来るべき休日が待ち遠しくってたまらない。そんなこと、誰だって等しく変わりないことは百も承知の上で。
「お疲れさまです、お先に失礼します」
モニターの電源を落とし、ゆるやかな安堵のため息をそうっと吐き出す。今週もご苦労様、よく頑張りました。すべきことはまだ沢山あるけれど、ひとまずは休み明けの自分に託してしまおう。
業務日報の打ち込み、メールチェックと返信が必要なものへの対応、週明け以降のスケジュール確認。
一通りのすべきことを定時前から意識的にこなしていたおかげで後は時計の針が回りきるのを待つだけの状態までもってこれていたのは、毎週末のことながら我ながら優秀だ。定時ぴったりのタイムスタンプでタイムカードを切る、だなんてことはさすがにしやしないけれど。
「お疲れさまです」
「おつかれさまー」
口々に挨拶を交わしながら、立ち並ぶPCの波の間をすいすいとすり抜けるような心地でかき分けていく。ポケットの中へと手をやって、届いている(かもしれない)メッセージにすぐにでも目を通したいところだけれど、さすがにみっともない気がするのでせめてエレベーターに乗るまでは我慢している。
「桐島くんお疲れさま。こないだの資料の件なんだけど、先方から返事がもらえそうなのが火曜なのね。午後からちょっと時間もらっていい?」
扉に手をかけようとしたところで、間がよく(悪く)引き留める声がかかる。
「あ、大丈夫です。また連絡ください」
「了解です。ごめんね、呼び止めちゃって。急いでた?」
まぁそうですが、そこまで急を要するものではありませんので。お気遣いありがとうございます。
「いえ、全然」
社会人一年生なりの作り笑いで答えれば、行儀の良い愛想笑いが返される。
「お疲れさま、また来週ね」
「お疲れさまです、またよろしくお願いします」
ぺこり、とぎこちないお辞儀を返し、もう一度ぐるりを見渡すようにしてからドアの前でもう一度一礼をする。
「お疲れさまです、お先に失礼します」
心なしか浮き足立っていることを悟られやしないか。
懸案事項に浮かぶのはいつだってそんな、笑ってしまうような些細なことだ。
地下鉄に乗り込んだところで、いつものようにスマートフォンを開いてメールの内容を確認する。
――『きょうはね、手羽の煮込み。きのうしこんどいたからね。あと、明日うちから明太子くるよ。はんぶんご飯にのっけてのこり半分うどんかなぁ』
――『了解、いま帰り?』
――『もうすぐ駅だよ。きょう早めだったから先にスーパー寄ってくけどいい?』
――『着いたら連絡する』
吹き出し越しの無機質なやりとりに、それでも心はみるみるうちにゆるむ。
三つ先の駅で乗り換えて、目的地まではあと二十分と少し。ふたりで過ごす週末が、またこうして始まる。
社会人一年生と大学院一回生。お互いに身を置く場所を変えての新生活は、いまのところ滞りなく進みながら、ふたつめの季節へとさしかかろうとしていた。
すれ違いの息苦しさやいらだちは数え切れない程あれど、それらをうまくすり合わせるようにして互いを『居心地のいい場所』に出来るようにと努力を重ねてきたこの数ヶ月を思えば、我ながら成長しただなんて自負してもいいのでないだろうか。
――それもこれも、週末くらいにしか顔を合わせられないから成り立っているのだろうと言われてしまえば、素も子もないのだけれど。
ほぼ毎週末、金曜の夜に顔を合わせ(用事がある場合は、どちらかが待っている部屋に帰る)、互いのすべきことをこなしながら週末をともに過ごし、日曜の夜に別れる――ほんとうは月曜の朝までともに居たいのはやまやまだけれど、どこかで区切りをつけてしまわければなぁなぁになってしまう気がするから。そこはまぁ、線引きとして。
世間一般の『恋人たち』がどんな風に過ごしているのかなんてわからなけれど、それらと較べてなにが『常識』なのかを測ろうとしてしまうことがどれだけくだらないのかなんてことくらい百も承知だ。
それでもこんな些細なことが気にかかって仕方がないのはきっと、特定の相手とこんな風に親密なおつきあい(らしきもの)を重ねていくことを、それを互いの生活習慣が変わっても尚、続けていく努力を重ねていく未来だなんてものを少しも想像出来なかったからだ。
果たしてこれが『適切な距離』と言えるのか――いまのところの懸案事項がそれだ。
忍がきっと、幾度と無く繰り返しては手放してきたはずのあたりまえ――特別な誰かと過ごし、またそれぞれにひとりに戻っていく――そのサイクルの中に自分がいることを、まだどこかで夢のように思っているのかもしれない。
夢なんかじゃあるわけないのに。
さめざめと冷えていく胸のうちで、鈍い痛みがじわじわと広がるのにただ身をまかせる。
取り返しのつかないことをばかみたいに繰り返して、つける必要なんてあるはずもない傷をいくつも残して、その度に襲われるどこか後ろ暗いその感情に、裏腹に安堵感を覚えていたことだって。
――忘れるはずもない、忘れるべきなんかじゃない。すべてが、どんなにこすっても塗りつぶしても消しようのない現実だった。
ばかなんだよな、ほんとうに。
ぽつりと胸の奥でだけそうつぶやきながら、まぶたの裏にありありと浮かぶ笑顔を思い返す。
息苦しさや焦燥に襲われるそのたび、不安なんてぜんぶ塗りつぶしたつもりのめいっぱいの笑顔でいつだって応えてくれる、底なしのばかだ。
――気づいていないわけなんて、あるはずもないのに。
言いしれようのない不安に足を掬われそうになるその都度、思い起こすのは、ひきつって冷えた指先をやさしくくるんでくれる掛け値なしのぬくもりだけで満ちた掌の感触だ。
忍が引き寄せてくれたもの、そのひとつひとつの確かさにこんなにも救われている。それだけが、いまのすべてだ。
この苦しさもあたたかさもすべて、ふたりだから手にすることが出来たものなのを知っている。
――その先に、ふたりでしか見つけられない幸福のあり方がきっとあることだって、何よりもちゃんと。
もやのかかったようなくぐもった意識に揺らされるまま、窓の外を通り過ぎていく、すっかり見慣れてしまった景色をぼんやりと眺める。
ああそうか、そろそろ連絡しておかないと。
――『もうすぐ着く。三十分着だって』
――『りょーかい』
満足げな笑顔の顔文字の添えられたメッセージに、軋んだ心はばかみたいにあっけなく緩まされる。
いつもどおりに自宅の最寄り駅ではない方の駅の改札をくぐれば、柱にもたれ掛かるようにしてぼんやりと佇む見慣れた姿が視界へと飛び込む。
もうしばらくこのまま様子を見ていたい気もするけれど――ぐっと息を飲み、声をあげる。
「忍」
「おかえり周。お疲れさま」
途端に、ぱっと花の咲いたような明るい笑顔で手を振って応えられる。先に帰っていていいなんていつも言っているのに、毎回こうして律儀に待っているあたりどうなんだか。
「おまえきょう手袋は?」
遠慮がちにはだかの掌にそっと触れれば、ひやりと冷たい。
「忘れた」
くしゃりと笑いながら答えるしぐさにつれて、やわらかな髪がふわりと揺れる。
耳にはふさふさのやわらかなフェイクファーの耳当て、首回りにはたっぷりとしたスヌード。寒がりのくせに、いまひとつ詰めが甘いのはどうなんだか。
「貸せよ、それ。持ってやるから」
答えながら、半ば強引な手つきで手に提げられた買い物袋を奪う。
「したらポケット入れて歩けんだろ、な」
「んっ」
答えながら、ジャケットのポケットに押し込められていく掌をじいっと眺める。ほんとうは手を繋いでやれればいいのだけれど、まだ人通りも多い時間なのでそれは。
「きょうはねえ」
じいっとこちらを見つめながら、子どものような素直な口ぶりで忍はつぶやく。
「研究室のストーブでおでん煮込んでる先生がいてね、それわけてもらったんだよ。なーんかさ、たまにガッコで料理すんのに凝る人たちがいんのね。気分転換になるからとかなんとか言って。おもしろいよね」
「前に庭で焼き芋やってたってのと同じ人?」
「そっちはね、違う学科の子」
いきおいよくぶん、とかぶりを振り、商店街の飾り付けをじいっと見上げる。
「灯油のストーブって便利だよね、やっぱ。ポトフとかおでんとかじっくり煮込むやつ作んのでもガスよりも安心だしね。そいやね、ポトフにカレー粉入れんのもおいしいんだって。友達ん家だとね、鍋いっぱい作って次の日はうどん入れんだって。パスタ入れても良いってさ」
「今度やる? うちでも」
暖房器具に関してはお互いにエアコンとオイルヒーター頼りなので、調理にも活躍してくれるストーブはないけれど。
「じゃあさ、今度の三連休の日にしようよ。前の日から仕込んどいてお鍋いっぱい作ってさ。したら安心して巣ごもり出来んじゃん、ね」
「動物じゃないんだからちゃんと動いた方がいいだろ、さぼんのも程々にな」
笑いあいながら歩く道すがら、視線のすぐ先には通い慣れたアパートの明かりが見える。
「あときょうね、駅のとこでたい焼き屋さん出てたから買ってきたよ。二十二時からBSで見たいのあったからさ、それ見ながら食べよ。ね? ちゃんとつぶ餡だからね。赤と白」
「じゃあその前に風呂入って片づけな」
話し声にかぶさるように、かさりとスーパーの袋が立てる乾いた音が耳をくすぐる。
話しながら、いくつもの家路を急ぐ人々の影が視界を過ぎっていく。
ひとりで歩く人、誰かとともにいる人――そんな中で、いくつもの「家族」らしき気配を漂わせながら連れだって歩く人々の姿をいつしか無意識に目で追っている自分に気づいた時、かすかな苦笑いを漏らしそうになる。
いつか、ほんの少しだけ先――今すぐでなくたって構わない、それでもきっと、それほど遠くないいつか――
こうして歩く自分たちの姿も『そう』見れるようになれれば。そんな日が訪れるのなら、きっとうれしい。
こんなこと、いまはまだ言えるわけもないけれど。
「……まぁ、なんていうか。そんな感じで」
果たして国境を越えてまで伝えることなのだろうかとは思えど、伝えるべき「近況」だなんてものはそのくらいしかありやしない。
「なんかさ、ごめんね」
『いいよ、そんなの。聞かせてって言ったのは僕なんだし』
どこか気まずい心地で答えれば、すぐさま覆いかぶせるようなやわらかさで言葉を告げられる。
ああ、やっぱりいいな。声と声でのやりとりって。顔は見えなくっても、間合いの取り方、優しく耳をくすぐってくれる感触を受け止めさせてもらえるこんな時間はひどく安心させられる。
たまには話でもしたいなって思ったんだけど、電話しても平気?
ありがたい申し出と共に、久しぶりに聞かせてくれた声の響きのやわらかさにふつふつと穏やかな気持ちがにじんでいく。
異国で生まれ育ったパートナーと共に生きていくために、当人曰く『地球四分の一周分の距離』を飛び越えて旅立って行った大切な友達。
それが、いまこうしてスピーカー越しに、九時間前の世界から言葉を届けてくれている相手だ。
『なんて言えばいいのかな、懐かしいなって』
「あぁ、」
思わず口ごもるこちらを前に、すぐさまかぶせるような返答がこぼれ落ちる。
『ごめん、失礼だったよね」
「そんなことないから』
打ち消すように言葉をかぶせれば、少しだけリラックスした様子のひかえめな笑い声がスピーカー越しに鼓膜をくすぐる。
大学二回生の間の約半年の留学期間の間、彼もまた同じように、週末だけのふたり暮らしを過ごしていたことは、ずいぶん前に聞かせてもらっていた。
何年もの間、遠く離れた異国で離ればなれに暮らしながら途切れないように繋ぎ続けてきた絆と、いつの間にかあたりまえになっていた週の半分近くを占めていた『ふたり暮らし』の、環境の変化によるちょっとした移り変わり。
較べようにも元からケースが違いすぎることくらいは、百も承知しているけれど。
『学生の頃は――』
ふっと息を呑んだことが伝わるゆったりとした呼吸のリズムのそののち、彼は続ける。
『金曜の夕方に落ち合って、それからアパートまで話をしながら一緒に歩いて。食事の支度をして。お互い用事がある時は別々に過ごす日だっていくらだってあったけど、食事の時間だけは出来るだけ一緒に過ごせるようにしてて。そのまま月曜の朝がくる度に別れて。その繰り返しで』
「そっか、」
どこもだいたい同じような積み重ねを繰り返しているのだと聞けると、やっぱり安堵感とも言うべき感情はもたらされる。
周くんは? 促すようなやわらかな響きに導かれるまま、投げ返す言葉はこうだ。
「だいたいまぁ、土曜のうちにいったん帰って。荷物受け取ったりとか洗濯とか家のことやって。そのうち夕方になって、どっちかの家にまた行って。晩飯になって。そのまんま一緒に居て――」
あたりまえになっていくことは、うれしくもあるけれど、同じ分量だけ不安も押し寄せる。
『なんていうのかな』
ゆっくりと、弦楽器をつま弾くようななめらかさでもたらされる言葉はこうだ。
『やっぱり、「お客さん」なんだなっていうのはいつもあって。最初から、ふたりで過ごすこともちゃんと見越して選んだ部屋だったけど、彼の帰る家はちゃんとあるしね。言われたんだよ、別にもうふたりで住んでもいいんじゃないのって。でも、そういうのも、あんまりよくない気がして』
週末だけに許された、束の間のふたり暮らし――周と忍が、そして、あまた多くの恋人同士がおそらく重ねているのであろう時間。
『――そうじゃなくなるんだ、もうこれからはちゃんと「ふたりの家」で、毎日がここで続いていくんだって思うとうれしくて。でもやっぱり、どことなく慣れなくて』
迎える側/迎えられる側でいることと、ともに過ごす場を作っていくことは当然違うのだから、予想がつくことではあったと言うけれど。それでも。
『でもそうやって迷ったり、いままで気づかなかったことにたくさん気づけるのもみんなうれしくて。それがふたりでいる証なんだって思えたから。もうずっと前からわかりあってるつもりだったけど、やっぱりどこかしら遠慮してたんだなっていうのもわかって――でもそれがわかった時は、少しうれしいくらいで』
ぽつりぽつりとにじんで浮かぶような言葉たちには、飾り気なんてひとかけらもないぬくもりだけで満ちている。
『うまくいかないことだってあるけど、そういうこと、どうしたらうまく乗り越えていけるのかって考えるのだってすごく楽しくって。なんかちゃんとそうやってひとつずつ、「現実」になっていくんだなって思えて――』
夢やまぼろしなんかじゃない確かな「いま」は、自分なんかでは伺いしれないたくさんの時間の積み重ねの末に、彼らが手にしたものなのだ。
「幸せってこと?」
『……すごく』
顔が見えなくたってわかる。照れた様子の、それでも迷いなんてかけらもない口ぶりに、こちらまで心をおだやかに包まれていく。
『周くんもそうだよね』
「――わかる?」
笑いながら答えるかたわら、音も立てずにほろほろと崩れ落ちていく心のかけらをじいっと見つめる。
こんな風に素直に口に出せる日だなんて、一生あるはずもないと思っていたのに。
毎日一緒に暮らしてる方が却ってすれ違ったり、お互い変な風に遠慮したりすることがあるから気をつけて。
よけいなお世話かもしれないけれど、だなんていう一言とともに送ってくれた、いかにも『らしい』としか言いようのないアドバイスがそれだ。
……良い子なんだよな、本当に。忍なんかと懲りずに友達で居てくれるのがおおよそ信じられないレベルで。
こうして国境を隔てて離ればなれに暮らすようになったいまでも時折話題にあがるあたり、ゆるやかな交流がいまだ続いているらしいのはこちらとしてもうれしい。
――たぶんきっと、こちらには伺い知ることの出来ない特別な何かが彼らにもあるのだろうし。
ようやく訪れたいつもの週末、車窓を通り過ぎていくとっぷりと暗がりに包まれた街並みと、ひしめくように光るネオンの明かりを眺めながらぼんやりと息を吐く。
――『今週だいぶ忙しくなりそう。金曜も残業だと思う』
――『あんまし無理しないでね。なんかすることあったら言ってね』
だから来なくていい、もしくはそっちに行こうか? のつもりで投げかけた言葉に返ってくるのは「待ってるね」の言葉。
「やじゃないの、おまえは」
いつか聞いた言葉を前に、ぶん、といやに勢いよくかぶりを振って告げられたのはこんなせりふだ。
「ぜーんぜん。好きだもん、待つの」
やっぱり合わないな、と思ったことをよく覚えている。だからいっしょにいられるんだな、だなんて、改めてそう感じたことだって。
子どもじみているだなんて笑われるのくらいわかっているけれど、ひとりで待つことの寂しさに、周はいつまでだって慣れることが出来ない。
いままでだってこれからだってずうっとひとりでいるつもりだった、ひとりでしかいられないと思っていた、そのはずなのに。
特別な誰かに出会うことは、胸の中にいつだってひとりぶんの空白を抱えて生きていくことに繋がっているのだなんてことを初めて知った。
忍の中にもきっと、形は違ったってよく似たそれが同じようにある。それすらもいとおしむことが出来るのだと、ちゃんとそう教えてくれる。
こういう類の気持ちは、果たしてどうやって返せばいいのだろうか。たぶんこれから、ゆっくりと考えていけばいいのだろうけれど。
――『遅くなってごめん、もうすぐ帰る。いま電車』
――『お疲れさま、気をつけて帰ってね』
時刻は二十二時半過ぎ。電車の中は遊び疲れた様子で、それでも高揚感を隠せない表情の若者たちと仕事帰りのいかにもくたびれた様子の勤め人たちでなかなかのにぎわいだ。
いつもの帰宅時間よりも多少遅くなったとは言っても、これでもまだよっぽど常識的な時間だ。同期で新入社員になった仲間内のあいだでは一月の間にまともな休みなんてろくになければ、毎日が終電間際のホームに駆け込む日々だなんて話題もいくらだって溢れている。
これから先のことなんてわかるわけもなければ、おびえたって仕方がないのはわかっている。それでももし、こんな風に待たせることがあたりまえの生活になってしまえば、そんなのきっと悲しい。
がんばんなきゃな、いろいろと
車窓にぼんやりと浮かび上がる、まだスーツの似合わないくたびれた顔に言い聞かせるのはひどくありふれたそんな一言だ。
「ただいま」
玄関を開けてすぐ、見慣れたスニーカーと、こうこうと照らされた明かりに安堵をおぼえる。ひとりの部屋に帰る時も欠かさず口にしてはいたけれど、やっぱり受け止めてくれる相手がいるのといないのではとんだ大違いだ。
「ただいま、忍」
返事がないのを気にかけて、念のためもう一度そう呼びかけてみる。取り込み中か何かだろう。さほど気にもとめずに歩みを進め、すぐさまたどり着いたリビングで目にするのは、ローテーブルに突っ伏したままとろとろと眠りに落ちる、いまではすっかり見慣れたはずの無防備な姿だ。
「しの――、」
起こさないと、風邪をひくといけないから。頭ではそう分かっているのに、ふいうちのように目にした姿に心はさざ波を立てる。
傍らには伏せられたノートパソコンに、ずいぶん使い込まれた様子のくたびれた教科書、いつも持っている分厚いノート。
待ちくたびれたんだな、そりゃそうだよな。申し訳ない気持ちと共に、ゆっくりと掌をのばす。
「忍、」
薄手のブランケットと少し襟首の伸びた部屋着のスエット、その隙間から顔を覗かせた首筋に指先をそうっと滑らせる。鼻先を埋めるようにして口づける、しばしばそうする行為をなぞらえるみたいに。
「あま、ね――」
途切れて掠れた声は、まだ波のふちをたどっているようなおぼつかなさでこちらへと届く。耳をやわらかくくすぐるその声は、どうしようもなく心ごとくすぶらせて身動きを奪ってくるのはいつまで経っても変わらない。
「忍、ほら。起きて」
いつもよりもボリュームを絞ったささやき声で呼びかけながら、うんとやわらかくブランケット越し背骨の上を指先でたどる。
くぐもった吐息を漏らしながら身じろぎをしてみせる姿や、かすかに揺れ動くしぐさに合わせてやわらかな髪の隙間から姿を覗かせる火照った耳に、いまさらばかみたいにどきどきする。
起きないと食べちゃうぞ。
ひどく子どもじみた横暴な欲を喉の奥でだけぽつりとこぼしたその途端、毒を飲んだような心地を味わう。
愛情って少しも綺麗じゃなければ、優しくなんかもない。
こうして忍といるようになって、改めて気づかされた感情がそれだった。
食べたいくらいにどうしようもなくかわいい。どこにも行かせたりなんてしない、誰にも渡したくない。
いつくしみだなんてものとは裏腹に、薄くやわらかな皮膚の下でいつだって渦巻いているのはそんなひどく横暴で子どもじみた衝動で、それでもそこには、矛盾なんてひとかけらもないのだ。
口の中が酸っぱくなって、喉の奥が震えて――うわずった甘美な響きはいつだって身体ごと、心ごと周を惑わせて、きつく捕らえて離さない。
それでも周は、いつだってその言葉をついぞ口にはしないまま、痺れるような劇薬をぐっと深く飲み込む。
口にしてしまえば最後、忍はなにもかもを投げ出して応えてくれることくらい知っているから。
「忍、起きろ。風邪引くぞ、な」
少しだけ力を込めてゆさぶりをかけるようにすれば、重く閉じ重ねられた
まぶたはスロー再生にも似たゆっくりな動きでそうっと押し開かれる。
くっきりとなだらかな二重のラインや、ゆるいカーブを縁取るまつげの揺れる動き、そのささいなひとつひとつを、改めて綺麗だな、と感じる。
「あまね――おはよ、おかえり」
答えながら、手探りで伸ばされた指先は赤ん坊みたいな素直さでぎゅうっとスーツの裾を掴む。
「……おなか」
いまだ半透明の膜にくるまれたような、揺らいだ声で言葉が紡がれる。
「おなかすいた、ね?」
「忍、」
呼びかけなのか、はたまたひとりごとなのか。不安定な響きを前に、少し寝癖のついた髪をなぞりながら声をかけてやる。
「めしまだ? もしかして」
「いっしょ食べよっておもったから」
へへ、と得意げな照れ笑いと共に告げられる言葉に、心はぶざなまでにぎゅうぎゅう締め付けられる。
「待たなくていいっつったろ、な」
「いいじゃん。あまねもまだ? ごはん」
「おう」
とっくにピークは過ぎて、忘れかけていたところだけれど。(そもそももっと別のものが食べたい――というのは置いておいて)
「……たべる?」
答えながら、あまえたような上目遣いのままぎゅうっとスーツの裾をひっぱり、きつく引き寄せられる。
――言葉どおりじゃない、ことくらいは分かっている。そりゃあまあ、こちらとて。
「忍、」
あきれたような響きで答えながら、両頬をぎゅうっと挟み込むようにして触れる。やわらかに指先の沈む感触に心ごと揺らされるままにぐっと引き寄せ、そのままほんの僅かに淡く、ついばむように数度の口づけを落とす。
「あまね……」
くぐもってゆらいだ響きを前に、なだめるように言葉をかける。
「先に風呂入って着替えてくるから、それでもいい? ありがとな、待っててくれて」
「じゃあしたくすんね?」
やわらかなささやき声に、いい子いい子をするように頭をなでてやることで応えてやる。
「いただきます」
「いただきまーす」
ぱちんと音を立てて手を合わせ、行儀よくふたつ並んだ茶碗に箸をつける。
冷凍の白ごはんの上にほぐしたサラダチキン、インスタントのわかめスープをかけて、胡麻油をひとさじ。トッピングはすりごまとちぎった海苔。
「たまご入れたほうがよかった?」
「いいよ、これで。ありがとな」
食欲なんてものをうっかり忘れかけた胃には、さらさらと流れ落ちていくあたたかな食事はなんともありがたい。
それが誰よりもいちばんに安心させてくれる相手と共に口にするものなら、なおのこと。
「待たなくていいからな、今度から」
「ひとりで食べんのってつまんないじゃん」
不満げに口にしながら、いつもどおりにいやに念入りにふうふうと冷ましながら口元へとれんげを運ぶ姿を少しも飽きもせずにじいっと眺める。
ひどく子どもじみたそんなしぐさは、いつだってばかみたいにかわいい。
とっておきのおおごちそうをいつになったら食べ尽くしてやろうかと虎視眈々と身構えているおなかを空かせたおおかみが目の前にいるのに少しも逃げたりしない、あわれでばかな子ども――それがきっと、周にとっての忍だ。
「おいしーね?」
「ん」
言葉少なに語り合うさなか、あたたかな食事と共に滑り落ちていくのは、くぐもったささやきにくるまれた、つい先ほど耳にしたばかりの言葉だ。
――ねえ、たべる?
――決まってんだろ、そんなの。おまえのことならぜんぶ食べてやる。
愛してるから食べたい。愛してるから食べられたい。
ああなんて健全でどんよくな愛情のやりとりだろう。
これから先だってずっと、おなかいっぱいになれるまで満たしあおう。そのための努力なら、もちろん惜しまずにいるから。
「ねえ、どしたの周」
「……あとで話す」
「そっかぁ」
にこにこと笑いかけてくれるまなざしをじいっと見つめながら、ゆっくりと言葉を交わしあう。
ありふれたささやかな――何よりもかけがえのない休日が、またこうしてはじまりを告げる。