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調弦、午前三時

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形のないもの

「ほどけない体温」周くんと春馬くんの少し先の未来のお話。

どこにも帰らない」のアフターエピソードです。






  何も特別なことなんて望んでなんかいない。赦されたいだとか認められたいだなんて、大それたことなんてひとつも。
 ただ共に生きていたかった。それを目の前の相手にだけ赦してほしかった。
 ただそれだけのことが、時々、こんなにももどかしい。



「家族って大人になれば自分で選んで作れるもんじゃん。だったら俺は忍がいい。あいつがそれでもいいって言ってくれるなら、俺の家族は忍だけでいい。法律とか世間の決まりとかそんなのどうだって良いって、そう思おうとしたよ。でもさ、そういうわけにもいかないじゃん? 俺がそれで良くても、そのせいであいつから大事なものみんな奪うわけにはいかない――」
 捲したてるような勢いで口にした途端、支えがとれたかのように胸の奥がふわりと軽くなるのと同時に、まざまざと後悔の色が広がる。
 だってこんなこと、その気がなくたってやっかみにしか聞こえない。目の前の彼には自ら選んだ新しい家族がいて、それを誰もに祝福されていて――もうすぐ父親になるだなんて、絵に描いたような幸福の只中にいるのに。
「……ごめん」
 思わず口をついて出た無力な言葉を前に、やわらかく遮るようにそっと、首を横に振られる。
 なにか、大切な宝物を探すように。ぐっと息をのみ、瞳を細めるその姿にただ、息がつまされるような心地を味わう。
「……周くん」
 促すようにそっと、数度肩を叩かれる。ただいつくしむような、そんなたおやかさで。
 ぐっと、口の端をあげるようにして、周は答える。
「……話したよ。あいつにもちゃんと、ぜんぶ話した。面倒ばっかかけてごめんって。でもさ、それでもいいって言うんだよ。これからも俺と一緒にいたいって、周は何も考えないでいい、俺が背負うからいいって。ほんとばかなんだよ。あんなばか、他に知らねえよ」
 苦笑い混じりに答えれば、どこか息苦しさを隠せない様子だった目の前の彼の表情に、いつものあのやわらかさが少しだけ滲む。
 ゆるやかに瞳を細めるようにしながら、目の前の彼は答える。
「それってさ、もしかしなくてものろけ?」
「……そうかも」
 照れ隠しのように薄く笑いながら答えれば、胸をきつく塞いでいた重荷が、いつの間にか僅かに軽くなっているのに気づく。
 どこか手持ち無沙汰な心地のまま、滴をたっぷりと滴らせたグラスに手をかけ、周は答える。
「つぐみちゃん、元気にしてる?」
「安定期に入ったからなんとか。すごい蹴ってくるって。いまからこんなにやんちゃじゃ先が思いやられるねって、苦笑いしてて」
 照れくさそうに笑うその姿は、どこか誇らしげだ。
「早く会いたい?」
「そりゃまぁ」
 いつくしむようなやわらかなその瞳の奥には、いつしか見たことのない穏やかな色が潜んでいるのに気づく。
 眩しくない、と言ってしまえば嘘になる。でも、それに引き換えて自分たちが不幸だなんて、そんな風には思わない。
 ただ選んだだけだ。どうありたいのか、どう生きていたいのか、その中で、誰と共に生きていたいのかを。
「生まれたら見に行っていい?」
「あたりまえじゃん」
「男、女?」
「わかんない方が楽しいから、教えないで下さいって言ってある」
 答えながら、なだらかなカーブを描く唇、微かに震わされる喉、わずかに緩められたネクタイ――そのひとつひとつを、息を呑むような心地でじっと見る。

 ただ時が過ぎていく、それだけだ。
 変わっていくものも、変わらないものもそのままに。

「会いに来てよ、瀧谷くんも一緒に。つぐみちゃんもきっと喜んでくれるから」
「いいけど、女の子だったら俺ひとりでもいい?  あいつも連れてくと将来が不安じゃん、色々」
「……心配しすぎでしょ」
「だって、絶対かわいいに決まってんじゃん」
 照れたように笑う姿に、ぎゅっと胸の奥を揺さぶられるかのようなあたたかさがこみ上げてくるのを抑えきれない。
 自分には辿れない未来のひとつを見せてくれる相手がいる。そのことがこんなにただうれしいだなんて、ずっと知らなかった。知らずにいる、そんなつもりだったのに。
「……春馬くん。いま、幸せ?」
「……うん、」
 ゆるやかに瞳を細めるその姿を前に、周は答える。
「奇遇だなー」
「俺もいま、すっげえそうなんだけど」
 口元を歪めるような笑みを浮かべて答える周を前に、目の前の彼が返してくれるのもまた掛け値名無しのぬくもりだけを潜めた笑顔で。
「瀧谷くんにも言ってあげなきゃダメだよ、それ」
「わかりました、お父さん」
「……まだそうじゃないし」
「じゃあ未来のお父さん?」
「なんかそれ言われんのすごい照れんだけど、もしかして意地悪?」
「かもなー」
 くすくすと笑いながら答えるそのうち、いつしか胸を覆った黒雲がいつしか途切れて、もう随分と遠ざかっているのがわかる。

 会いたい、と思うのは例えばこんな時だった。
 こんなにもひとりで、これから先もきっとずっとひとりとひとりのままで。でも、だからこそ、こんなにふたりで居ることの意味が感じられる。
 こんなにも苦しくて、こんなにも耐え難いくらいにあたたかい。ずっと昔にかけられた解けない魔法はいまもまだ、ずっと続いているままで。

 少し乾いてはりついた唇をそっと押し開くようにしながら、周は言う。
「……あいつ。実家帰って、話してくるって言ってて。大丈夫だからって。みんなちゃんとわかってくれるからって。周が大事で一緒に居たいだけだって言えば絶対わかってくれるって。周はもう家族だから、このまま一緒に瀧谷の家の子になればいいだけじゃんって。そんな、うまくいくわけないって思うじゃん?  でもなんかあいつが言うとほんとになる気がして。なんか、ずっとそうで」
「……わかるよ」
 振り絞るような少し掠れた声を前に、引きつった指先をぎゅっと握りしめる力を込める。
「のろけ大会だね、きょう」
「たまにはいいじゃん、こんなの言えないし。言ったらぜったい調子のんじゃん、あいつ」
 答えながら、ぎこちなくくすくすと笑い声などあげてみる。

 それでも伝えないと。たとえ、ひとかけらでもいいから。だって、こんなにも大切だから。


 視線の先、左手薬指にすっかり身体の一部のように馴染んだ銀の指輪が放つ鈍い光を、周はどこか眩しく感じながら、じっと眺める。
 証がほしいだとか、誰かに認めてほしいだとか、そんなことなんて考えたことなどない――ただともにいることを赦してくれればそれで良いと、そう思っていた。
 でも、もし――もし何か、形に残るものがほしくなったのだとそう伝えれば、忍は赦してくれるだろうか。

「……周くん?」
「ごめん、ちょっと考え事してた」

 取り繕うように笑いながら、僅かに疼く胸にそっと手を当ててみる。
 帰ったらまず、何から話そう?



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