年末の総括があちらこちらに飛び交う中で、何のためにどこに向けて書くのか、どうなりたいのかについての話が具体的な部数や必要経費もまじえて語られていて興味深いなぁと思う。
二次創作同人の世界では「好きだという気持ちを表現するために書く、以上」のような空気を感じてあまりそういった話題が上ることはなかったからこそ、余計に。
ジャンル=自分ゆえに自分の表現欲求にどう向き合うのか、「読んでもらいたい」から発表するのならどう工夫するべきなのかを真摯に考えている証なのだと思う。
自分の立ち位置をきちんと見極めないと、足場が弱いと自分を見失うというのはよく考えるし、正直いまでもそれを模索しているところは多々ある。
トライアンドエラーの連続のその先に、なにかがあるのかもしれない。ないのかもしれない。
特定の誰かに向けているわけではない、大衆に広く届くことを期待しているわけではない、広い世界のどこかに自分の書こうとしているものをすこしでも面白がってくれる人がいるだろうというボトルメールを海に流す感覚、は自分の中にもあるものなのでよくわかる。
心のやわらかい部分に触れるようなメッセージのこめられた作品に触れた時に、まるで自分の感情をすくい上げてくれたようだと感じて痛みがやわらぐ、ということがよくある。これからもあり続けるのだろうし、その役割を音楽や映画や本には求めている部分がわたしにはある。(個人的な趣味嗜好の話)
現在進行形で向き合っていることでも、言葉にして取り出してしまえば過去になる。過去の自分に向けて「生きていてもいい」と言えたらと思う。願わくばそれが、過去の自分によく似た誰かにも届いてくれるとこれ以上うれしいことはない。
自分の個人的な感情を込めて書いたものが自身の手を離れて誰かに届いてほしい。そうすれば自分の感情を手放してすこしだけ楽になれる気がするから、生きていてもいいと思える気がするから。
書くことは祈りに似ていて、祈りのようなものに生かされているからわたしは死なないで済むのだと思う。
誰もたどり着かない未開の海岸へとボトルメールを流しても拾ってくれる人はきっといない。
受け止めてくれる「誰か」に出会いたいのなら、誰かに出会える場所や機会・届けるための努力をしなければいけない。
自分のために書いたものだから自分以外の誰かに届けようとは思わない、目に触れなくても構わないと思わないのなら「場」を見つけなければいけない。
不特定多数の誰かの居る場所で自らの殻の中のやわらかな部分を差し出すことは無防備だ。傷つくことも傷つけられることも覚悟しなければいけない。
(それ以上に遙かに救われてばかりいるので、一生かかっても返しきれないけれど)
自分を救えるのも自分が必要な言葉や気持ちを探し出して差し出せるのも自分だけだ。
(誰かの痛みによってしか癒せない痛みがあるのは確かだけれど)出来るだけ痛みや悲しみが少なくなれば、みながそれを和らげてくれるものに出会えればいいなと勝手ながら思う。
わたしの日記なので、すこしだけわたしの話をしようと思う。
ここ何年もずっと「死ななくちゃ」と脅迫観念のように思っていた。
具体的な自殺願望があるわけではないけれど、楽しみを見つけながらふつうに生きてふつうに生活をしていて、自分をだましたり見過ごしたりしながら「ふつう」に生き延びてきた。
生きていく上で不都合な感情を切り捨てなければいけない、そうしなければ生きていけない、というある種の自分自身にかけたのろいだったのだと思う。
自分の感情を切り離して過去にするための方法は書くことだった。
虚構には自身の願望と嘘と本音を混ぜ込める。「書くこと」でそれらを手放せば、すこしだけ気持ちは軽くなる。
(長らく二次創作を軸にものを書いていたことが大きいのだとは思うけれど)
語り手は物語の、キャラクターの語り部であり、それ以上であってはいけないとずっと思っていた。
自分の個人的な感情と密接な物語を語ること=自分自身と物語を切り離せていない、適切な距離を取れていないことは自分にとって「よくないこと」としか思えなかった。
物語ることを手放せない自分は死ねばいい、死ぬべきだと思っていた。
実際に書くことをやめた時、抱えきれない感情に押しつぶされて、書くことをあきらめるほうが書くことよりもずっと苦しいのだと実感した。
自分の書きたいことを書いてもいいのかわからない、という息苦しさから逃れられないまま、逃げ回るような気持ちでいた。
忘れられないしなかったことには出来ないしいまでもいろんなことが苦しくて怖い。
すべてお話になればいいのに、自分の言葉として語ることなんて何一つなくなればいいと思う。それもすべては「物語る」才能がない証だと思っている。それと同時に、何かに仮託しなければ自分の考えていることすらまともに話せないことは不誠実で逃げだとも思う。
決定的な自己矛盾を自身に突きつけられながら「強くもなければ優しくもないので死ななくちゃ」とばかり考えていた。
わたしは書きたいことを書いていい、誰かやなにかを好きでいてもいい、生きていてもいいと思えたのはほんとうについ最近で、その気づきは自分の中でとても大きなことで、ずっと自分を揺るがし続けている。
「生きていてもいい」と思えるようになったことについて、誰かに聞いてほしい、ありがとうを伝えられたらと思っている。
誰だって自分のためにしか生きられないのだから、自分を楽しませることが出来るように、大切にすることが出来るように、信じられるように、そうやって生きていくことが巡り巡って自分以外の、自分を救ってくれた誰かにも届けばそれでいいのかな、といまは思う。
一人で居ることが寂しいから、誰かに自分の気持ちを聞いてほしい。何かに夢中でいたい、夢中でいた証を残したい。
「書きたい・読んでもらいたい」理由はわたしにとってはきっとそうで、それで構わないのだと思う。
ここ何日か考えていたことがまとまった、つもりだったのに書き出してみたらすこしもまとまってなんかいなかった。読みづらい文章を最後まで読んでくださった方がいたのならありがとう。
「生きる」ことを手放したいとは少しも思っていないので、よりいっそうちゃんと生きていけたらと思う。
その手がかりをくれた「物語」に、そこで出会えた人たちに心からありがとうを言えたらと思う。
優しくしてくれてほんとうにありがとう。今年も残り少なくなりました。どうぞよいお年を。
来年一年がみなさまにとってよりよい年になりますように。