ゆらりと解き放たれていく意識に揺られながら重い瞼を押し開こうとしたその途端に感じるのは、よく見知ったぬくもり。
視線を上げたその先、薄くくぐもった暗がりに浮かび上がるのは相反して見慣れない、いやに高い天井だ。
――ああ、そうだった。きょうは「そう」じゃない。
「……あまね」
少しだけ掠れたささやき声で呼びかけながら、はだけた浴衣から顔を覗かせた胸元にぎゅうぎゅうと顔を押しつける。途端に返されるのは、すっかり見慣れてしまった、どこかあきれたような、それでいてとびっきりのおだやかさを潜めた笑顔だ。
「おきちゃったね」
「ん、」
ぬるくくすぶった吐息を零していくふるふると震わされた唇の上を、こみあげるいとおしさに身を委ねるような心地で、指先でそうっとなぞる。
ぴったりくっつけあって敷いた布団のシーツはもうすっかりくしゃくしゃになって、もぐりこんだ片側の寝具はふたりぶんのぬくもりにやわらかに包まれている。
「いま何時だろ? わかる」
「三時、ちょっと前」
ふちのとろけたやわらかな声が、薄い暗がりにじわりと優しく溶けていく。
たっぷり疲れるだけのことはしたはずなのに、こうして朝まで眠っていられないのも非日常に身をおいたが故の高揚感のなせる技なのだろうか。
少しおぼつかない指先で、いつもそうしてくれるように、くしゃくしゃになった髪をゆっくりとなぞりあげるようにしながら恋人は答える。
「温泉行こっか、露天風呂。開いてるって書いてたじゃん、朝まで」
「いいの?」
「やなの、おまえは」
いつもどおりの遠慮がちな問いかけを打ち消すように、ぎゅっと強気な笑顔で忍は答える。
「やなわけないじゃん、ね?」
答えながら、うっすら赤くなった痣の痕をなぞるように、露わになった首筋にそうっと唇を寄せる。
「忍、」
ルームキーを羽織のポケットにしまってすぐさま、時折そうするように、掌をそっと差し延ばされる。
「……いいの?」
「いいだろ別に、こんな時間だし」
「旅館の人いるかもしんないよ」
声のトーンをうんと落としたまま遠慮がちに尋ねれば、おなじくらいの控え目な声色で、それでもきっぱりとした迷いのない口ぶりで告げられるのはこんな一言だ。
「悪いことしてるわけじゃないだろ、な」
「うん、」
ゆっくりと重ね合わせたぬくもりを分かち合ったその瞬間、ひたひたと押し寄せる安堵感に心ごとくるまれていくのにただ身を任せる。
「いい天気でよかったよね。ほら、月、すごい明るいよ」
「やっぱ違うな。東京よりもずっと空が広いっていうか」
木造の廊下をゆっくりと歩きながら、窓の外の景色をぼんやりと見上げる。
数時間前までの喧噪がすっかりかき消された宴会場、営業時間の終了を告げる札のかけられた売店、静まりかえった客室――非日常を彩る空気の中を、しっかりと確かめ合うように繋いだ指先にぎゅっと力を込めながらゆっくりと歩いていく。
「貸し切りかもね、お風呂。うれしいね、なんか。すっごい贅沢してる感じすんじゃん」
「泳ぐなよ、いいけど」
「いくつだと思ってんの?」
声を潜めるようにしたままけらけらと笑いかければ、すっかり見知ったやわらかなぬくもりを潜めた笑顔がこちらをそうっとくるんでくれる。
「いまさぁ、部屋に温泉ついてるってとこも増えてじゃん。そゆのもいんだけどさ、やっぱお風呂っておっきいほうがいいよね」
「まぁな」
いつもの狭苦しいバスルームだって、ふたりきりで過ごす場所としてはそれはそれで悪くはないのだけれど。
「ふたりきりだね、きっと」
「ん、」
――赤の他人に体を見られるには多少気まずい事態にはなっているので、それならきっと都合がいいのも確かだ。
「楽しみだね、温泉。ふにゃふにゃになるまで浸かっててもいいかな。したら周部屋まで連れて帰ってね。おんぶでいいからね」
「はしゃぎすぎんじゃねえぞ。ちゃんと自分の面倒くらい自分で見ろ、な」
「いいじゃん別に、あまねのけち」
少しだけ赤くなった頬が月明かりにふわりと穏やかに照らされるのに、ぼうっと見惚れる。
草木も眠る丑三つ時、誰も自分たちを知らないような日常をうんと離れた遠い場所で、世界にたったふたり取り残された気分で遠回りをしながら目的地を目指して歩いていく。
――はしゃがずにいられるなんて、あるわけがなくってあたりまえだ。
「暗いからな、足下気をつけろよ。ここの階段ちょっと急だったじゃん」
「いいけど、いま転んだらきっと共倒れだよ」
「台無しだな、したら」
ささやき声を交わしながら、ゆっくりと一段ずつ、階段を踏みしめるように降りていく。
目的地までは、あともう少し。きっとふたりきりで貸し切れるはずの露天風呂が楽しみなのは言うまでもないのだけれど――
それでもまだほんの少しだけ、このまま終わりのない夜に漂っていられればいいのになんて思わずにいられないことは、確かめ合わなくたって知っている何よりも大切な願いごとだ。