ほどけない体温番外編。
春馬くんと周くんが「ともだち」になっていくまでのお話。
――『忍の電話借りてます。アドレス教えてもらっていいかとか確認するの面倒で。こないだはいろいろ世話になってほんとにごめんね、いつもろくでもないことばっかで迷惑かけてるんだろうけど、本当に感謝しています。また改めて謝らせてください。
たぶんいままでもこれからも忍が迷惑かけんだろうけど、本当に手に負えない時は引き取るんで遠慮なく連絡してください。こちらの連絡先も書いておきます。
それはともかく、またちゃんとお礼をしなきゃと思っているのでよかったら近い内に伏姫くんと忍も交えて時間でも作ってもらえるとありがたいです。よろしくお願いいたします。
桐島周』
メールの文面ひとつにも性格はでるものだとは思うけれど、これはまぁ。
スマートフォンの画面、履歴の中でも異彩を放つようなきっちりとした硬質な文章を前に、思わず背筋の伸びるような心地で、着古した部屋着のスエットの袖のあたりをなぞる。
まじめなんだろうな、なんていうか。こんな言い方すると、失礼かもしれないけれど。
自分にも他人にも厳しくて、きっちり筋を通すような子――出会い頭に受けた印象がそれだ。初めて顔をあわせた時の恐縮しきったそぶりや、ひどく弱気な態度を見せる傍らの彼を気遣いながらぺこぺことしきりに繰り返し、心底申し訳なさそうに頭を下げて謝罪を促す仕草にもそれはよく現れていた。
同年代にしてはいやにしっかりして、毅然としていて――それでいて、どこかもろく、不安げだった。
躊躇いも迷いも戸惑いも――それでも、手を離すことなんて出来るはずもないというまっすぐな想いも。力なく揺れていたまなざしには、そのすべてがゆるやかに溶かされていたようで。
恋人のことが大切なのは、自分だって同じだ。
つきあってもう五年は経とうとしている。ちいさなすれ違いめいたものはあったって、その間に決定的な大きないさかいもないまま日々を積み重ねてこられたのは奇跡みたいなことだと思っている。
……もしかして不満なんていくらでもあって、どこかで吐き出したうえでああやって笑いかけてくれるんだろうか。大いにありうる。
ぶつかり合うことが必要不可欠だとは思わない。それでも、あんな風にまっすぐに向き合って気持ちを預け合う姿を見せられてしまえば、自身に鑑みていろいろ考えさせられてしまうのは仕方のないことのように思えて。
さて、どう返事をしたものか。あんまり深く考えないほうがいいとは思うのだけれど。あれやこれやと思案に明け暮れながらベッドの上に投げおいたスマートフォンの液晶にちらりと目をやれば、間を読んだかのように聞きなれた無機質な着信音が鳴り響く。
もしかしてつぐみちゃん? だったらすごいな。
期待と不安がないまぜになったような心地でちらりと画面を確認すると、予想とは違う展開に、それでも少しだけ安心させられてしまう。
『瀧谷くん』
ああ、そうきたか。
「もしもーし」
『こんばんはー、いまだいじょぶだった? 周がメールしてたんだけど届いてた?』
少しざらついたノイズに混じって、聞き慣れたあの人懐っこい声が届く。
「あ、ちょうどいま見てたとこ」
『そっか、よかったー。別にいいんじゃんって言ったんだけどおまえがよくてもこっちはよくないとかなんとか言ってて。すっごい気にしてて。あ、よかったら代わろっか? 隣いるし』
――本人がいる横でしていい話なのか、とは思わなくもないのだけれど。屈託のない様子で語られる口ぶりには、迷いなどかけらもあるわけはない。
「……どっちでもいいけど」
ちょっと待ってね、の一言とともに、少しだけ声が遠ざかる。
『ねー周、春馬くんと話す? いいじゃん別に。いまさら照れてんの? え、そうじゃない? まーいいけどさぁ』
――はてさてこれは聞いていていいものなのか、少しきまずいのだけれど。
ためらうこちらなど気にもとめない様子で、すぐさま電話口に、あの明るい口ぶりが返ってくる。
『ごめんね春馬くん、やっぱいいって。とりあえずまた近い内にご飯でもいこ? 伏姫にも日程聞いといてくれる? また連絡すんね』
「うん、周くんにもよろしく言っといてくれる?」
決まりきった言葉を投げかければ、電話越しに返されるのはおおむね予想通りのこんな返答だ。
『あまねー、春馬くんがよろしくねって言ってるよー。周もなんかあるー?』
たっぷりの苦笑いなんて浮かべて――それでもきっと、あますところなどないぬくもりを潜ませた態度で答える姿が見る見るうちに浮かんだのは、言うまでもない。
「これってさ、ピーマンと違ってあんま苦くないじゃん」
ガラスのサラダボウルの中、カラフルな赤と黄色のパプリカをフォークの先でつつくようにしながら目の前の彼はぽつりと呟く。
「騙されないとかなんとか言って、たまに店とかで出てくると皿の隅によけんだよ。その都度ちゃんと食えよって叱ってんだけど」
「……瀧谷くん?」
名前をだしたその途端、気まずそうに俯いてわずかに視線を逸らされる。あまり感情を表に出すことの少ないように見える彼は、こと特定の相手の名前を出したその途端、こんな風にどこかあやうい揺らぎを覗かせてくれる。
こういうところが彼の恋人の言う『かわいい』ところなのかもしれない――などと、胸のうちだけで微かに思いはするけれど、もちろん口には出さない。
「春馬くんは」
どこか気まずい空気を打ち消すかのように、いつものあのどこか突き放したような口ぶりで、目の前の彼は尋ねる。
「なんかある? 好き嫌い」
「あんましない方だと思うけど……しいていうならまぁ、なまこ」
「……わざわざ食べなくていいんじゃん?」
あんまりにも『らしい』その口ぶりに、思わず笑い出しそうになるのをそっと抑える。
友達の友達(まぁいまでは直通ルートでの『友達』だとそう思っているけれど)の恋人、というのはどのカテゴリーに入れればいいのだろうか。まぁ、『友達』でいいのか。向こうもそう思ってくれていたらうれしいな、と思う程度の好意はあるわけだし。
どこか奇妙な縁で結ばれたこの関係は、いつしか介したはずのふたりを不在のまま、こんな風に途切れ途切れだけれど確かに繋がっている。
――『伏姫くんってなんか俺がいると緊張してるっぽいんだけど、なんていうか無理させてない? だったらなんか申し訳ないんだけど』
改めて話をしよう、という機会になったその後、少ししてから届いたあんまりにも『らしい』メールでの一言が、きっかけといえばそうだった。
――『人見知りするほうだから、昔っから。たぶんまだちょっと緊張してるんだと思う。周くんに悪いことしたってすげえ気にしてたみたいだし。あと、瀧谷くんがいるからじゃん?』
そりゃあ当人の恋人がいるまえなら、いろいろな意味でいつもの調子を出していいものかと戸惑うのは仕方のないことで。
――『……なんていうか、いろいろな意味でごめん』
――『謝んないでいいから、楽しかったって言ってたよ』
周に――というよりは、端々からにじみ出る、彼に心を赦していることを示すかのような、よく見知った(と思っていた)友人の態度の方に戸惑っていたのは確かだから。
もちろんそんなこと、口に出せるわけはないけれど。
――『俺も楽しかったし、よかったらまた遊ぼ。そんな緊張すんならカイ抜きにする?』
付け足すように一言添えてメールを返すと、少し間をおいてから返答が返される。
――『なんかいろいろありがと。よかったらだけど、また会ってくれるとうれしい』
――『いいに決まってんじゃん。ていうかきょうは瀧谷くんいんの?』
――『きょうは帰ってる、からいない』
そりゃそうか、じゃましてなかったんならよかった。
――『また連絡すんね。ほんとありがと、いろいろ。おやすみ』
緑色の吹き出しにくるまれたメッセージを前に、ふかぶかと息を吐き出す。
「あいつがさ、ちょっと前に学校で伏姫くんに会ったって言ってて。まぁしょっちゅう会ってるみたいだけど」
観念した、とでも言いたげな様子でふっと息を吐きながら告げられるのは、こんな一言だ。
「伏姫は周のこと好きだよって、いつものあの感じで、言われて。んなことさ、言われたってどう答えたらいいのかわかんないじゃん」
じっと俯いたまま、心底困ったように吐き出される言葉にふつふつとおかしみといとおしさがこみ上げてくるのを抑えきれない。
聞いてほしかったんだろうな、きっと。わかるよ。
「で、瀧谷くんは?」
どこか手持ちぶさたな指先で、グラスの底にたまった滴をなぞるようにしながらぽつりと尋ねる。
「瀧谷くんはその時なんて言ってたのかって、聞いてもいい?」
「……気が向いたら言うけど、とりあえずは」
ぎこちなく口をつぐむ態度を前にすれば、だいたいの予想がついてしまうのがなんだか心底おかしい。
「不思議な関係だよね、あのふたりも」
薄い橙の光を洩らすペンダントライトのあかりをぼんやりと見上げるようにしながら、春馬は答える。
「初めて会った時、すごいびっくりして。でも、すっごいおかしくって。カイは昔っからああで。なんていうか、警戒心が強いっていうか。人とあんまし関わりたがらなくて、高校でおんなじクラスだった時はだいたい俺経由でクラスのやつとも喋ってて。だいぶ変わったと思うけど、それでもだいたい、誰にでも親切だったし。だからさ、瀧谷くんに会った時はすごいびっくりした。あいつがあんなにそっけなくしてんの、初めてみたもん。でも瀧谷くんもそれでぜんぜん構わないじゃん。はたから見てるとすっげえおかしいのにちゃんと成り立ってて。ああ、これはこれで信頼してんだなって、何度か見てるうちに、ちゃんとわかるようになって」
――ふたりのあいだに何があったのかなんて、詮索する気はさらさらないけれど。どこか不可思議な均衡の上に成り立っているのであろう、飾らない気持ちを投げ掛け合うあの関係を、どこか安らかな気持ちで眺めているのは確かだ。
「……前にも、言ったかもしんないけど」
皿の隅のパプリカの赤と黄色をちらちらと視界の隅で追いかけるようにしながら、彼は答える。
「あいつ、伏姫くんのこと。自分にだけめちゃくちゃ冷たいし素っ気ないけど、そういうところがかわいいって、やったらうれしそうに言ってて。んな言い方するからこっちだって、女の子なんだろな、狙ってんのかな、ぐらいに思ってて。したらなんか、自分のことだけすげえ嫌ってるけど、それでもいいって。興味ないよりは、そっちのほうがまだいいって」
ふかぶかと力なく息を吐くようにしながら、言葉を告げられる。
「……いまになって考えても、ずっとわけわかんねえなって」
「――わかるけど、まぁ」
ちら、と身体の一部かなにかのようにしっくりと馴染んだ腕時計の方に目線をやりながら、ぽつりと答える。
「なんていうか、瀧谷くんらしいじゃん。いいと思うよ、そういうの」
どこか投げやりなむき出しの感情を預け合うかのようなあの態度を横目に見るそのうち、いつしか胸のすくような思いに駆られたのは確かだった。
恐れずにまっすぐ向き合って、上辺じゃない気持ちを時に投げ掛け合って。それでもちゃんと、お互いを尊重しあっている。誰にも心を開こうとしないまま、気まずそうに口をつぐんで目を逸らしてばかりいたあの頃の影は、少なくとも彼のまえではかけらも存在しない。
「瀧谷くんはさぁ」
ソースで汚れたナイフをすっと手に取りながら、春馬は答える。
「いっつもああいう感じで。すっごい気さくで、ニコニコ笑ってて。冗談めかしたような感じだけど、時々すっと突き刺さるようなこと言う時があって。ほんと、よく見てんだなって感じで。でもなんていうか、ぜんぜん嫌じゃなくて。なんていうかさ、やさしいじゃん。人のこと、すごく良く見てんのに自分のことはあんまり喋んなくて。いっつもなんか、平気なふりで通してるみたいなとこがあって。たぶんさ、心配かけないようにしてんだよね。そやって」
ごくり、とわずかに息をのむ音が聞こえたかのような錯覚を味わう。そんなわけ、あるはずもないのに。
「でも、周くんといる時とか、周くんの話してる時はそうじゃないじゃん。怒ったりいじけたり。笑ってるだけじゃなくて、ちょっとずつ弱気な部分とかもぜんぶ滲んでて。でも、最後はいっつもうれしそうで。なんていうか、納得したっていうか。ああそっか、こういうのぜんぶ、周くんにだけ取ってたんだなって思って」
――周くんもあるし、そういうとこ。最後のその一言だけは、ぐっと深く喉の奥に飲み込む。
「そういうもんだと思うよ、みんな。だからさ、別にいいんじゃん?」
人と人とのかかわり合いのあり方なんて千差万別なのはあたりまえで、その中にそれぞれにとっての一番の思い合える関係があって――『ほんとう』の心を見せあいたいと思える相手なんて、そのうちのたったひとりできっと、構わない。
「――春馬くんってさ」
すっとフォークの先に突き刺したパプリカとレタスを口元に運びながら、目の前の彼は答える。
「なんか、時々人生二度目っぽく見えんだけど」
どこかしみじみと告げられる言葉に、ちくりと胸の奥がわずかに疼く。
「……人並みにまぁあったから、いろいろ」
なんか偉そうだな、そんなつもりちっともないのに。どこか心苦しく感じながら答えれば、そんなこちらの様子に気づいたかのように、遠慮がちな言葉がそうっと覆い被さる。
「そのうち聞かせてもらっていい? その、一色くらい」
「……気長に待ってくれれば、まぁ」
声を立てないようにして笑ってくれるその態度に、どこか安らぎに似た気持ちが静かに満ちていく。
こんな風に話せるようになって良かったと、心からそう思う。
いつだって明るく笑ってくれる彼の、きっと見せるつもりなんてなかったはずの揺らぎをこんな風に掬い上げてくれるかけがえのない相手がいて、それを、誰よりも知っているはずの当人から教えてもらえるだなんて、ずっと思ってもいなかった。
投げ出された心のかけら、そのひとつひとつにこんなにも心をあたためてもらえるだなんてそんなこと、ずっと知らなかったから。
「……伏姫くん、元気?」
何かの決まり文句みたいに、うっすらと覆った気まずさを打ち消すみたいに投げかけられる言葉を前に、笑い出しそうになるのをぐっとこられる。
「元気だよ、すごい元気。こないだカフェに忘れ物したけど気づいたらすぐ拾ってもらえて、世の中良い人もいるもんだって言ってた」
「……すげえらしい」
遠慮がちに笑いながら答える態度を前に、覆いかぶせるように言葉を投げかける。
「ていうか会うよ、来週。なんかある? 言うこと」
「……仲良くなりたいから、あんま緊張しないでって。気をつけるから、俺も」
ひどく遠慮がちに、それでもはっきりと意志を込めたことが伝わる言葉に、ふつふつと胸の奥が沸き立つような、余すところのないぬくもりを味わう。
「りょーかい」
笑いかけるようにして答えながら、見た目に反して少しも苦くなんてないパプリカを奥歯でぎゅっと噛みしめる。
こんな風にして、飾らない気持ちを伝えあえる輪は広がっていく。それもきっと、それぞれが少しだけ今の場所から踏み出すための、勇気を持つことが出来たから。
(仲良くなりたいって、そう言ってくれてるよ? カイだってそうだよね)
胸の奥でだけゆらりと言葉を投げかけながら、目の前の彼の姿をじっと見る。
今度会ったらまず、何から話そう。
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