ピコンッ
充電コードに繋いだままのスマートフォンから、すっかり聞き慣れた電子音が鳴り響く。
「あ、佳乃ちゃんだ」
見てもいい? と、毎度恒例の問いかけを投げかけられ、いつも通りに小さく首を縦に振って同意を促す。
忍はいい加減に見えて、こういうところだけはいちいち律儀だった。知り合って間もない頃から、一緒に居る時はこうしていちいち断ってからでないとスマフォの画面を見ない。話をする時だって、時折相槌を打ちながら、それでも必ずこちらの言葉を遮ったり、頭ごなしに否定したりなんて絶対にしない。
いい加減着信音で覚えているのだから、いちいち確かめる必要なんてないのに。
まだ微かにヒリヒリと痛む頬に少し柔らかくなった保冷剤を当てたまま、いつもとは打って変わって、どこか神妙な面持ちで小さな液晶画面を目にするその横顔をぼんやりと眺める。
『ずっと付き合っている相手がいます。一緒に暮らしています。』
『それでも結婚は出来ません、この国では許されていないからです。』
『黙っていましたが、物心がついた頃から男しか好きになれませんでした。女性と結婚することも子供を持つことも出来ません。相手が許してくれるのなら今のパートナーと添い遂げたいと思っています。』
先延ばしにしたままだった事実を洗いざらい話をした後の両親の反応は、いっそ清々しいほどに予想通りのものだった。
期待を裏切らないご対応誠にありがとうございます、それでこそあなた様方です。どうやら僕の炯眼には狂いはなかったようですね。
感情を廃した瞳で、鈍く鉄の味が広がる口をきつく結んだままギロリと視線だけを返せば、更に容赦ない追い討ちが帰ってきたのは言うまでもない。
気が済むならそれでいい、好きなだけ殴ればいい。それで縁が切れるのなら、本望なくらいだ。最初っからずっと、あんたたちなんて大嫌いだった。尻餅をついた体勢のまま、頭の中でグルグルと星が回るのをぼんやりと眺める。
絶対に来るな、とそう言い聞かせて本当に正解だった。
自分の痛みなら、自分でどうにかかたがつけられる。もし忍に危害を加えられでもしたら、こんな風に平静でなんていられた自信があるわけなかった。
胸に風穴を開けられたような心地のまま、手でそっとさするようにすれば、めいっぱいの侮蔑を込めたまなざしと、容赦のない罵詈雑言が降り注ぐ。鼓膜を虚しくすり抜けていくだけの言葉は、まるで宇宙語だ。
すげえな、いつの間にこんな言語取得してたんだよ。いっそ清々しいなと、笑い声でもあげてみたいくらいなのに、口の中が切れてしまったせいで引き攣るようにヒリヒリ痛んで、喉を鳴らすことすら困難だ。
「……ただいま」
「どしたのそれ」
玄関先に立つなり、「おかえり」よりも先に投げかけられた言葉がそれだった。
「風邪移されたんだよ、インフルエンザ。今日寝床別な、うつるから気安く近寄んなよ」
顔の半分を隠してくれる大きなマスクの下で、ゴホゴホとわざとらしく咳のパフォーマンスを繰り出せば、呼応するかのように肋骨が僅かに軋むのが何だかおかしい。身体ってこうやって繋がりあってんだな。たぶん、心とか脳とかもぜんぶ。
僅かに残されたヒリヒリと火照る熱とは裏腹に、不思議と冷えていく一方の胸のうちを思いながらいつも通りに乱暴に靴を脱ぎ捨てようとすれば、ぎろりと鋭いまなざしがこちらを捉える。
「見え透いた嘘つくんじゃねえよ」
吐き捨てるようなーーそれでいて、酷く悲痛さを潜めた声と共に、乱暴にマスクを引き剥がされる。その下に露わになるのは、やくざ映画のチンピラの手下かなにかみたいに、無様に腫れ上がって僅かに引き攣った頬だ。
「あまね……」
怯えたような瞳をして、それでもじっと目を逸らさないその姿を前に、深々と息を吐き、堪忍したかのように周は答える。
「病気が治るまで帰ってくんな、だって。目ぇ覚ませだのなんだの言ってさ。治す気なんてねえよって言ったら、鼓膜破れんじゃねえのって勢いで張り倒された」
冷え切った指先がじんじんと痛んで、微かに熱くなった瞳の奥がぐらりと揺れる。
初めからあんな奴ら、大嫌いだった。それが確認出来て清々しただけだ。
自分がこうなるのなんて覚悟してた。何よりも許せないのは、こんな自分なんかと一緒に生きようとしてくれた相手を散々貶めるようなことを言ったことだ。
「……俺さ、たぶん実家の墓入れねえわ。悪りぃけど、俺が先に死んだら始末頼んでいい? おまえと同じ墓が良いとか、んな贅沢言わないからさ」
「……ばかやろう」
くすぶって震えた声が、途端にぎゅっと胸の奥を掴みかかってくる。
何度も何度も、繰り返し聞かされた決まり文句みたいな言葉なのに響きがまるで違う。絶望と怒りと悲しみと慈しみとーーそのすべてがごちゃ混ぜになって、感情に波を立てていく。
こんな思い、させるつもりなかったのに。
まざまざと冷えていく指先に体温を取り戻すことを求めるように、ぎゅっときつく背中に腕を回して抱き寄せれば、みるみるうちに広がる見知ったそのあたたかな感触を前に、息が詰まるような途方も無い安堵感に溺れていくのを感じる。
「……ごめん、ほんとごめん。もう大丈夫だから、このぐらい別に平気だから。心配かけてごめん」
「……いいよ別に。なんでおまえが謝んだよ。おまえ悪く無いじゃん。悪いのは俺じゃん。なんで俺じゃないんだよ。なんで周にそんなひどいことすんだよ」
許せない、とそう言いながら、しばしばそうするように、わしわしと乱暴に髪を掻き回される。触れたその先はぎこちなく震えて、軋む心の有り様をそのままこちらへと伝えてくる。
「……俺が許さないから、それでいいよ。周はもう何にも考えなくていいよ。な? いいから、俺が全部背負うから」
くぐもった涙交じりの声に、息が詰まる。
なんだよこいつ、知ってたけど底なしのバカだ。こんなバカ、一生かけて面倒でも見てやれねえと心配でおちおち墓にも入れねえ。
「……忍」
無様にくぐもって震えた声で名前を呼ぶ、ただそれだけで精一杯だ。
答える代わりのように、きつく回された掌で髪や背中をなぞられるその度、幼い子どもにでも戻ったような心許なさと、途方もない安堵感がふつふつとこみ上げてくるのを感じる。
どこにも帰れない迷子の子どもの気分を、今更のように思い返す。なのにちっとも怖くなんてない。
こいつだけが帰る場所だった。たぶんずっと前からそうだった。
そんな当たり前のことを改めて気づかせてくれたのだから、いっそあいつらには謝辞でも送りつけてやりたいくらいだ。
「おはぎは青海苔とアンコときなこ、何個ずつにする? 周くんはどれが好き?」
「……何ソレ」
冷めた瞳をして尋ねるこちらを前に、いつも通りにごく淡々と忍は答える。
「俺じゃなくて、佳乃ちゃんから。ほら、もうすぐお彼岸じゃん。今年ばーちゃんの七回忌でさぁ。佳乃ちゃんのおはぎ超美味いよ。和菓子屋泣かせだもん」
答えながら、保冷剤をおしあてていたせいですっかり感覚を失った指先にそっと、自らのそれを絡められる。
「いい機会だしさ、佳乃ちゃんにちゃんと話してくる。佳乃ちゃんなら大丈夫だよ、あの人イケメン好きだもん。息子が一人増えたって喜んでくれるよ、きっと。忠明は……どうか分かんないけど、あの人そこまで頭固くないしさ。あと、三島由紀夫読んでたし。だから大丈夫、たぶん」
「……タダアキって?」
「とーちゃんだよ、佳乃ちゃんの旦那」
おかんはちゃん付けでおとんは呼び捨てかよ。家庭内ヒラエルキー見えんなそれ。思わず野暮なツッコミが入れたくなったりもするが、勿論しない。
「てか周も一緒に帰ればいいんじゃね。その方が早いし、話」
「おまえ……」
見ろ、とばかりに差し出されたLINEのトーク画面では、スタンプと絵文字が飛び交う、一見しただけではおおよそ親子のものとは思えない賑々しいやりとりが続く。
『あんたのことだから相変わらず周くんに迷惑かけてるんでしょ。呆れて捨てられないようにしなさいよ』
『向こうも俺に迷惑かけてんだからおあいこだっつうの。あ、じゃがいもあんがとって言ってたよ』
吹き出しの掛け合いで延々と続くありふれたそんな日常のやりとりに、何故か無性に泣きたくなるような気持ちがこみ上げてくるのを感じる。
たぶんいままでもこれからも、自分には一生手に入らないあたたかな関係がここにはある。
ただの『同居人』だとそう何年も偽ったままだったこの暮らしに潜む事実を露わにすることは、普通なら、こんなありふれたかけがえのない親子関係を壊すことに繋がり兼ねないそのはずなのにーーなのに、この男の瞳には一点の曇りも見受けられない。
迷いのない手つきでするすると画面をタップするその指先から、新たなメッセージが届けられる。
『てか、いまも横にいる。』
『周も一緒に帰ろ、瀧谷の家の子になろって口説いてた。いちゃいちゃしてくるからまた後でね』
投げキッスをする女の子のスタンプに続くのは、赤面しながらハートを抱えたまま画面の中を縦横無尽に踊るうさぎのスタンプだ。
ことん、と音を立ててスマフォを床に置きながら、忍は答える。
「てかさー、別に焦んなくていいとは思うんだけど。ぶっちゃけ俺も今、冷静じゃないし。でもさ、良かったら考えてよ」
微かに潤ませたまま、それでも怯まずにキッと強くこちらを捉えるそのまなざしの鋭さに、胸を撃ち抜かれるような心地を味わう。
この迷いのない健やかさが、たぶんずっと好きだった。自分なんかが手を伸ばしても良いのかと、何度もそう躊躇うくらいに。
「……忍」
震えた指先を、そっと押さえ付けるように傍の男のそれと重ね合わせる。
ほら、こんなにもあたたかい。こんなぬくもりがあることを知って、手放せるわけなんてないに決まってる。
病気だなんて言うならそれでいい。こいつに出会ってからずっと、完治しない不治の病に罹っていることくらいとうの昔に自覚済みだ。
振り絞るような心地で、掠れた声で周は答える。
「……俺ならもう、どこも帰れなくなってもいいよ。ぶっちゃけ、おまえさえ居ればもうそれでいいよ。でも、おまえにだけは絶対そんな思いさせたくない。もしそうなったら俺のこと、迷わず捨ててほしい。そやって約束してくれるんなら、今すぐは無理でも、ちゃんと話しに行かせてほしい」
「周……」
答える代わりのように、震えた指先がきつく、こちらのそれを握り返してくれる。
どこまでもどこまでも外れた道で、ぽつんと佇む自分たちの姿が幻のように視界の遥か向こうに霞むのが見えた。
道を外れた自分たちはきっとどこにでも行けるけれど、引き換えのようにもうどこにも帰れない。
でも、それでいい。
それでも、こうして共に居ることが途方もなく自由で、途方もなく幸福だとそう知っているからだ。
帰る里なく手つないだ春彼岸