まわるブースが多数あるわけではないので実際のところ、書店で目当ての本を注文したほうが遙かに楽なのですが、電車を乗り継ぎ、あの広大な会場を歩き回ってブースにたどり着き、書き手さんとお話をさせていただいてご本を買わせてもらうという「体験」の楽しさは代え難いものがあるなぁと思います。
同人誌ってああいう「特別な体験」を経て手にすることも、楽しみのひとつなのかもしれない。
なんだか満たされたなぁ、楽しかったなぁと思っていたらむしょうに自分の小説が書きたくなったので書きました。
短いお話は細部を詰めないまま、考えながらぼんやり打っていくので、作中のチャーリーブラウンのせりふによる顛末は書いている途中に「そういえばうろおぼえだったな」と思って調べたところ、書き足された後半があることをはじめて知りました。
原点を踏みにじっているのではないだろうかとは思うのですが、はじめに書き足しの言葉を考えた人はとてもやさしい人なんだろうなと思いました。
「書くこと」は自分にとっての安心材料のひとつなんだろうな、というのをこのところよく考えます。
考えることは日常的に降り積もるようにあって、(おそらく誰しもそうだろうけれど)現実の生活の中で胸の内を打ち明けあうことはそうないまま、外向きの「自分」として日々を過ごしているわけで。
目に触れて、耳で聞いて、心で感じたことをうまく切り離せるように言葉にしていくことで、外向きと内側の自分の比重のバランスをうまくとろうとしているのかな、と思います。
「誰かに聞いてもらいたくて」言葉にすることは、そこにうまく役だってくれるようです。
(きっとみんな、大なり小なりそういった側面はあると思うけれど)「お話」は感情のありかで、書くことと生きることは切り離すことが出来ずにわたしの中で繋がっています。
お話にしてしまうことでしか話せないことがあるのと同じくらい、物語にすら出来ない感情がいくつもあります。
気持ちはいつだって取り出そうとした途端にすぐに形を変えてしまうけれど、取り出して残そうとしなければ消えてしまういくつものものがあって、「形にする」ことで、傷つくことよりも、ふたをして抑えつけて、みないふりをして、そうやって存在することすらを自分の中からゆるさないほうがずっとずっとつらいんだと思います。
お話は虚構で、自分の願望を映した他者である(もしくは共犯関係である)という立ち居振る舞いがうまく取れないことにはずっと整理がつかないままです。
たぶんこれからもずっとそのままだろうけれど、それでもそのことこそが自分にとって切実で大切なことなので、それならそれでかまわないのかな、とも。
「文章に映し出す感情を追い求めている自分」と「日常生活を過ごしている自分」は隣り合ってはいてもそれゆえにひどくいびつでアンバランスで、その隙間を埋めたいのかもしれません。
すこしずつ、まえに進むための、自分がなによりも求めていた言葉や気持ちのありかの手がかりを見つけられるようになってきたのかなと、このところ思っています。
ひとりではたどり着けなかった場所に、見えなかったものに手をのばせるようになったのはすべて、受け止めてくださった方がいてくれたおかげで、心から感謝しています。