あましの、ふたりを築くもの。
人間の細胞はおおよそ三年ですべて入れ替わる、だなんて話をどこかで耳にしたことがある。
骨や肉、血、皮膚、髪の毛一本一本、爪の先まで――絶えず細胞分裂を繰り返しながらこの身体は生きることを止めず、生まれ変わり続ける。そうしてそのひとつひとつは、口にした食べ物が源になっている。
健康志向とはほど遠ければ、ストイックで規則正しい生活だなんてものは到底叶いそうにないけれど――ひとりで食べるためのおおよそ〝肥料〟まがいのノルマにしか思えなかった日々の食事が、いつの間にか大切な相手と過ごせる時間になった頃から、少しだけ気の持ちようは変わったように思う。
窮屈な重荷でしかなかったこの身体は目の前に、この不器用な腕の中にいてくれる相手と触れあえる〝媒介〟で、それらを新たに形作る源となってくれるものは、日々共に口にする食事で――同じものを食べて同じ屋根の下で暮らす自分たちの体の内側はきっともう、同じもので作られているのだ。
忍と初めて出会ってからはおおよそ三年と少し、こうして一緒に暮らすようになってからは一年あまりになる――この身体の内で息づくもの、細胞のひとつひとつや心の中を埋め尽くすもの、それらみなはきっと、忍と過ごす日々があったからこそ培われたものなのだろう。
もうきっとこの体を構成する細胞のすべては、目に見えるはずもない心の全部は生まれ変わってしまったに違いない。忍と出会う前のーーこんなにも大切なものがあることなんてまるで知らなかった空っぽの自分からは。
他愛もないそんな夢想は、いつだって少しだけ、心をやわらかにしてくれる魔法に満ちている。
作り置きのチキンカツをトースターで温め、衣がカリッとした歯触りになるようにとキッチンペーパーで余分な油を切る。ザク、ザク、と小気味良い音を立てるカツを食べやすい大きさに切った後は、甘酢だれと作り置きのタルタルソースをたっぷりかけ、レタスと串切りにしたトマトを皿の隅に添える。まあこれで彩りも合格点だろう、三色揃ったんだから。それにしてもトマトと卵ってつくづく万能選手だよな、栄養価は勿論のこと、赤と黄色が加わるだけでぐっとそれらしく見えるんだから。
火を弱めた鍋に合わせ味噌を入れてさっと溶かした後は、賽の目に切った豆腐を入れれば汁物の準備も終わりだ。味噌汁ってやっぱりあると安心感が違う。出汁の味って日本人のDNAに刻まれてるもんなんだろうか。
それにしても、食べ物の好き嫌いって真面目に考えると不思議だ、どうして〝受け付けない〟だなんてものがあるんだろう。それでもそれなりには生存出来るあたり、人間ってつくづくよく出来てるよな。
チキン南蛮、もやしと油を切ったツナに水菜のサラダ、わかめと豆腐の味噌汁。特売品の食材と残り物でこしらえた夕食は決して大層なものではないけれど、大手食品メーカーのレシピの分量をきちんと守って作っているのだから、おそらく大惨事になることはないだろうと思う。
もうそろそろだよな、よっぽどのことでもない限りは。ちらりとスマホの画面を確認してからふっと息をのめば、予想通りのうんと明るくて大きな声での「ただいま」が玄関に響きわたる。
「おう、おかえり」
火を止めたことをすぐさま確認して短い廊下を足早に急げば、玄関先にはすっかり見慣れた得意げな笑顔が広がる。
「ただいま、周。遅くなっちゃってごめんね」
上がり框のほんの数センチの段差を借りれば、ほとんど身長の変わらない忍ともほんの少しだけ目線の高さが変わる。そんな些細な変化を楽しむためにと、わざわざこうして〝お迎え〟を待ってくれているのかもしれないだなんてことを思うこんな時、言葉では言い表しようのない愛おしさは何度でもぐらりと甘く立ち上る。
「いいよ別に。飯の準備出来てるからさ、着替えて支度してきて」
「きょうはなに? ご飯」
くるくるとよく動くまなざしはじいっとこちらを捉えながら、明るく弾んだ声を返す。
「チキン南蛮、それとわかめの味噌汁」
「やったあ、おいしそう~! ありがとね、ご飯作ってくれて」
「いいよ別に。きょう俺の番だっただけじゃん」
嬉しそうに瞼を細めて笑いかけられれば、胸の奥ではただ静かに、あたたかなものがこみ上げる。
「周もおかえりなさい、着替えてくるからまた後でね」
「おう」
笑いあいながら、かすかにそっと手の甲をぶつけあうサインで応える。そんなささやかな日常の仕草のひとつひとつは、いつだってただいとおしい。
「ご飯どれくらい?」
「んーとね、お茶碗の八分目くらい」
言われた通りの量をよそおい、順にカウンターに置けば、トン、トン、とリズミカルな音を立てながらふたり分の食事が順に食卓に揃っていく。
配膳は調理の担当者、食後の片付けはそうじゃないほう。ふたりで食事を共にするようになってから定着したささやかなルールは、こうして生活を共にするようになってからも変わらないままだ。
チキン南蛮(串切りトマトとレタス添え)、もやしとツナのサラダ、わかめと豆腐のお味噌汁。箸休めにキュウリの漬け物。
色違いの塗り箸と箸置き、ランチョンマットの一揃えはふたり暮らしを始める記念に改めて揃えたものだけれど、こうして日々の食事で目にする度に、少しだけ初心に帰れるような気持ちになれるのだから、つくづくいい買い物だ。
「わぁ、おいしそう~。うれしい~!」
部屋着に着替えた向かい側の相手からは、うんと嬉しそうに瞼を細めた満面の笑顔。やっぱいいもんだよな、こんなふうに言葉でちゃんと伝えてもらえるのって。
何かともっともらしい言い訳をしては意志疎通だなんてものから逃げてきた自分のありようを鑑みるようになったのは、こんなにも喜怒哀楽をはっきりと示した上で、言葉と態度、その両方でいつでも臆せずに自らの気持ちをまっすぐに伝えてくれる相手が三六五日こんな風に側にいてくれるようになったからにほかならない。
「じゃ、食おっか。いただきます」
「いただきます」
ぱちりと目配せを交わしあい、そっと両掌を合わせる。この体を、血と骨と肉を作り上げてくれる豊かな恵みに心からの感謝を告げよう。今日もありがとう、俺たちにこうして食事という名の安息の時間を与えてくれて。
たとえ同じ食事内容でも、食べる順番で血糖値の上昇の仕方が変わるらしい。いつかのテレビで目にした聞きかじりの知識をもとに、ひとまずはモヤシサラダとトマトをやっつけるように(レタスはチキンをくるんで口にしたいので、特例として許すことにする)していれば、食卓の向かい側からはすっかりおなじみのやわらかな声が届けられる。
「そういやさ、ひろちゃんが今度福岡に行くからおみやげ送ってくれるってさ。もつ鍋セットってリクエストしてあるよ。あとね、手羽先に明太子が入ってんのがおすすめなんだって。手羽餃子の明太子版みたいなさ」
「へえ、そんなのあんだ。うまそうだな」
なるほど、明太大国らしい名物があるもんなんだな。どこか感心したような心地でぼんやりと答えれば、上機嫌なようすの軽やかに弾んだ返答が続く。
「なんかね、向こうに先輩が住んでるらしくてさ、地元の人しか知んないようなお店とかも案内してもらう約束なんだって。いいよね、そゆのって。どっかいいとこあった? って帰ってきたら教えてもらおっかなぁ。でもそゆのってずっこいかなぁ?」
「そんなことないだろ」
すぐさまやわらかに打ち消すような返答をこぼせば、ふわり、と瞼を細めた穏やかな笑みがこぼれ落ちる。
「俺らもどっか行く? そのうち」
毎年恒例となった忍の誕生日記念の〝お泊まりデート〟こそあれど、本格的な旅行だなんてものからは随分ご無沙汰になっていたことだし。
ちびちびとおかずとご飯と味噌汁の間を三往復するこちらを前に、すぐ目の前の相手からはぴたりと箸をとめての、少しばかりの思案のため息が漏れる。
「んー、」
顎へとそっと手をあててのしばしの検討の後、得意げな口ぶりで忍は答える。
「じゃあさ、いっそハワイとかは? 綺麗な海でへっとへとになるまで泳いで、夕方は夕陽が沈んでくのをぼーっと眺めんのね。夜になったらショーがみれるレストランとかに行ってご飯にしてさ。ハワイの名物ってなんだっけ、ガーリックシュリンプ? ステーキとかも?」
……随分考え込んだな、とは思ったけれど、なるほどそう来たか。嬉しそうに笑いながら告げられる提案を前に、思わず苦笑いでぽつりと答える。
「えらい大盤振る舞いだな」
せいぜい新幹線で行ける距離の東北あたりの温泉か、いっそ豪勢に北海道で海の幸満載ツアーあたりかな、とは思っていたこちらとはいかんせんスケールが違いすぎるのだけれど。
「まあいいじゃん、いますぐってわけじゃないしさ」
ざく、ざく、と小気味よい咀嚼の音を響かせる合間、うっとりと弾んだ言葉は続く。
「あっ、でもさぁ、おんなじ南国ならモルディブあたりの水上コテージとかもよくない? 海の音だけがずっと聞こえてて、他には誰もいなくて――天国ってこんな感じなのかなーって話してさ。そんでさ、いっそのことどこも行かないで、何もしないの。いちんちずっとベッドの中から出ないで居んのね、周とふたりで」
軽やかに告げられる言葉の端に浮かぶ仄かな熱に、ぐらりと胸の端で燻ぶった色があっけなく揺さぶられる。
「……忍」
どきり、と不器用に跳ねる胸の内を宥めながら嗜めるように囁けば、覆い被せるかのように得意げな口ぶりの言葉が続く。
「いいでしょ、そゆのだってさ。憧れない? 周は」
「……まぁ、」
どこか気まずい心地を隠せないこちらを前に、うっとりと甘やかな色を帯びた声色が密やかに洩らされる。
「いまでもさ、たまに思うもん。周が〝俺だけの周だ〟ってそう思える時間がもっとほしいなって。ここじゃなくてさ、もっとずうっと遠くで、誰も俺たちのことなんて知らなくって、言葉も通じなくて、辺り一面海に囲まれてて、逃げ場もなくて――そゆとこにふたりきりだったらさ、周は俺だけのもの、俺は周だけのものって思ってもいいのかなって。なんかよくない? そゆのもさ」
得意げに笑いかけながらこぼされる言葉からは、ぐらりとのぼせるかのような温かな温度が揺らぐ。
「……おまえさぁ」
ぴたりと箸を止め、ゆるやかな吐息混じりにぽつりと答える。
「どんだけ好きなんだよ、俺のこと」
自惚れだなんていわれたって構わない、いくらだって。どこかあきれ混じりに囁くこちらを前に、にいっと得意げな笑顔をこぼしながら、〝恋人〟は答えてみせる。
「知ってんでしょ? 周とおんなじくらい」
さも当たり前と、言わんばかりの口ぶりで告げられる言葉を前に、ぶざまなまでにさぁっと胸の奥からは沸き立つような歓喜がこみ上げる。
ほんとうにどうすればいいんだろう。こんな気持ち、ちっとも知らなかったのに。そばにいればいるほどずうっと、こんなにもぶざまなまでに〝好き〟が膨らんでいくだなんてこと。
「……忍、」
「ん、どうかした?」
にいっと得意げに笑う顔を見つめながら、口の端についたソースを指先でそっと拭い、ぎこちなく笑いかける。ほんとうならいますぐに髪をくしゃくしゃにかき回したりなんてしてやりたいところだけれど、まだ食事中なことを思えば、それはちょっと。
「どしたのいきなり、ちゅーしたかったの?」
「食い終わって歯磨きしてからな」
照れ隠しのつもりでわざとらしくぶっきらぼうに答える――たぶん見え透いた態度だろうけれど、それでも。
すっかり見慣れてしまった少しよれた部屋着姿(くたびれてきた頃くらいが「肌になじんでちょうどいい」らしい)、大きく口を開けて上機嫌なようすで食事をとりながら、時折掛けられる「おいしいね」の言葉、こちらの返答を待つ時の、期待に弾んでかすかに潤んだまなざし――もうとっくの昔に思い知らされている。こうして共に過ごしてきた時間の全部がこの体の内で息づく細胞を、血や骨や肉を、空っぽだった心を満たすもののすべてを形作ってくれていて、後戻りなんていまさら出来やしないだなんてことを。
音をたてないようにと慎重に味噌汁を啜りながら、ぼそりと遠慮がちに周は答える。
「なぁ忍、旅行の件だけどさ」
「あぁ、うん」
「ひとまずはさ、五〇〇円玉貯金からスタートな」
何年計画になるのだろうかという気の長い話ではあるけれど、千里の道も一歩より、とはよく言ったもので。
「うん、ありがと」
「ドーイタシマシテ」
嬉しそうに笑う表情を見つめながら、ほうじ茶の注がれたグラスをこつんとぶつけあう。
いますぐにとはいかないけれど、いつか、少し先の未来ではきっと――ふたりきりになれる〝楽園〟へ向けた航海は、まだ始まったばかりだ。
昼休憩は決まっていつも、ビル内のテナント共同のコワーキングスペース兼休憩エリアで、持参した弁当を食べるのが定番になっている。
混雑した中でわざわざ食事に出るのも億劫だし、そもそも金銭的にも贅沢は言っていられない。ささやかな節約の手段として学生時代から続けている弁当の習慣は、忍とのふたり暮らしになってからは、不定期なローテーションを組みながらゆるやかに継続している。
「いただきます」
少し前に買い換えたランチバッグから取り出した弁当箱の蓋を開け、両掌を合わせて小さくそう声をあげる。ひとりきりの食事とはいえ、身についた習慣はなんとなくそうしないと落ち着かないから。
鶏腿肉の柚子胡椒焼き、ネギ入りの卵焼き、レンコンのきんぴら、ゆかりふりかけをまぶしたご飯。別添えのタッパーにはレタスときゅうりとわかめのサラダ、ドリンクコーナーから拝借した紙コップにはインスタントのしじみとわかめのお吸い物。SNS映えなんてまるで気にしたことのない、ただ自分と大切な相手を満たすために用意したささやかな昼食は、こんなふうにひとりで食べている時でもちゃんとそれなりに美味しい。
――『きょうはねえ、教授がペルーから帰ってきたとこでおみやげってお菓子とお茶くれたよ。お昼入んなくなっちゃうから家でいただきますって持って帰ったからさ、いっしょに食べようね。あとね、きょうは予定いっこなくなったんで早く帰れそう。晩ご飯周の好きなの作るね。なにがいい?』
――『おう、ありがと。特売品見てからでいいよ。俺もなるべく早く帰るな』
お世辞にも行儀が良いとは言えないと思うのだけれど――ひとりの食事の際にはこんなふうにスマホを見ても良いことにしている。
離ればなれでいる間もこうして同じものを口にして、同じ時を過ごしている――ただそれだけの〝当たり前〟は、どうしていつだってこんなにも愛おしいのだろう。
「きーりしまっ」
画面上を軽やかに踊る文字と程良くゆるい絵柄の猫のスタンプに目を落としながらしゃくしゃくとレタスの咀嚼にいそしんでいれば、背後からすっかり聞き慣れた声が届けられる。
「なぁ、ここって空いてる? 一緒にメシいい?」
高々と掲げられた右手には、いつものテイクアウトの紙袋ではなく、手提げ式のランチバッグがぶら下がっている。
「桐島は今日も愛妻弁当? いいねえラブラブで」
「だから言ったろ、ちげえって」
愛で満ち足りた毎日を過ごしていることだけは否定しないけれど、ひとまず今日に関しては自分で作ったおかずを詰めてきたから〝そう〟ではないわけだし。
すっかりお馴染みになった軽口をあしらうようにしながら、傍らの男がとん、とん、と音をたてながら広げていく弁当を横目にぼうっと眺める。
「俺もさ、桐島を見習ってはじめよーって思ったわけよ、弁当男子」
真新しく見える二段式の弁当箱の底には昆布の佃煮を載せた白ご飯、上の段には甘酢餡の肉団子とレタスにブロッコリー、ゆで卵。シンプルイズベスト、と言わんばかりのラインナップは働き盛りの成人男性の食欲を満たすには充分な代物のように見える。
「まぁさ、メインは半額セールのお惣菜だし、男子ウケまっしぐらって感じだけどさ。最初はこんなもんっしょ、伸びしろがあるってことでさ」
「食うのはおまえじゃん。問題ないだろ、それなら」
「それがさぁ、まぁ見てよ?」
ずい、と差し出されたスマートフォンの画面の中には正方形に切り取られた多種多様なカラフルなお弁当の数――どうやら、SNSのハッシュタグかなにかの検索結果を示したものらしい。
「俺もまぁ調べたわけですよ、弁当男子界隈に燦然とデビューするにあたってね、折角なら女子ウケする系の弁当ってのはどんなもんよって。したらまぁこれなわけです」
過剰なまでの飾り切りの駆使された弁当の数々は、食べ物というよりは、粘土細工でしつらえられたおもちゃか何かのように見える。
「よくやるもんだな……」
飾り切りの残骸は果たしてどう処理されるんだろうなだとか、いくら手袋やピンセットを駆使したところでベタベタ触った食い物を口にするのは遠慮したいな、だなんていうのが正直な感想だけれど。まぁ、これらすべてはSNSで不特定多数に見てもらうためのいわば〝作品〟なことくらいは百も承知なので、そんな無粋なことをわざわざ口にするほど野暮ではない。
「女子ウケっつうとどうもこういうのっぽくてさぁ。これって独学? なんかあんのかね? 映える弁当講座的な?」
「さぁな」
どこか呆れたような心地でぼそりと答えながら、ただ食べやすい大きさで、とだけ意識して切り分けた卵焼きをもぐもぐと口に放り込む。こういうのも型に詰めて成型したりするんだろうな。星形とかハート型とか? まぁしないけど、収まりが悪くなりそうだし。
「そういう流派もあんだよきっと。お前だってやってみればいいじゃん、案外才能あるかもよ」
「弟子入りとかってさせてくれんのかなぁ、したら考えんだけどな」
まぁいいや、いただきまぁーす。小さく手を合わせ、プラケースに入った箸箱から取り出した箸で大きな口を開けて一口目を頬張る姿をぼうっと横目に眺める。
「ん、うまい! さすが俺!!」
両掌を叩いて自画自賛のそぶりを見せながら、ぼそぼそと、言葉は続く。
「まぁさ、もしもってことはあるわけじゃん。『キャー! あそこの席のあの人のお弁当ってばすっごく素敵! もしかして愛妻弁当なのかなぁ? えっ、自分で作ってるって話してるのが聞こえちゃったぁ! 』ってとこから始まるラブストーリーとかさ。だからまぁさ、その辺も踏まえたら女子ウケはマストってわけよ」
「いつの時代ならそんな女子がいるんだよ」
しらじらしいほどの棒読みでの裏声を前に、思わず苦笑いをこぼしながら言葉を続ける。
「マジレスするけどさ、飯の価値観って思ってるよりもずっとデカいもんだぞ。んな妙な無理してまでウケようってしたって、結局は長続きしねえぞ。自然体って言葉、辞書でもう一回引いてみろよ」
程良く弾力のある柚子胡椒風味の鶏腿焼きをくにくに噛みしめながら答えれば、傍らからは少しばかりかまをかけるような、おどけた口調での返答が投げかけられる。
「へえ、桐島くんのお相手はそうってわけですかぁ」
……なるほど、そうきたのか。いつもなら、適当にあしらってやり過ごすところではあるけれど、でも。
「――そうなのかもな、まぁ」
さらりと平静を装うように答え終わると同時に、すぐさま水筒のボトルの淵へとそっと口をつける――思わず緩みそうになる口元を見られたくはないから。
ちらり、と遠慮がちに覗き見たまなざしには、まざまざと意外そうな色が宿る。
「あぁー、ついにのろけた! しかも特大ののろけだ! まいっかい誤魔化してたのに遂にドストレート豪速球キタこれ!」
からかい混じりの口ぶりにはそれでもどこか温かな色が宿されているのを肌で感じるから、無暗に責め立てたいような気持ちには不思議とならない。
「声がでけえよ……」
呆れながらそっと顔をしかめ、口元に人差し指を立てるジェスチャーで答えてみせる。ほんの他愛もないそんなやりとりに、それでも心は軽やかに弾む音を立てる。
少しばかりの呆れと、どこか晴々とした誇らしさ――その両方にぐらりと心地よく揺さぶられていくこちらを前に、先ほどのささやかばかりの忠告など気にも留めないようすの言葉が続く。
「えー、てかやっぱ愛妻弁当なんじゃん。いいよなぁ嫁がいるやつはなぁ。桐島オットコマエだもんなぁ」
「だからちげえよ、これは俺が作ったやつ」
思わずむきになったような口ぶりで答えながら、鶏肉のたれを染み込ませたご飯をぱくりと口に運ぶ。弁当の中身はいつも作り置きか夕食のおかずを余分に作ってのローテーション制で回しているので、明日あたりは忍の担当になる予定だけれど――それに。
「てかさぁ、嫁って言い方すんの、いまどきあれだぞ。おまえさてはコンプラ研修ん時寝てたろ」
肩肘で小突くようにしながら、弁当箱の底に張り付いた米粒ひとつひとつを丁寧に箸で摘んでは口にする。
わずかばかりに胸の内がかすかに痛むのはもうとっくに慣れていて、けれど――分かっているから、わざわざ一からすべてを話す必要がないことくらいは。
ほかの誰かにとっては〝そう〟ではないのだとしても、それでも――〝ふたり〟にとってはごく当たり前の日常は、きょうもこうして穏やかに過ぎていく。

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