターの向こう側からはなぜだか、得意げな笑顔がこちらへと向けられている。
「いいなあいいなあ、うらやましいなぁ! まーいいや、ダイキリおかわりちょーだい。失恋記念ね」
「りょーかいです」
愛想笑いで答えながら、格好のチャンスとばかりに背を向けてボトルを探す――仕草に紛れ込ませるように、軽く息を吐く。
なぜだろうか。気まずい気持ちはまだあるのに、それをやすやすと上書きしてくれるかのような得意げな感情に心を揺らされているのは。
どういう感じだったんだっけ、『前』は。
ロッカールームから順に荷物を取り出しながら、思わずぼうっと力なく息を吐く。
良いお客さんでよかったな、ひとまずは。あの後はそんなにしつこく絡まれることもなかったし、お酒も料理もちゃんと楽しんでくれた末にあんなに高いヒールなのにちっともふらつくようすもなく、器用にカツカツ歩いて帰ってくれたし。
この二、三ヶ月ほどの間によく見かける顔になったあの人は、たしか三つ歳上の会社員だと言っていた。
こっちが学生だってことも言ってたと思うんだけどな。社会人からしてみれば、三つも歳下でしかも大学院生だなんてモラトリアムにしか見えないと思うのだけれども。もしかしなくても、子どもをからかって楽しんでるとかそういうノリなんだろうか?
まあいっか、幸い気を悪くすることは無かったみたいだし。いい仕事したなって言っていいんじゃないの? これは。
終電にはまだ余裕があるけれど、せっかくなら散歩がてらに一駅くらい歩いてもいいかな、だなんて思うくらいだ。いや、一秒でも早く帰っていますぐ会いたい気持ちはもちろんあるけれど。
パンパン、とエプロンの埃を手で払いながらいつもそうするように端と端をきっちり合わせて畳んでいれば、いつのまにか隣に立っていた同僚から、どこかしら好奇の色を宿したまなざしがむけられていることにいまさらのように気づく。
「お疲れ様、いまあがり?」
どこかしら緊張を隠せないままに話しかけてみれば、いつになく機嫌のよさそうな笑顔に迎え入れられる。
「大変だったね、きょうのおねえさん」
「ああ、いや」
ぱたん、とロッカーのドアを閉める音を響かせながら、何の気なしをよそおうように答える。
「そーでもないよ? いいお客さんだったしさ。あと、助けてくれたのありがと」
「いやいやいや、べつになんもしてないし? てか馴れっこでしょ、あーゆうの。しーちゃんやたらモテるしさ」
「なーいーって」
ぶんぶんと勢いよく頭を振って見せながら、きっぱりと明るく答える。
正確に言えば、この一年ほどでだいぶ減った、だなんて言った方が正しいのだけれど。やっぱりふつうにしてても出るんだな、オーラみたいなやつって。
「てーかさぁ」
テキパキ、と手慣れた動作で制服を脱ぎ捨てながら、傍の相手は答える。
「水臭いんじゃないのってちょっと思ったわけよ。しーちゃん前に言ってたじゃん? 付き合ってた子とちょっといろいろあったって。あれって結構前の話だったよね、一昨年とか? 俺なりに気にしてたんだけどなぁ~、しーちゃんも結局どうなったかって教えてくんないしさぁ」
「あぁ……、」
答えながら、気まずさにみるみるうちに赤くなるのを感じる。
あれはたしか、まだ周に出会うよりもすこし前。すごく大切で、それ故にあからさまな『終わり』を迎えていても手を離すことをためらっていた相手とのままならない関係について、たしかに話をした夜があったはずだ。
「元サヤだったりすんの? もしかして」
「……ちがうよ」
きっぱりと首を振り、決意を込めるような心地で答えてみせる。
「ていうかごめん、いまさらだけど……。ちゃんと終わりにしたから、あの子とは。もう会わないって、ほんとにそうするって。ちがうよ、だから」
「そうなんだ」
どこか気まずい空気が流れる中、断ち切るようにと努めて明るく、言葉を切り出す。
「知り合ったのはまだその辺の時で――べつにそういうつもりじゃなかったよ、最初は。でもなんかすぐに好きだなーって思っちゃって。向こうもなんか意識してくれててさ――わかるじゃん? そーゆーのって。そんでもってこう……じりじりあって、いろいろと」
あれ? めちゃくちゃ醜態は晒したし、一生悔やむレベルで傷つけたぶんだけ一生かけて取り返さなきゃ、なんてことは常に思ってるけど、話して見るとあんがいあっさりしてるな? いや、そりゃそうか。アウトラインだけなら死ぬほどありふれた話だし。
「ほーん?」
ひるむ様子などかけらもない強く光輝くようなまなざしを向けたまま、きっぱりとあかるく言葉は続く。
「そのいろいろのうちの何色かってさ、こっちには聞かせてもらえたりしないの?」
「気が向いたら?」
肝心な部分に関しては墓まで持っていく覚悟なので、向く日が来ることはまずないのだけれども。
口籠もるこちらのようすに気づいたのか、さらりと明るく笑いながらの問いかけが投げかけられる。
「じゃあいいや、だったら教えて? どんな子なの? もしかしてうちのお客さんだったりする? 俺も会ったことってある?」
「いやないし、ふつうに」
だったら紹介してんだけど、ちゃんと。苦笑いまじりにぶんぶん首を振りながら、ぽつりぽつりと答える。
「ナガミくんの知らない子。もとは友達の友達で――ちょっと怒りっぽくてはずかしがり。でもってめちゃめちゃまじめで優しくて、笑うとちょうかわいい。むちゃくちゃすき」
それに俺のこと、これ以上ないくらいにすごく幸せにしてくれて。
飲み込んだ言葉に、心はどうしようもなくあまく滲む。
「しーちゃんよかったね、しあわせそうで」
「……おかげさまで」
それはそれはもう、ありったけの純情を捧げられるくらいには愛しているし愛されているので。
「あんがと、いろいろ聞かせてくれて。お幸せにな。てかごめんね、引き留めて。早く帰んないとなのにな」
「いーよ」
正直に言えば、わりといい気分にさせてもらったので。
ごくり、と言葉を飲む込みながらめいっぱいの笑顔で答えれば、屈託のないやわらかな笑顔はありのままにそれを受け止めてくれる。
夕方に降った雨の名残だろうか、まだうっすらと湿り気を帯びてまだらに色を濃くした地面からは熱気とともにもわっと生ぬるい独特のにおいがたちのぼる。まだ宣言こそ出てはいないけれど、じきに梅雨が明けるのだろう。
洗濯物が乾くようになるのはありがたいけれど、念々鋭さを増していく刺すような陽射しと、日が落ちても生ぬるくくぐもった空気にまとわりつかれるようなあの季節がまたやってくるのだと思うといただけない。概念としての夏に焦がれるのと、年々亜熱帯気候化の加速するこの土地で生きていくことの話は別物だ。
街灯もまばらな夜道を歩きながら通りがかりに見つけた水滴を帯びていないことを確認したベンチにそっと腰を下ろし、煌々と明るく光るスマートフォンの画面をつけた途端、思わずほっと息を吐く。
――『上がったから帰るよ。まだよゆうあるからきょうは電車。なんか買ってくものあったらゆってね。寝てていいからね』
――『お疲れ様、大丈夫だから気をつけて帰ってきて。会えるの楽しみにしてるから』
ほら、こうゆうとこ。
数分前なのを確認して、思わず通話ボタンをその場で押してしまう。
「もしもーしあまねー?」
『おう、おつかれさま。どした? なんかあった?』
耳に押し当てたスピーカーからは、すぐさま半透明にくぐもった声が耳朶をくすぐってくれるのだから、いたたまれない心地になる。
「ちがうよ、なんもない。がまん出来なかっただけ、うちまで」
『子どもか』
「かもね」
たしなめるような口ぶりには、裏腹のひそやかな慈しみがひたひたと滲んでいるのが手に取るように伝わる。
「きょうね、ちょっとあって……いろいろ。帰ってから聞いてほしいんだけどさ。でも――」
ごくり、と息を呑み、感慨を込めるような心地で訥々と言葉を吐き出す。
「言っちゃった、話してなかった子に。いますごく大事な子がいるって。すごく好きで、すごく幸せって」
『――忍、』
スピーカー越しに漏らされる吐息は、たちまちにあまくくすぶった色に染まる。
「話の流れみたいなのでさ……そんな詳しく言ったわけじゃないよ。ほんと、ちょっとだけ。すごい好きって」
かわいくてかわいくてかわいい、というのもすこしだけ。
「さっき帰る時で――それで、言いたくなっちゃった。はやく会いたいなって、声だけでいいからはやくって。子どもだからさ、がまんできなくて」
『おまえなぁ、』
ふう、といつもそうするように大きく息を吐き、あきれたようすを装った優しい言葉がささやかれる。
『待ってるこっちの身になってみろ、ちょっとくらいは。てか外だろ? いま』
「だいじょぶだよ。人いないし、まわり。野ばらくらいしか聞いてないもん、たぶん」
『野ばら?』
「街路樹のとこにさ、もうこんな暑いのにポツンっていっこだけ咲いてんのね。あれ、これって野ばらでよかったのかな? 佳乃ちゃんに聞こっかな」
『いいから……はやく帰ってこいよ、うかうかしてたら電車なくなんぞ』
「うん、」
力なく答えながら、細い月がぼんやりと明るく光るのをぼうっと眺める。
ねえ、周。今夜も月が綺麗だよ。
こんなロマンチストじみたことを口にしたってきっと笑って受け止めて、そうだな、なんて言ってくれる時の唇の綺麗なカーブの形だってもう知ってる、ずっと前から。
夢みたいだな、こんなに離れているのにこうして声が聞けて、あと数十分もすれば会って話もできる。あんなに触れたくて仕方がなかった掌にだってやすやすと触れられる。
「ほんと寝てていいからね。寝落ちしてても起こさないから、むりしちゃだめだよ?」
『しないって。おまえも気をつけろよ、ほんとに。暗いと危ないからな』
「うんだいじょーぶ、ありがと」
きっぱりと答えながらその場をゆっくりと立ち上がると、街灯にぼんやりと照らし出された、すこしばかりくたびれたようすのクリーム色の野ばらへとそうっと手を振ってみせる。
「ごめんね待たせて、すぐ帰るからね」
『おう』
「あと、帰ったらちゅーするかもしんない。やじゃなかったらでいいからね?」
『だからおまえ、外……』
「聞いてないよ、誰も」
にいっと笑いながら、一歩、また一歩とたしかめるような足取りで歩みを進めていく。
参ったよなあ、ほんとうに。最初の時から想像なんてつかないくらいに、こんなにも好きになっちゃったんだけど。
「ごめんね、そろそろ駅だから。もう切る。帰る前にもっぺん連絡するから」
『おう』
いつもどおりの相槌の向こう側に、おだやかな笑顔がそっと滲むように浮かぶ。
「じゃーまたね、すぐ帰るから。あいしてるよ」
『……しのぶ、』
戸惑いを隠せないようすでささやかれる声に、さわさわと心ごとくすぐられるのにただ身を任せる。
「帰ってからも言うから、ね?」
純情だよね、ほんとうに。我ながら、それはもうびっくりするレベルで。
名残を惜しむようにスピーカーに耳をつけたまま、自由なままの片方の掌をじっと見つめる。
ほどけたままの指先はすこし骨張ってひやりとつめたいあの感触を思い起こすように、所在なさげにわずかに震える。
あんまり書いたことがありませんでしたが、忍のバイト先はカフェバーと家庭教師です。
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