時々、すべてが夢なんじゃないかと思うことがある。
たとえばこんな、何気ない朝の瞬間にも――
目の前で、恋人が眠っている。
時折身じろぎをする身体、微かに洩らされる吐息、仕草につれてはらはらと揺れるやわらかな髪、ふるふると音もなく震わされる睫毛、無防備に預けられる身体の、心地よい重みとぬくもり――そのすべてを、途方もなく愛していた。
ひとりぼっちで怖い夢を見ていないように、不安に駆られて目を覚ますことがないように。
誰よりも大切でいとおしくてたまらない。与えられるものが何かあるのだとすれば、すべて差し出してあげたいくらいに愛している。
言葉をどんなに尽くしたつもりでも、心ごと刻みつけるように強く思いながら身体を重ねても――差し出したいものが、本当に与えてあげられているのかなんて、それが本当に必要なものとして受け止めてもらえているのかなんて、たぶん一生かかってもわからない。
誰かを身体ごと、心ごとぜんぶで好きになることがこんなにも苦しくて、こんなにもいとおしいことだなんてずっと知らなかった。
胸を締め付けるようなこんな途方もない幸福があることを、たぶんこれから先もずっと、幾度となく思い続けるのだろう。
「ンっ……ん」
くぐもった吐息を洩らす唇をじっと見つめながら、こらえれきれない思いに駆られるのを感じて、シーツの中でしなだれる指先をゆるく握りしめる。
まどろみのふちをさまよう恋人の身体はいつもどこか無防備なあやうさとぬくもりを携えていて、無邪気さとおぼろげななまめかしさ、その両方で無意識にこちらを翻弄してくれる。
「……カイ」
気づかれないようにうんとささやかにそう名前を呼んで、片方の掌でそうっと髪をなぞる。
ゆるく握りしめた指先は、いつのまにか無意識のうちに、熱っぽい指の中に握り込まれている。
ぱあっと手を開いたあかちゃんの手の中に指先を出した時も、確かこんな感じだったな、と僕は思う。こんな風に言ったら怒るかな、それとも拗ねるのかな。想像の中、不機嫌を露わにするそんな表情すらあまりにもかわいいから、せり上がるいとおしさに息をするのも忘れて溺れてしまわないようにするのに必死だ。
「いのり……」
微かに震わされた唇からこぼれ落ちた言葉に、はらりと胸の奥で、花びらが舞い落ちるような心地を味わう。
その響きの奥にともされたくすぶったこらえようのないあまさと余韻は、ほかの何にも代え難いものが溢れている。
「いのり、」
やわらかな響きに、どこか無様に胸を締め付けられるのを抑えきれない。
ねえ、僕が居るよ? 僕じゃだめなの?
そんなの、言えるわけもなかった。
誰にだって、誰かの代わりなんて勤まらない。そうわかっていて好きになったのに、それでもやっぱり悔しくて苦しくて、こんなにもいとおしくてたまらない。
ゆるく唇を噛みしめるようにしながらそっと瞼を閉じて、触れあった指先の感触に酔いしれる。
大丈夫、何も怖くない。もう何もいらない、過不足なく満たされている。こんなにも愛してる、こんなにも必要としてくれている、こんなにも信じている。
祈りを捧げるような心地で幾度となく繰り返し繰り返し、髪や額に淡く口づけながら、彼が目を覚ますその時、一番に視界に入ることが出来るのが自分だという幸福に酔いしれる。
こんなにも好きになってごめんね。
こんなにも君のぜんぶがほしくなってごめんね。
誰にも渡したくないだなんて、そんな風に思うのをやめられなくて本当にごめんね。
君以外ぜんぶ嘘でいい、それで構わない。
そんなの、身勝手な傲慢で、ただの暴力だ。だって、彼はこんなにも大切なものを手の中にたくさん握りしめている。僕だって結局、その中のひとつに加わることが出来ただけにすぎない。
ゆるく握りしめられた指先の力が、ふいにふっと弱まる。
びくりと、と微かな身じろぎの気配を感じて誘われるままに瞼を開けば、すぐ間近で、澄んだ瞳を縁取る長い睫毛が、ふるふると音も立てずに揺れる。
「……おはよう」
くぐもった半透明な声が紡ぐ言葉に、いとおしさが募らされる。
「おはようカイ」
囁くように答えたその後、確かめるようにぎゅうっときつく抱き寄せる。
重なり合う心音が奏であう不規則なそのリズムは、何にも代え難いほどの安心感を与えてくれる。
「ねえ、祈吏の夢、見てたでしょ?」
オレンジジュースのグラスを手に尋ねる言葉を前に、トーストをかじっていた恋人の顔は途端にさあっと赤くなる。
「……なんでわかるの」
「呼んでたじゃない、名前」
答えながら、少し意地悪だったなと思う。(それでも、こんな風に困ったように口ごもる恋人の表情は耐えがたいほどの愛くるしさといとおしさに溢れているのだから、少しくらいは赦してほしい)
かじりかけのトーストをそっとお皿の上に置いて、うつむいたままもぞもぞと、どこかばつが悪そうな様子で恋人は答える。
「……夢の中に、君と祈吏が出てきて。僕が帰ってきたら、ふたりですごく楽しそうに話してて……どうしたのって聞いても、君も祈吏も、うれしそうにふたりで笑いながら、内緒だよっていうから」
「……寂しかったんだ?」
気まずそうに口ごもる姿を前に、こらえようのないいとおしさがぐんぐんと溢れだして、滲んで溶けていく。
「かわいい……」
「だって仕方ないでしょ。夢なんだし……君の顔見るの、すごく気まずかったのにいっぱいぎゅうってしてくれて……はずかしいから、ずうっと黙ってたかったのに……」
微かに耳まで赤らめて答えるそんな姿を前に、テーブル越しに差しのばした掌でゆっくりとやわらかな髪をなぞる。
ほら、こんなにもあたたかい。こんなにも愛してる。
「ねえ、正夢にしてもいい?」
「……いじわる」
歯形のついたトーストをかじりながら紡がれる言葉に、くすくすと笑い声をあげることで僕は答える。
いつのまにか、あんなにもきつく胸を締め付けていた息苦しさだけは魔法のようにふわりと穏やかに胸の中から溶け去って――おぼつかないこの掌の中には、こらえようのないいとおしさとぬくもりだけが少しも消えずに残り続けていることがとても不思議だった。