「ハッピーバースデートゥーユー」
ヘッドフォン越しに、少しざらついてくぐもった歌声が耳をくすぐる。
これが地球四分の一周分を隔てた遠い国、九時間前の日本から九時間後のロンドンに時差も無く届いているというのだから、改めて文明の利器の力には感心せざるを得ないな、と僕は思う。
ぱちぱちぱちぱちぱち。
画面の向こうでは、少しノイズ混じりの――それでも、いつまでも変わらないぬくもりを与えてくれる笑顔がそっとこちらを迎えてくれる。
「十四歳か、祈吏ももう大人だね」
『カイもおんなじでしょ?』
くすくすと無邪気に笑うその微笑みは昔からちっとも変わらないのに、なだらかな輪郭の描くライン、そこかしこに漂うその陰影に、どこか少しずつ、知らない気配が潜みはじめているのに気づく。
髪をほんの僅かに切ったこと、洋服の趣味がこのところ少し変わってきたこと、いつも話題に登場した『友達』の顔ぶれが、いつしか少しだけ入れ替わっていること――身近にいればひょっとしたら見過ごしてしまいそうなそんな些細な変化にも、こうして離れて暮らしているとよく気がつく。
離れ離れで暮らしているうちにも、当然同じように祈吏の時間は流れていて、少しずつ、祈吏は僕の知らない女の子になっていく。
そんなあたりまえのこと、と、笑われてしまうだろうけれど、生まれてから十二年、片時も離れずに生きてきた僕たちにはそんな些細なことだって大問題だ。
こんな風にお互い離れ離れで誕生日を迎えることだって、二年前の夏までは思いもしなかったのに。
『寂しいなぁ、やっぱり』
不満げに唇を尖らせるようにしながら、九時間前の世界に住む双子の姉は答える。
『去年もそうだったから覚悟はしてたけど、お父さんもカイも居ないと、楽しいことも嬉しいことも全部半分どころかその半分以下だもん』
「……祈吏」
わかりやすすぎるほど率直な喜怒哀楽に、いとおしさがみるみるうちに膨らんで、滲んで行く。こういうところがどうしようもなく好きだった。子どもの頃から、今もずっと変わらずに。
「再来年には帰るよ。そしたら三年ぶんお祝いしてあげるから、ね?」
ため息混じりに答えれば、画面越しに微かに瞳を細めた笑顔が返ってくる。
やっぱり可愛い、と改めてそう思う。
どんな女の子よりも、ずっと身近に居てくれたこの女の子が世界で一番可愛くて、誰よりも好きだった。その気持ちは、こうして地球四分の一周ぶんの距離を隔てた今でも一ミリも変わらない。
『ね、今日は何してたの?』
「別に……お父さんは用事があるっていうから、マーティンと留守番してたくらい」
『仲良しだね、ふたり』
「……まぁね」
はにかんだような口ぶりで告げられる言葉を前に、僅かに胸の奥で、軋む音が響く。
誤魔化すようにカメラのフレームの外で手の甲をそっとさするようにすれば、指先のその感触から、ふつふつと沸き立つような思いが滲む。
一緒にお風呂に入ること。
ぎゅっと抱きしめあうこと。
髪を撫でること。
同じベッドで眠ること。
手を繋ぐこと。
あたりまえだったはずのそのひとつひとつは、積み重ねてきた年月と共にひとつずつ遠ざかって、いつしか跡形もなく消えていってしまった。
成長の証だなんて言ってしまえばそうだろうけれど、祈吏に触れなくなるのならいっそ、大人になんてなりたくなかった。
最後に、とびっきりの安らぎをくれたあのぬくもりに触れた時に感じた想いは、記憶の中から遠ざかっていくばかりだった。
ひとつの曇りもないまま祈吏に触れられた――そんな奇跡みたいな時間が本当にあったなんて、いまではもう信じられない。
触れた指先だけじゃなく、心の隅々まで、新しく得たぬくもりのその感触に上書きされていくのを感じていた。そのことにどこか寂しさを感じずにいられないだなんて、なんてわがままなんだろう。
「カイ……」
しきりに髪をなぞっていた指先の動きをそっと止めて、どこか物憂げな色を隠せないまま、彼は尋ねる。
「どうしたの?」
囁くような優しい声が、耳をやわらかにくすぐる。
きつく結び合った指先の少し骨ばった感触も、薄く平たい身体を重ね合わせた時に皮膚を伝って得るぬくもりも、吐息が伝えるこらえようのない熱も――そのどれも、祈吏と触れ合った時に感じたそれとは似ても似つかない、そのはずなのにーーこうして触れあうその度、泣きたくなるような懐かしさと息苦しさが同時にせり上がってくるのは何故だろう。
「……なんでもないよ」
くぐもった声で、誤魔化すようにそう答えながら、いつもそうするように肩の窪みに頭を押し付けるようにして、微かに赤く染まった耳朶にそっと唇を寄せる。
歯を立てないようにしてゆるゆると食めば、照れたように身を捩らせるのが可愛くて仕方がない。
「ね、好きだよ」
まるで自らに言い聞かせるようにそう囁きながらぎゅっと抱きしめるその力を強めれば、宥めるようにうんと優しく、抱きとめた背中をそっとさすられる。
胸の奥でゆらゆらと、形も行き場もない熱が揺らめいているのを感じていた。行き場のないざわめきは、心ごと縛り付けて息を詰まらせる。
こんなに幸せなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。震えた指先をそっと伸ばして首筋に絡めるようにすれば、望みどおりのうんと優しいキスが、あまくくすぶった吐息をそっと閉じ込めてくれる。
心の芯をなぞるように触れられることがこんなにも幸福であることを、身をもって知ってしまった。ぐらりと揺らめくこの熱を捨てることが出来ない限り、僕はもう二度と祈吏には触れない。
『ねえ、カイ』
しばしばそうする、横に流した髪をそっと指先で梳くその仕草と共に、画面越しに祈吏は尋ねる。
『髪の毛、伸ばしてるの?』
「あぁ……」
誤魔化すようにうっすら笑いながら、僕は答える。
「少しだけ、ね。ほら、寒くなってきたし」
『そんな理由?』
ヘッドホン越しに耳を淡くくすぐるくすくすと無邪気なその笑い声に、心ごとかき乱されるのを抑えきれない。
耳を出さない髪型にしてほしい。
美容師に指先で髪を掬われた時にそう頼んだのは、彼と繰り返しキスをしたその後、微かに痣のように赤いその跡が残っているのに気づいたからだ。
そんなこと、誰にも言えるわけがなかった。
『――それでね、カイ。ね、ちゃんと聞いてる?』
「ああ、ごめんごめん」
いじけているようにも甘えているようにも聞こえる、どこか含みを持たせた口ぶりで、祈吏は言う。
『みんな言うの、いい加減海吏くんが居ないのにも慣れたでしょ? この機会に弟離れしたらどう? もう二年生なんだから、好きな人くらい居なきゃ恥ずかしいでしょ? って』
邪気のかけらもない響きで告げられる言葉に、裏腹にぞくりと胸の奥にナイフを突き当てられたかのような、不穏な感覚が忍び寄る。
「……それでどうなの、祈吏は」
ぎこちない作り笑いで応戦するこちらを前に、九時間前の世界から届けられるのは、あまりにも『らしい』言葉で。
『だって、そんなこと言ったって好きな人なんて無理して作るものじゃないでしょ? やっと十四歳になったところだっていうのに、焦ってまで探す必要なんてある? そのことと、わたしがカイのことが好きなのは別問題でしょ?』
「……祈吏」
触れられる距離に居なくてよかったと、心底そう思った。もし祈吏が目の前に居れば、きっと一生後悔する羽目になったって、無様に震えたこの掌を伸ばさずにいられない自信はなかった。
『ね、カイは居るの? 好きな人』
じっとこちらの瞳を覗き込むようにして話すその癖は、こうして回線を通して話すようになってからも少しも変わらない。
ざらざらとしたウェブカメラの画面越しに投げかけられるあまりにも実直なそのまなざしを前に、無様に目をそらす様にしながら僕は答える。
「……いないよ、そんなの。いたら真っ先に祈吏に話すに決まってるでしょ」
答えながら、フレームアウトした画面の外で微かに震えた掌に爪を食い込ませるように、ぎゅっときつく握り込む。
あのね、祈吏。好きな人ならもう居るよ。
祈吏にも何度も話した、初めての親友だってそう紹介した相手だよ。
祈吏を好きなままの僕を好きだって、そう言ってくれたんだよ。
祈吏にも話せる時が来れば、きっとちゃんと話すよ。
その時にはもう、こんな風に祈吏を好きだった気持ちなんて全部忘れてるのかな。
力なく唇を噛みしめるこちらに気づいているのか居ないのか、いつも通りのうんと明るいあの笑顔を浮かべたまま、祈吏は答える。
『じゃあ約束。カイに大事な相手が出来たら真っ先にお姉ちゃんに話すこと。ね?』
「……祈吏もだよ」
答えながら、少しひきつった唇の端をそれでも無理やりに持ち上げるようにして精一杯の笑顔を作ってみせる。大丈夫、大丈夫。ちゃんと笑えてる、『弟』の顔で。
微かに震えたままの、どんどん冷たくなっていく指先は、握り返してもらえることを必死に望んでいるようだった。その相手が誰かなんて、言わなくたって分かってる。
僕の居ないその隙に、誰かが祈吏を奪ってくれたらいいのに。
そうやっていい加減、この無様な片思いを跡形もなく終わらせることが出来たらいいのに。
そんな風に願わずに居られない自分は、きっと誰よりも醜くて卑怯だ。
君、十四、清ら肌、まだ恋を知らず
蘭奢