あましの。
晩御飯を一緒に作る。
あたたかい部屋
「シチューの有名な歌ってなんかなかった。この時期になるとラジオとかでもよくかかってたの。今夜はシチューを食べて温まろう、みたいな」
ピーラーをするすると滑らせるように皮剥きにいそしみながらぽつりと呟けば、傍らからは「あぁ、」だなんてやわらかな相槌が返される。
にんじんを持った手をぴたりと止め、ぼうっと宙を眺めるようにしながら忍は答える。
「男の人が歌ってたの? 今夜はうちでシチューにしよう、みたいなの」
「それもだけど……。なんかさ、女の人が歌ってたやつってなかった? 童謡みたいな感じの」
「どんな曲? 周歌ってよ、いま」
「やだよ」
言葉に被さるように、ぽとり、とやや厚めのじゃがいもの皮がシンクに落ちる。
それぞれの以前の住まいから持ち寄ったおかげで、調理道具がそっくり二揃えあるのはなにかと便利だ。こうして肩を並べて料理をする時間は、いつだって不思議なほどに心が凪ぐから。
「ちょっと待って、気になったから調べる」
丁寧に手を洗い、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマホを手に取る。うろ覚えの情報を検索画面へと打ち込めば、またたくまにそれらしき曲の情報が出てくる。……間違いない、きっとこれだ。
「周、見つかった?」
ひょい、とカウンターキッチンの向かい側から掛けられる言葉を前に、小さく頷いて答える。
「うん、まぁ」
「聞きたいな、流してよ」
促されるままに再生ボタンを押せば、たちまちに流れ出した温かなメロディとやわらかくおだやかな歌声が部屋の空気をみるみるうちに塗り替えていく。
「……あぁ、」
瞼を細めながらぽつりと落とされる吐息混じりの言葉に、どこかふっと心の内が緩む。
丁寧に手を洗い直し、半分と少し皮の剥けたじゃがいもを手にしながら作業に戻る間も、鼓膜が捉えたメロディは心地よいざわめきを胸の内へとたおやかに広げていく。
「聞いたことあるかも、たぶん。いい曲だね」
家に帰ったらあたたかいシチューを食べよう――サビで歌われるのは確かに、いかにもCMのために作られたのであろうそんなフレーズなのに、そこにたどり着くまでの物語には、どこかしんとした寂しさ漂う。
この手のCMで描かれるのはいつだって、湯気を立てる大きなお鍋を取り囲んだ家族のあたたかな笑顔だったのに。どうしてこんなふうに、まるで正反対の光景を描いた歌が選ばれたのだろうか。
「周んちってさぁ」
すとん、すとん、すとん。皮を剥いたにんじんを一口大に切り分けながら、忍は尋ねる。
「シチューって何が入ってた? 野菜とか、具とか」
「あぁ、」
大きな寸胴鍋を取り出しながら、どこかぼんやりと答える。
「にんじんとジャガイモと玉葱、あとはブロッコリーとマッシュルーム」
「ふぅん、おいしそう」
少し大きめの角切りにじゃがいもを切り分けながら、忍の言葉は続く。
「うちはさ、たまにだけどかぶが入ってたよ。ほたてが入ってることもあったかな。白いもんは何でも合うんだって佳乃ちゃんが言って。まあさ、間違いでもなかったんだけど」
「おまえんちって感じだな、なんか」
シチューの素のパッケージを開け、裏面の材料の表記をまじまじと眺めていれば、傍らからは「なにそれ」だなんて軽口めいた声があがる。
「家庭料理ってさ、定番ぽいのでも結構家ごとの違いってあるよな」
カレーに入れる肉は豚肉がお決まりだと思っていた、と言っていたいつかのクラスメートの顔が、ふいに頭の片隅をよぎる。
「好みとかもあるもんね。アレルギーでどうしても食べれないもんとかさ」
バットに移した切り分けた野菜をこちらへと手渡しながら、ぽつりと囁くように忍は答える。
「友達んちだとさ、クリームシチューにはいっつもチーズ入りのウインナーが入ってたんだって。なんかさ、幼稚園の頃に偏食だったもんで、給食で出たシチューのお肉が食べられないって泣いちゃったんだって。そいでね、お母さんがこれならって言ってよく食べてるウインナーにしてみたら、ぱくぱく食べたらしくて」
懐かしむようにうっとりと瞼を細めながら、訥々と言葉が続く。
「でもそれもちっさいうちだけでさ、そのうちすぐに鳥も牛も豚もなんでも食べるようになったんだって。でもさ、その子ん家ではシチューはそれって決まっちゃったみたいで。いまでもさ、帰るとお母さんが作ってくれるんだって。はずいからやめろって言うらしいんだけど。でもさ、なんか嬉しそうでさ、その話してる時」
ぱちり、と目配せをこぼしながら告げられる言葉は、いつもよりもどこか無防備な幼さが滲む。
「いいな、なんか」
「ねえ?」
優しい相槌にそっと頷きながら、サラダ油を満面なく行き渡らせて熱したフライパンに玉葱を広げ、ざっと炒める。
「焦がしちゃだめなんだって、油が回ったなってくらいでいいみたい」
スマホの画面を見ながらの指示を前に、木べらでフライパンの中身をかき回す。玉葱に続いて、じゃがいも、にんじん――きょうはレシピサイト通りの定番の具しか選ばなかったから、迷うこともない。
「お肉は煮込むからそんな炒めなくていいんだってさ。赤いまんまでいいみたい」
最後に入れた鶏肉の表面だけをさっと炒め、念のために、とひょい、と手招きをする。
「忍、みて」
「ん、このくらい」
合格の判定にほっと胸を撫で下ろし、用意しておいた寸胴鍋に具を移すと、ルーのパッケージの規定量ぴったりの水を入れる。
「周、交代」
「あぁ、うん」
鍋の前を退くと、洗い場に溜まった食器類を片付けるためにぐっと腕まくりをする。
「煮込むのってどんくらい?」
「沸騰してから15分、ルーを入れてからは10分くらいだって」
なるほど、塊肉を使ったりするのとは違ってそこまで時間をかける必要ないらしい。
「交代しよっか、途中で」
「いーよ」
お玉を手に取りながら、にいっと得意そうな笑顔が向けられる。
「周さ、そっち終わったら休んでていいよ。続きやっちゃうから、俺が」
「いいよ、別に。ありがと」
ぶん、と勢いをつけるように頭を振り、意地を張ったような口ぶりで答える。少しでも忍のそばに居たいから、だって。
わざとらしいくらい丁寧にまな板やトレーを洗い、ざぁっと流水で泡を流す。ふつふつと煮立つ鍋の前で丁寧にあくを掬う姿をぼうっと眺めていれば、ふっと懐かしい記憶が頭の片隅を過る。いつかずっと昔、こんな光景を幾度となく目にしてきたような。
「……忍、」
微かな迷いを振り切るようにとそっとかぶりを振り、時間軸を〝いま〟へと押し戻すように、ぽつりと呟く。
「ん?」
「後でいいからさ、俺もさせて、あく取り」
「ん、わかった」
優しい目配せと共に送られる言葉に、ゆるやかな笑みで答える。
交代であくとりにいそしみ、清らかに澄んだスープの素を仕上げた後は、竹串で野菜の火の通り具合をチェックする。
「そろそろいけそう、たぶんこれ以上だと煮崩れる」
「ん、わかった。もう入れちゃっていいの? ルー」
コンロの火を止め、立ち位置を交代する。ここからは、主役は忍に交代だ。
「ルーを割り入れたら、だまにならないようにしっかり溶かす。全部溶けたらもっかい火をつけて、底からかき混ぜる。弱火で大体5分くらい」
スマホに表示させたレシピを読み上げながら、キッチンタイマーを5分セットする。こういうのはカンだろうと思うのだけれど、明確な数字があるのなら従ったほうがいいような気がするから。
「なんかとろってしてきたかも」
「おう、あとちょっとな」
冷蔵庫を開け、計量カップに規定量通りの牛乳を入れる。
「タイマー鳴ったらこれ入れて、そこから更に5分、それで完成」
大きな鍋から立ち上る温かい湯気と香りが食欲をそそる。ピピッ。急かすようなタイマーの音に促されるままに、牛乳をそっと回し入れれば、途端に〝らしく〟見えてくるのだから不思議だ。
「なんか生クリームがかかってる料理ってやたらおいしそうに見えなかった? うちじゃ出てくることなんてないんだけどさ」
「わかる」
笑いながら、鍋の中身をゆっくりとかき回す。牛乳の加わったシチューは心なしか、先ほどまでよりもまろやかで優しい香りがする。
弱火で更に5分火を通せばできあがり、ふたりで食べるには多すぎるほどのお鍋いっぱいのごちそうは、どこか懐かしさを呼び起こすようなぬくもりに満ちている。
ふたりがかりでの夕飯の仕度と片付けを済ませてしまえば、いい意味で手持ち無沙汰な午後の時間がゆっくりと流れ出す。
「なんか観る、録画してるのとか」
「ううん、いい」
こーしてる、もうちょっと。
舌っ足らずの少し甘えた響きをまとった声が、鼓膜を伝って心まで心地よく震わせてくれる。
程よく小ぶりなソファは、大の男ふたりが肩を並べて座れば、それはもう都合良く肩やら腕やらがぶつかり合うのが何かと好都合だ。いっそストイックに感じるほどのこんなささやかなふれあいに、それでもあっけないほどに心を揺り動かされてしまうのはもう何年もこうしてそばにいるのに、いつまで経ってもばかみたいに変わりやしない。
ひとまずは溜まっていたメールの整理をして、返せるものには手身近に返事をして――ポケットに押し込んだままにしていたスマートフォンの画面を開けば、傍らからは、ぱら、ぱら、とかすかに本のページをめくる音が聞こえてくる。
こんなところで落ち着くのかな、自分の部屋に行ったっていいのに――。ぎこちないあたたかさと、ちくちくと胸を刺すようないびつなざわめき。その両方にぐらりと心を揺らされながら、いつしか、画面の中の文字の内容がちっとも頭に入ってこない自分に気づく。
やっかいだよな、本当に。だからといって、〝離れたい〟だなんて1ミリたりとも思ってないんだから。
じゃまするつもりは少しもない、それでも。ひどく矛盾した感情にぶざまな感情に溺れていくのを感じながら、かすかにふれ合っていただけの指先をそっと手の甲へと重ねる――ほんのすこしだけ、確かな意思を込めて。人差し指と中指の腹でくるくると円を描くようになぞりあげた後は、だらりと弛緩していた指先に自らのそれをきつく絡める。しばしば繰り返してきた、捕らえるような感触にいまさらみたいにどきどきする。
じゃまになっていなければいいのだけれど――音を立てることがないように、と慎重にスマホをサイドテーブルに置き、ちらりと横目に視線を送る。
澄んだ瞳の奥でかすかに揺らぐ色が僅かな湿り気を帯びていることに気づいた途端、安堵としか呼べないものがぐらりとこぼれおちる。どうしてこんなにも些細なことが、こんなにも特別なんだろうか。
絡め合うようにした指先の、沈み込むような皮膚のやわらかさや、その下でひそやかに息づくしなやかな骨の形たどりながら、囁くように遠慮がちに尋ねる。
「……しのぶ、」
湿り気を帯びてぐずついた、ぶざまに甘えた声――自らの中にそんな温度があることを知った時には、ひどく戸惑ったくらいの――で呼びかければ、見つめ合った瞳の奥は、あっけないほどに熱を帯びてぐずつく。
「どしたの、なに」
重たげに唇を押し開きながら紡がれる言葉を前に、いつもよりも心なしかゆっくりと遠慮がちな響きで尋ねる。
「あのさ。それ、じゃましてない?」
こらえ性のなさに愛想を尽かされるかも、だなんてことは覚悟の上で。ぎゅっと指を握りしめながらの「お願い」を告げれば、ぱたん、と本の背表紙を閉じる音が静かに響く。
「じゃまじゃない……いいよ、」
せがむように袖口をひっぱられるのがあんまり愛おしくって、ぐらりと心をかき乱されるままにもう片方の指先を伸ばし、すこし乱れた髪に触れる。
つるんとなだらかな額、綺麗なアーモンド型の猫みたいな瞳、僅かに口角のあがったふっくらとやわらかな唇――そのすべてが〝忍〟を成り立たせているものだと思うからこそ、こうして間近に見つめるその度に、それらひとつひとつを、数え切れないほどに愛おしくなるのだろうか。
髪をかきあげ、露わにした耳のふちを輪郭を辿るようになぞりあげたその後は、内耳をそっと指でまさぐる。
そういえばこの耳も好きだな。多分、初めて会った時から。無難なものしか選ばない自分なんかとは違って、どうみたって選び抜かれた装いなのに、この形の良いふっくらとした耳朶にピアスのひとつも開いていないのをいやに不思議に感じたことを、いまさらのように思い起こす。
「忍」
「……うん」
言葉少なにこぼされる相槌に促されるように、額と額とをすりあわせる。途方もない安堵感と、ぐらりと甘くくすぶった、熱に似たなにか――ひどく矛盾したぶざまなまでのいとおしさにかき乱されるままにじいっと至近距離で見つめ合い、どちらともなく、そうっと瞼を閉じる。
かすかに触れるだけの口づけを数度交わした後は、角度を変えてすこしだけ深く――ぐらりと胸の奥から湧き上がるような熱さを前に、心の内からあふれ出した情動にこの境界ごと溶かされるかのような、心地よい錯覚を味わう。
あと何度こんなふうにしたいと、そう思うんだろう――きっと、数え切れないくらいに。
行き場を持て余したかのような燻ぶった熱の余韻に揺らされるのを感じながら、弄ぶように髪をなぞれば、少し火照った指先はもどかしげにスエット越しの肘をさする。
「周、ね」
唇を震わせ、わずかにうわずった声で忍は尋ねる。
「あのさ、周。ベッド、いく?」
羞恥と期待の交わった、あやふやに滲んだ声が、耳朶をやわらかに湿らせる。
「んー?」
喜ばしい申し出ではあるのだけれど、それでも。わざとらしくはぐらすかように答えてやれば、潤んだ瞳はみるみるうちに気恥ずかしげな色を深める。
「もうちょっとだけ、な」
なだめるように答えながら、くしゃくしゃと髪をなぞれば、途端にいじけた子どものような表情をしてじいっとこちらをにらみつけてくる、僅かに潤んだ瞳がまじまじとこちらを捕らえる。
「周のいじわる、けち」
「おう」
けちかどうかは甚だ疑問だけれど。強気に笑いながら、ぎゅっと両掌で、不満げに膨らんだ頬を挟む。やわやわとあっけなく指先の沈み込む感触が心地いい。生きる物だけが持つ手触りだ、とこうする度に思う。
「あのさぁ、」
不服そうに唇をとがらせ、たわむれのようにこちらの耳をわずかに引っ張りながら忍は答える。
「もっかいする、ね?」
「決定事項なわけ?」
わざとらしくからかうように尋ねれば、むっとしたようすの赤らんだ目つきにじいっとにらみつけられる。
「やならいいけど? がまんするし」
「なわけねえよ」
がまんなんてさせてたまるか。強気に笑いながら顔を近づけあい、かすかに触れるだけの口づけを数度繰り返した後は、うんと間近でじいっと見つめ合う。たわむれみたいなそんな行為につられるみたいに、心はあっけないほどにみるみるうちに沈み込む。
カーテンの僅かな隙間からはやわらかな午後の光が静かにこぼれ、部屋の空気を僅かに染め上げる。
窓の外からは車の行き交う騒音と、遠くでかすかに聞こえる子ども達のはしゃぐ声――完全な静寂とは程遠くとも、だからこそ、世界から静かに切り離されたかのようなけだるい心地よさがふわりと音もなく、静かに漂う。
「夕方になったらさ、買い物行こっか。駅前のスーパーさ、値引きシール張り出すのって18時過ぎだっけ」
夕食の仕度なら幸いなことに、後は温めるだけのところまで準備出来ているわけだし。
「それまで? じゃあ」
「ん、それまでな」
ぽすん、と身を委ねるようにすり寄せられた身体を優しく抱き留め、あやすような手つきで、分厚いスエット越しの背中や肩を幾度もなぞる。もどかしくてあたたかくて、何よりも愛おしい。こんなにも愛おしい体温に包まれることが許されるだなんて、赤ん坊の頃にだけ得られる特権だと信じていたのに。
「……あったかい、ね」
「ん」
頼りない言葉で答えながら、決して身を焦がすことのない、なめらかで確かなぬくもりを心ごと委ねあい、けだるい午睡をむさぼる。
「ただいまぁー」
「ただいま」
家主がふたりとも居ないはずの部屋の中に、それでもお馴染みの言葉を掛け、ずっしりと重くなったエコバッグを片手に、後ろ手に部屋の鍵をかける。
ほんの少し前まではやわらかな西日の落ちていた部屋の中にはとっぷりと夕闇色の影が落とされ、一日の終わりへと歩み始めていることをありありと伝える。
「周、おかえり」
「おう、ただいま」
ちょいちょい、と上着の袖を引きながら微笑みまじりに掛けられる言葉に、ぎこちない笑顔で答える。子どもみたいに無邪気な期待で満ちた瞳で見上げられると、それだけでふつふつと音も立てずに心の奥でわだかまった思いが溢れそうになるのは、ばかみたいにもうずっと変わらないから、いっそ悔しく思う。
「……おかえり、忍」
「ん、ただいま」
さわさわと頭を撫でてやれば、嬉しそうに瞼を細めた笑顔がこぼされる。もう数え切れないほどに幾度となく繰り返されてきた〝当たり前〟は、それでも、こんなにも心を動かしてやまない。
ずしん、と音を立ててエコバッグをキッチンに置き、本日の成果品を一つずつ取り出しては、手分けをして所定の場所にしまっていく。横目に、まだほんのりと温かな蓋をした寸胴鍋を目にすれば、なんとも言えない得意気な気持ちがふつふつと湧き上がる。
「うち帰ってきてさ、こやってご飯があんのっていいよね」
「だな、」
言葉少なに相槌で答えれば、やわらかにほどかれた笑顔が返される――こんな些細なやりとりに、いままでどれだけ救われてきたんだろうか。
蓋を開けてかきまぜれば、鍋の中身はとろりと重くなって、まだほんのすこし芯のあった野菜にもすっかり火が通っている。部屋いっぱいに広がるあたたかくかぐわしい香りに、心のうちが穏やかに軋む。
「飯にしよっか、もう」
「うん、じゃあさ、お風呂洗って入れてきちゃうね。そのほうがいいでしょ」
「ん、お願い」
ぱちり、と手を合わせる合図で見送った後、食器棚から順にお皿を取り出す。シチュー用の深皿、付け合わせのサラダ用の平皿、ふたりぶんのグラスとお箸、それにスプーン。二対の食器を順に揃えていれば、風呂場からはかすかな水掃除の音と気まぐれな鼻歌が洩れ聞こえる。きょうはなんだろうな、前によく口ずさんでいたのとは違う気がするけれど。お玉にたっぷり掬ったシチューを順にふたりぶんお皿にそそぎ、買ってきたばかりの包みから取り出したかぐわしい香りのバゲットをトースターにかければ、風呂場からは折良く水音がやむのが聞こえてくる。
「周、ただいま。タオル出しといたよ。後ね、歯ブラシ交換しといたよ。そろそろでしょ、替える時期」
「おう、ありがと」
「ご飯仕度しててくれてありがと、おいしそう」
にいっと子どもみたいに無邪気な笑顔を浮かべて答える姿に、安堵としか呼べないものがやわらかにあふれ出す。
色違いのランチョンマットに揃いの食器と箸、グラスには並々と注いだほうじ茶。
本日のメインのクリームシチューのサイドには、いつもよりも半量に減らしたご飯と、軽くトーストしたまだほんのりと温かいバゲット。
「じゃあ食おっか、いただきます」
「いただきます」
ぱちんと手を合わせ、お祈りのような決まり文句をとなえあう。365日、これからもできる限り続くようにと願う「当たり前」に思いを込めて。
「これってさ、米にかけて食うの?」
「そーだよ、ドリアとかといっしょ」
さも当たり前、と言わんばかりに茶碗によそったご飯をシチュー皿にうつしてから食べる姿をどこか半信半疑に眺めながら、スプーンに掬ったシチューを口に運ぶ。うん、ちゃんとおいしい。ほとんど形がなくなってとろとろに溶けたたまねぎがいい仕事をしてる、たぶんだけど。
「お味噌とかしょうゆとか入れてね、ご飯に合うようにって濃いめに作るってのもあるみたいだよ。でもさ、ふつうのでもおいしいよ」
家庭料理の進化ってやつなのだろうか、それもまた。半信半疑な心地になりながら、スプーンづたいにご飯茶碗にシチューをかけ、ぱくりと口にしてみる。……まぁ、なんというか。これはまぁ、これで。
「ね、おいしいでしょ?」
「あぁ、うん」
曖昧に答えながら、じいっとこちらを見つめるまなざしに、ぎこちない愛想笑いで答える。もちろん言わないけれど、この嬉しそうな笑顔が何よりものいちばんのごちそうだなんてことは。
「パンも美味しいなぁ、でも。このバゲットほんと美味しいよね、スーパーのやつなのにね」
「俺の分も食う?」
「だめだよ、ちゃんと半分こしないと。ずるしたらよくないじゃん」
「ずるって言わないだろ」
「そうかなぁ?」
笑い合いながら、かちゃかちゃと食器のぶつかり合う音を立てる。
「明日はさ、もうちょいとろってなるまで煮詰めてグラタンとかドリアにする?」
「いいな、うまそう」
明日もきっと寒くなるはずだから、温かい食事が恋しくなるはずだ。
同じ部屋で過ごして、同じ物を食べて、ささいなことで笑い合って――そしてまた明日になれば、いつもの朝がこの部屋ではじまる。
そんな〝当たり前〟を守り続けたいと思えることが、いつだって何よりも愛おしい。
「ねえ周、やっぱこのパンさ、ひときれ残さない? でさ、クロックムッシュにしようよ、明日の朝ごはん」
「へえ、いいじゃん」
差し伸ばしかけた手をぴたりと止めてそう答えれば、にやりと嬉しそうな笑顔が返される。
ささやかで幸福な〝約束〟をかわしあいながら、365日を繋ぐ魔法は、こうして解けずに続いていく。
周くんの話している歌は矢野顕子さんの「クリームシチュー」です。
元はCMソングとして作られた曲ではないそう。

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