どれだけ相手のことを知り尽くしているつもりでいたって、ふとした瞬間に顔を覗かせてくれる、思いもしないような新たな一面は、いくらだって溢れている。
そこにどれだけのいとおしさが潜んでいるのかなんてこと、わざわざ言葉になんかしなくたって。
「すっごいねえ、どんだけ降んのかな」
天気予報通りの灰色にけぶる空からは、しきりにたたきつけるような大降りの雨が降りしきる。
買い物や外で済ませるべき用事はあらかた済ませてはいたし、洗濯物だってあらかじめ室内に干してある。
濡れ鼠になる心配もないまま、高見の見物とばかりに灰色の雨に飲み込まれていく外の様子を眺めるのはぞんがい悪い気分ではない。
「台風とかじゃないんだよね、なんとか低気圧?」
「また暑くなんだろうな、やんだら。スコールみたいなもんだろ」
ぱらぱらと、手にした雑誌に目を落としながら、ぽつりぽつりと力なくささやく声にじいっと耳を傾けていれば、遠い空の向こうから、かすかなうなり声が響く。
ゴロゴロ、と空の上で轟くような低い音が鳴り響いたその後、遙か遠くの空の上からはつんざくような雷鳴と共に、空を引き裂くような鋭い光が落ちる。
「わっ!」
見事だな、と思わず感心しながら、窓の外に広がる灰色にくすんだ空の色をぼんやりと眺める。音がしてから実際に落ちるまでのタイムラグで距離がわかるんだっけ。だったらあれはどの辺に落ちた雷だろう。確かこのアパートには避雷針はあったはずだけれど、実際のところちゃんと作用してくれるんだろうか。
尚も地の底から唸り声をあげるような低く轟く声と、ますます勢いをますばかりの、叩きつけるような雨音は続く。
「ねえ周、いまの見た? 雷、どっかに落ちたよね」
きれいだったよね。のんきにそう声をかけようとしたところで、窓の外から不自然に目を逸らすようにしたうつむいたままの表情が、ぎこちなくこわばっていることに気づく。
「あまね?」
「忍、」
こちらをじっと見つめながら言葉を紡ぎ出してくれる唇は、まざまざと震えている。
「周、かみなり――」
尋ねるよりも先に、震えた指先でぎゅっと腕を掴まれる。
「寝室行こっか。こっちよりもあんまし聞こえないよ、音」
「……ん、」
抱き寄せた頭をかき抱くようにしてふわりと髪をなぞれば、促されるままにこくんと頷いてくれる。
――あんまり無防備なその姿をかわいくて仕方ないと思ってしまうことくらい、少しくらいは赦してほしいのだけれど。
明かりを落とした部屋でぎゅっと頭を抱き寄せ、両耳をふさぐ。
ぴっちりと窓もカーテンも締め切った部屋でも、叩きつける雨音まじりの轟くような雷鳴はかすかに響きわたり、その度に、抱き寄せた体はびくりと震える。
「そんな苦手だったの? 雷。教えてくんなかったよね?」
「……言わなくたっていいだろ」
ぼそりと力なくささやく声は、かすかにふちが滲んで震えている。照れている――でも、それ以上に信頼してくれているのが手に取るように伝わる。こちらの腕を掴んだ指先に込められた力がぎゅっと強まることで、それは確信に変わる。
「怖かったの、ちっちゃい頃から?」
「うん、」
「どうしてたの? そん時は」
額と額をこすりあわせるようにして、至近距離でじいっと見つめ合う。少しだけ幼さを取り戻したようにも見える、うつろに揺れるまなざしでじいっとこちらを見つめながら告げられるのは、こんな答えだ。
「子どもの頃は――怖いって言ってたら、母親が大丈夫って宥めてくれて。でもそんなのガキのうちだけだし、少ししてからはいつも、ヘッドフォンしたままじっとして、過ぎるの待ってて」
「我慢してたの? ひとりで?」
「しゃあないじゃん、だって」
「だいじょぶだよ、もう」
答えながら、両耳をぴっちりと覆った指先でさわさわとやわらかな耳をなぞる。こわばった体が、びくり、とあからさまに恐れとは違う衝動でかすかに震えているのがたまらなくかわいくて仕方がない。
「ね、キスしてもいい?」
「……する」
いつになく素直な返事に促されるまま、ぎゅっと顔を寄せ合って、唇と唇をぴったりと重ねる。
ぎゅっと瞼を閉じたままきつく舌と舌とを絡ませあうようにして互いに身をゆだねるこんな瞬間は、いつだって暗い海に静かに落ちていくかのような恐れにも似た深い衝動が身を貫く。
それでも、少しも怖くなんてない。このあたたかさほど確かなものなんてほかにないことくらい、充分すぎるほどに思い知らされているから。
「んンッ――ふっ、ンっ……」
息苦しくなるほど深く口づけあった後、照れながらじいっと見つめ合う。揺らいだ瞳の奥はいつも以上にぐらりと火照らされて滲んでいて、たまらなく色っぽくてかわいい。
「あま――」
「耳、」
ぎこちなく声を震わせ、ばつが悪そうな様子で囁かれる。
「塞いでると、音が――ずっと響いてて」
「どきどきしたの?」
ぎこちなく目を逸らしながら、濡れた唇がふるふると震えているのをじいっと眺める。
「そっか、いいこと聞いちゃった」
いたずらめいた調子で笑いかけながら、塞いだままの指先で煽るように耳のふちをなぞり、かぶせるようにしきりに口づける。
顔を近づけるその度、あからさまな戸惑いと、それ以上にこちらを求めてやまないことを伝えてくれるのが途方もなくいとおしくてたまらない。
「忍――、」
どこかためらいにも似た色に染まるまなざしをじいっと見つめたまま、告げる言葉はこうだ。
「こんだけどきどきしてたらさ、雷のこと忘れられるでしょ?」
「……」
答えられずに口を噤んでみせる姿を前に、尚も言葉を紡ぐ。
「もっとどきどきするようなことする? それとも」
追いつめるのにもよく似たあまやかなささやき声をもらせば、即座に返される答えはこうだ。
「集中、できないから」
「……そっかぁ」
少しばかりの期待と恐れ、その両方を混ぜたような表情に、音も立てずに心を揺さぶられるばかりだ。
少なからずの時間を過ごしてきたはずなのに、まだまだ知らないでいることがこんなにもたくさんある。そんなことが、素直にいとおしい。
「じゃあ止むまでこうしてるね? いいよね」
「うん」
唇を震わせて紡がれる言葉を、吐息ごと飲み込むようにやわらかなキスで塞ぐ。
窓の外ではいまだに、激しい雷鳴の音が鳴り響く。
空を引き裂くような低いうなり声はいつの間にか遠ざかり、少しだけ勢いを弱めた、それでも地面へと叩きつけるようなぱらぱらと激しい雨音はいまだに続く。
夜の空気を震わせ、リズミカルな輪唱を響かせるこんな不確かな音色に耳を傾けるようにしながらこうしてふたりで過ごす時間にいつもなら味わえない特別な安らぎを感じるのは、いつまで経っても変わらない。
「ずっと前だけど」
けだるい体を横たえながら、ぽつり、と囁くように恋人は答える。
「すごい大雨の日にさ、来たことあったじゃん。おまえ」
おぼえてる? という問いかけに、返事をする代わりに、するりと差しのばした指先でやわらかに髪をなぞりあげる。
「あの時――また雷が鳴ったらどうしよって思ってて。おまえがいてくれるって思うと安心して、でもおんなじくらい不安で。ほんとは、どうしよって思ってて。なんか急に――思い出した」
「あったねえ」
どこかよそよそしく見えたのに、そんな理由があったなんて知るはずもなかった。
「ますますかわいーってなってたのにねえ、損だったね」
「……なんでそうなんだよ」
わざとらしく目を逸らすようにしてばつが悪そうにぼそりと答えるさまがあんまりかわいいので、腰に手を回して引き寄せるみたいにきつく抱き寄せる。
「別に、慣れてたから。過ぎるまで待てばいいからって、そう思って。でも、知られたらやっぱ、きまずいし」
ぽそりぽそりと、力なく答える姿にぎゅうっと胸の奥を絞られたようないとおしさが押し寄せてくるのにただ身を任せる。
「かわいいのにね?」
「だから……、」
「別にいいじゃん、俺だって怖いもんくらいいくらでもあるよ?」
笑いながら、抱き寄せた頭をしきりに撫でては、やわらかな髪にそうっと口づけを落とすことを繰り返す。
「おまえはなに、怖いのって」
ぎこちなく震えたささやき声で投げかけられる問いかけを前に、返答を返す。
「本気で怒った時の佳乃ちゃんでしょ、地震でしょ、点滴の針でしょ、健康診断の結果聞くときでしょ」
指折り数えるようにしながら、いちばんの「とっておき」を最後に答える。
「あとはねえ、周に嫌われるのがいちばん怖い」
「ばかか」
ぽつり、と落とされるささやき声には、とびっきりのいとおしさが滲んでいる。
「嫌いになんかなったりしないってこと? それって」
わざとらしく目を背けたまま口を噤んでみせる態度を前に、ぎこちなく震えた指先に、自らのそれをぎゅっときつく絡ませてみせる。
知っているつもりでいたのに、知らずにいたことがまだこんなにもたくさんある。いくつもの固い結び目がほどけたその先で見つけたあらたなものは、その都度、こんな風にかけがえのない宝物になる。
「ほんとうだよ、でも」
耳にかかった髪をはらい、まだ少しだけ赤くなったそのふちをゆるゆると指先で覆うようになぞりながら、忍は続ける。
「俺が気づかないうちに周が怖がったりいやだったりするようなことしてたらどうしよう、周に我慢させてたらどうしよっていうのがいちばん怖い」
素直に「怖い」とそう教えてくれる時が、甘えてくれる時がいちばんうれしい。
最後まで余すことのない本音を口にすればきっとそうだけれど、言葉にはしない。
「忍……」
あまくくすぶったこの優しいささやき声を、永遠に閉じこめておく方法があればいいのに。
もう何度目かわからないやわらかなため息を吐き出すようにしながら、揺らいだまなざしをじいっとのぞき込むようにして、言葉を紡ぐ。
「大好きだよ、周」
ね、周は? 期待を込めたささやき声に返されるのは、望んだとおりのこんな答えだ。
「――好きだよ」
「……ありがとう」
抱きすくめた体は、かすかに湿った雨のにおいで満たされている。
窓の外ではいまだ、ぱらぱらと地面を叩きつけるような雨音が続いている。
大地を潤し豊穣をもたらす雨は、こんな風に自分たちを閉じこめるやわらかな檻にもなる。
「歌でも歌おっか、なんか。それとも日本昔話とかのほうがいい? あんましちゃんと覚えてないから、最後のほうでっちあげになっちゃうと思うけど」
「……いいよ、なんでも」
「ハッピーエンドにするから」
腕と腕を絡ませあい、互いを閉じこめあうようにしながらぎゅっとまぶたを閉じる。
雨音の歌声に紛れるようにしながらこうしてまたひとつ、終わりのない「ハッピーエンド」のその先へ続く物語は密やかに紡がれていく。