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調弦、午前三時

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花冠のおひめさま


あまぶんで出した無配ペーパーからの再録です。
「ジェミニとほうき星」祈吏とマーティン。









 祈吏はお姫様。海吏は王子様。ふたりとも世界でいちばん大切なたったひとりのかけがえのない男の子と女の子。
 かわりばんこに髪をなぞりながら何度も言い聞かせてくれた、子どものころの他愛もない、やさしいおまじないのような言葉。
「子どもはみんな、それぞれのおうちの大切な王子様とお姫様なの。祈吏とカイもそうなのよ、忘れちゃだめよ?」
「はぁい」
 うんといい子のお返事で答える横で、隣にいてくれた「王子様」がどこか困ったみたいな顔でじっとうつむいていたことを、私はよく覚えている。

「子どものころからずうっとそうなの。カイは照れ屋さんだから、はずかしくなったり気まずくなったりするとじいって黙っちゃうの。それで、『どうしたの?』って聞いたらますます困ったみたいに黙っちゃうの」
 それでも、少しあせばんだ掌をやさしく包み込むようにすれば、うんと遠慮がちにふんわりやさしく握り返してくれる。「だいじょうぶ」の言葉とともに笑いかければ、ふわふわの洗い晒しのタオルみたいな、包み込まれるようなやわらかい笑顔でそうっと答えてくれる。
 そんなささいなひとつひとつに、いつだって、何度も何度も繰り返し、心ごとやわらかく受け止めてもらって、そうやってずっと一緒に大人になってきた。
「幼稚園のころだったかな? 夜中になにか物音が聞こえて、つられて目がさめたら、隣のベッドが空になってたの。びっくりして、思わず『カイ?』って呼んだら、ドアのところで、枕を抱えたカイがきまずそうな顔でじいっと立ってて」
 ぱちり、と睫毛をかすかに震わせるかのようなまばたきをする彼を前に、私は続ける。
「どうしたのって聞いたら、怖い夢をみたんだっていうの。どうして? ってちょっとだけ不機嫌になって、そのままぎゅうぎゅうカイのこと抱きしめて言ったのよ。お姉ちゃんが隣にいるのになんで頼ってくれないの? いのりはカイのたったひとりのお姉ちゃんなのよって」
「……変わってないね」
 瞳を細めて告げられる言葉に、どこかぎゅっと心の奥をふさがれたような心地を味わう。ああ、知ってるんだ。そうよね。
 でも、少しもいやな気持ちになんてならない。受け止めてくれる相手がちゃんといること、それをただ、素直にうれしいと思えるから。
願いを込めるように、少しだけ強気に唇の端を持ち上げて笑うようにしながら、私は続ける。
「だいじょうぶ、もうだいじょうぶよ。カイのことはお姉ちゃんが守ってあげる。そのためにいっしょにいるのよ? だから今度祈吏が怖い夢を見たらカイが祈吏を守ってね。カイは祈吏の王子様なんだから、おやすいご用でしょって」
 暗がりの中で、毛布の下に潜らせた指を絡め合って、指切りの代わりみたいにぎゅうぎゅう握りあって眠った夜があったことを、私はいまも覚えている。ねえ、あなたは?
「カイはいつでもやさしくて、ほかの男の子みたいにらんぼうなことなんてしないし、意地悪も言わないし、ほんとうに自慢の弟だったの。どんどん背が伸びて、いつのまにか力も強くなって、手だってずうっと大きくなったけど、いっしょに歩く時はちゃんと合わせて追いつくまで待ってくれたし、はぐれそうになったら手だってつないでくれた。カイは誰よりも特別な祈吏の王子様だからって思って、正直言って、ちょっと得意げになってたところはあったと思うの。でも、ほんとうはそうじゃなかった」
 少しだけ熱くなった吐息をぐっと深く飲み込むようにして、私は答える。
「カイはやさしくって……いつだってやさしくって。そうやって祈吏の王子様でいられるようにって、いつでもがんばってくれて、それに甘えてただけなんだって。お姉ちゃんなのに、なんにもしてあげられなかったんだって」
 白いワンピースの裾をひるがえして、王子様と手を握ったままお花畑を裸足でかける花冠のお姫様になりたかった。そんな子どもじみた夢を、隣にいてくれた男の子はいつだってちゃんと守ってくれた。裸足の足の裏が、いつしかとげだらけになってどんなに痛んでも。
「祈吏」
 やわらかにそうっと、掬うような手つきでふわり、と髪をなぞり、彼は答えてくれる。
「……カイはきっと、あなたの王子様でいられることに救われてきたんだよ。だからそんなの、少しも悪いことなんかじゃないんだよ」
 瞳を細めるようにしながら告げられる言葉に、みるみるうちにやわらかな思いが、滲んでは微かに溶けていく。
 ほら、かないっこあるわけない。でも、そのことがなぜだか、こんなにもうれしくて仕方がない。
「マーティンは」
 少しだけ震わせた指先を、気づかれないようにとそうっとテーブルの下できつく握りしめながら、私は答える。
「カイの王子様なのね、きっと」
「……そんなこと」
 口をつぐんだままぎこちなく笑うその表情が、ほんの少しだけよく見知った男の子のそれと似ていることに気づいて、心の奥がゆるやかにほどけていくような心地よさを味わう。

 いびつな指先をやさしく握り返してくれた掌のあたたかさを、私はそうっと思い返す。その向こうに感じた、どこか懐かしさすら感じるあの気配も。
 ねえ、あなたにはもう、怖い夢を見て目をさましても手を握って「大丈夫」を言ってくれる相手がいるのね。

「祈吏は、」
 ぽつりと丁寧に、言葉を途切るようにやさしく、『王子様』は答えてくれる。
「いつまでもカイのたったひとりのお姫様だよ。それで構わないんだよってそう言えば、信じてくれる?」
「……ありがとう」
 せいいっぱいの掠れたぎこちない声で答えれば、包み込むようなやわらかな笑顔がそうっとこちらへと降りてくる。
 まぶたを閉じた向こうに微かに見えるのは、一面に広がる花畑だ。
いつの間にかお花の冠はほどけて、裸足で歩いた足の裏はにぶく痛んで。隣で笑ってくれた王子様の影はずいぶんと遠ざかって消えてしまったけれど、それでも。

「祈吏……?」
 どこか物憂げにじっとこちらを捕らえるまなざしに、ぎゅうっと心の奥を掴まれるかのような心地を味わう。
 それなのに、ちっとも苦しくなんてない。こんなにもやさしい。たぶんここで受け止めた気持ちのかけらの何倍もの宝物が、あの掌の中にもある。そのかけらのひとつひとつをこんなにも惜しみなく差し出してもらえることが、こんなにもうれしくて仕方がない。
「あのね――」
 ぐっと深く息をのみ、私は答える。
「あなたが――あなたがカイのこと、大好きになってくれて。ほんとうにほんとうにうれしいなって、そう思って」
 照れたようにちいさく肩をすくめて笑う姿に、いとおしさが滲んでふくらんで、みるみるうちに溶けて胸のうちをあたためていく。
 それでもこの熱は、少しも消えたりなんてしないのをちゃんと知っている。
 ほどけてしまった花冠をなおすように、そっと差しのばされた指先がやわらかに髪をなぞってくれる。私はただその感触に酔いしれるようにしながら、少しだけ熱くなったまぶたをゆるやかに閉じる。

 いつしか潰えて消えてしまったと思った夢の先で、こんなにもやさしくてあたたかなあたらしい魔法に出会えるなんて。





祈吏はお姫様、海吏は王子様、は「あたらしい朝」のおまけペーパーでも書いたエピソードでした。伏姫ママはそういうお母さん。

祈吏にも葛藤や苦しさがたくさんあって、それらを乗り越えさせてくれるような優しい掌を差し伸べてくれるのは海吏ではなく、マーティンの役目なのかなと思います。



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