ほどけない体温、周くんと忍(社会人編)
「ただーいまー」
お客さんに会うから、と珍しくスーツ姿で家を出て行った忍が帰宅と共に持ち帰ったのは、いやに愛らしいパステルカラーの花束だ。
「ねえ周、花瓶あったよね? どこに飾ろっかな、食卓でいいかなぁ?」
はい、と手渡されたそれを受け取りながら、どこか戸惑いを隠せないまま周は尋ねる。
「いいけどどしたのこれ、貰ったの?」
「ううん」
ぶん、と首を振り、恋人は答える。
「きょうさ、直帰で良かったからついでにその辺ぐるっと回って帰ろって思ったのね。そん時にすっごいかわいいお花屋さんがあったからなんとなく見てて、したらほしくなったから買って帰ろってなったのね。なんていうかまぁ、衝動買い?」
随分かわいらしいそれで良かった、と思いながら、大小バランスよくアソートされた黄色とクリーム色、それに淡いピンク色の薔薇の花束をしげしげと眺める。これだってまぁ、それなりの値段はするのだろうけれど。
「電車乗ってる間もなんかいーにおいしてさぁ。潰しちゃわないかなってそわそわしながらじいって見てて、なんか心なしか通りすがりの人もこっち見てるみたいな気がしてさぁ」
うれしそうにはにかんで見せながらぽつぽつと話す姿を前に、穏やかに心が緩んでいくのにただ身をまかせる。
いつもよりもよそ行きのスーツ姿にビジネスバッグの如何にもなかっちりとした装いに、どこか不釣り合いに見えるやわらかなパステルカラーの色とりどり薔薇の花束。
ーーひいき目を差し引いたって随分と絵になって見えたのは確かなのだから、偶然居合わせた他人から見たってきっと。
「どしたの周?」
じいっとこちらを覗き込むようにしながらかけられる言葉を前に、ゆるく唇を噛みしめるようにしながら、ぽつりと囁き声を返す。
「……なんでもない」
「そっか」
優しい響きに、心はかすかにやわらかく震える。
手の中の花々へとじいっと視線を落とすこちらを前に、忍は続ける。
「花屋のお姉さんに相談したんだよね。なんかパッと明るい雰囲気になって、気取らない感じで飾れるやつってどんなですか? お姉さんもいろいろ考えてくれてさぁ。で、聞かれたんだよね。記念日か何かの贈り物ですかって」
うれしそうにくしゃくしゃに笑いかけながら、投げかけられる答えはこうだ。
「だからさ、言っちゃった。今度結婚するんですって。したらさぁ、お姉さんすっごいうれしそうに『おめでとうございます』って。なんかねえ、すごいうれしかった。知らない人に言ってもらえるってあんなうれしいんだね。全然知らなかったなって思って、なんかすごいびっくりして。たぶんさ、その後ずうっとにやにやしてた」
「忍……」
「ケーキとか買ってくればよかったね。あと、ワインも。なんかさ、それ聞いたらすごい早く帰りたくなっちゃって。周きょう先に帰ってるって言ったじゃん。早く帰んなきゃな、周の顔早く見たいなってすっごいわくわくしてて」
答えるかわりみたいに、空いた片方の掌でくしゃくしゃと、きちんとセットされた髪をかき乱す。
ヘアワックスとコーヒー、それに誰かの煙草の匂い。すっかり馴染んだそれに混じって、かすかな花の香り。うっとりと瞼を細めるようにして応えてくれる姿は猫みたいに無防備で、まったくもって、いっそうんざりするほどかわいい。
「着替えて支度してこい、な。こっちはやっとくから」
「いいけどきょうの晩御飯なに?」
「ぶりの照り焼きと酢の物、あと、きんぴらの残りと大根の味噌汁」
「和風だねえ」
肉類ばっかりだとカロリー過多になるので、そりゃぁまあ。
「あとビール。まだ買い置きあったやつ、開けていいから」
「発泡酒じゃない方?」
「いいだろ、そのくらい」
「ん、」
にっこりと笑いながら頷いてくれる姿を前に、ひたひたと胸の内が満たされていくのにただ身を任せるようにする。
週末になったらもう少し腕をふるって、忍の好きなものを作ってやろう。食材だっていつものスーパーの先にある輸入食材の店で厳選したものを選んで、なんならワインかシャンパンと、おまけのケーキだって買って帰ってもいい。
その頃にだってまだ、この花は咲き誇ってくれているはずだから。
ささやかなふたりきりの祝福を彩ってくれる花を前に、気づかれないようにそうっとため息を洩らす。
幸福の香りが、ただ静かに満ちていく。
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