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調弦、午前三時

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キスの温度




ほどけない体温、周くんと忍の夏の風景。R15です。




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「うっわ」
「どした?」
 半歩前からあげられた悲鳴めいた声に思わず足を止めてそう尋ねてみれば、くるりとこちらへと向き直りながら、いつものようにおどけた口ぶりの言葉が投げかけられる。
「ほら見てこれ、溶けてるよ」
 すっと掲げるようにされた指先には、半透明の乳白色のリップクリームの筒の中からほんの少しだけ繰り出されたどろりと輪郭を蕩けさせた中身が露わにされている。
「そりゃそうだよねってわかんだけどさ、ちょっとぎょっとしたかも」
 つば広の帽子の下でにっこりと無邪気に笑ってみせる唇は、半透明の膜に覆われてとろりと艶めいている。
「……まめだな、おまえも」
 果たしてこれは適切な答えなのかどうなのか。わからないままぽつりとと答えれば、にいっと笑ったまま、ポケットへとプラスチックの筒を押し込みながら忍は答える。
「入れっぱなしだっただけ」
 にいっと笑いながら綺麗な弧を描く艶めいた唇に、どこか沸き立つような気持ちに駆られてしまうのをぐっと抑え込む。
「夏って紫外線がキツイでしょ、唇も日焼けするとよくないらしいよ」
「どこもかしこも大変だな」
 生返事で答えながら、傍に携えられたかのような、Tシャツからするりと伸びた腕をぼんやりと眺める。
 日焼けは火傷と同じだから、だなんて言って出かける前には都度日焼け止めを塗る姿を毎日のように目にしていても、陽に当たった箇所とそうでない箇所が微かな段差のように異なった色合いに染められていることをちゃんと知っている。
 ……知られている側でもあるのだけれど、もちろん。
「皮とか剥けてきちゃうと痛いもんね。夏場だとジャータイプのやつにしといたほうがいいのかな」
「その方が安全なのかもな、溶けてくんだし」
「ねー?」
 ぽつりぽつりと言葉を交わしあいながら、出来るだけ日陰を探して歩く。

 昼食後の散歩がてらに、と出かけた徒歩十五分程度の大型スーパーへからの帰り道は、この季節ともなると、ちょっとしたスポーツ競技めいた色合いを帯びる。
 耳をつんざくような蝉の大合唱の中、それでも負けじといつも通りのよく通る声で、ぽつりぽつりと嬉しそうに忍は続ける。
「唇が乾いてくんのねって、水分不足のサインらしいよ」
「そういや冬の方がなりやすいっていうもんな、脱水症状」
「ほんとは外からじゃ意味ないってことなのかなぁ。むつかしいよねえ」
 年中よく動くこの唇なら、たぶん周のそれよりもずっと乾きやすいのだろうなんてことくらいは容易に想像がつくのだけれど。
 この唇がいつ触れてもしっとりと柔らかいのは、常日頃の心がけの賜物なのだろうか。
 かすかに赤く色づいて艶めいたそれを前にどこかしら気まずさを隠せないこちらを前に、気づいているのかいないのか、いつもどおりの好奇の色も鮮やかな丸い瞳で、不意打ちのようにじっとこちらを覗き込むようにしながら忍は答える。
「周もちょっとカサッてしてるよ、塗ってあげよっか?」
 眩しすぎる陽射しの下、いつもより一層と明るく光って見える焦げ茶色の瞳の奥で、幾重もの光の洪水がまたたく。
「……帰ってからな」
 そのくらい分かってはいるけれど、そりゃまあ。
「はあい」
 いやに素直な『いい子のお返事』を前に、汗ばんだ掌を黙ったままぎゅっと握り込む。

 降りしきるような蝉の声に混じるように、どこかの家の風鈴の音がかすかに聞こえる。
 薄着ではしゃぎ回る子どもたちの高く澄んだ声、生ぬるく頬を撫でる風と、葉ずれの音。突き刺さるような強すぎる陽射し、べったりと汗で張り付いたTシャツの感触。
 うんざりするほど繰り返してきた夏の風景の中に、去年までは知ることもなかったはずの影が、色鮮やかすぎるほどのその姿を露わにする。

「とりあえず帰ったらシャワーだな」
「きょうお風呂洗う日だったよね、いっしょに洗っちゃおっか」
「ん、」
 答えあいながら、いつもそうするように手の甲をゆるくぶつけ合う。
『ふたりの家』まではあと五分。束の間のデートも、あともうすこしだ。



 せっかくきれいに洗い流したばかりの体をみるみるうちに汚していくのもどうなのかと思う気持ちがないわけではないのだけれど――どこか背徳めいた悦びがそこにあることは、言葉にするまでもない。

「……あっつい」
「しんどかった?」
 息苦しげにぽつりとささやく姿を見下ろすようにしながら尋ねれば、すぐさまぶん、とかぶりを振って忍は答える。
「だいじょぶだよ、きもちいい」
 子どもみたいな無防備さで素直に答えてくれる姿があんまりかわいいので、遠慮なんてなしに汗ばんだ髪をかき分けるようにしていい子いい子をするように頭をなでる。
 のどをそらしてうっとりとした様子で答えてくれるさまを見つめながら首筋にそうっと唇をはわせれば、うっすらと塩の味がする。
 同じようにびっしりと汗ばんで海の味になっているはずの背中には、すっかり汗ばんで潤んだ掌がぎゅうっときつく絡みついている。
 重ね合わせるほどに潤んでゆるくほどけて、それなのにすこしも溶けだして流れ出したりなんてしないお互いの素肌の感触を間近で感じるこんな瞬間が途方もなく好きだ。
 こんなにもどかしくて苦しいのに、こんなにも気持ちいい。
 かすかに潤んだ目尻に舌を這わせれば、滲んだ涙と自ら滴り落ちた汗のまじりあった塩の味がぴりりと舌を刺激する。
 ふたりだけで作り上げた、ふたりを心地よくおぼれさせてくれるちいさな海がここにある。
「蝉鳴いてんね、まだ」
「ん、」
 耳鳴りみたいな忙しない声は、ぴっちり窓を閉めてもいまだ降り注ぐように薄い暗がりに響く。
「……うらやましがってたりしてね、もしかして」
 持て余してしまうほどの長い長い生を持って生まれ、生殖にもどこかよく似た、お互いのうちでくすぶった熱を預け合うだけのひどく無責任なふるまいに飽くことなくおぼれるつがいがこんなにもすぐそばにいるだなんて。
「あきれてるかもな」
「いいや、でも」
 ぽつりと漏らされるあまやかな吐息混じりのつぶやきをそうっと塞ぐように唇を重ね合わせれば、身体と心、そのすべてで応えるみたいに熱くとろけそうな舌がきつく絡ませられる。

 ほんとうのことなんて、いつだってふたりにしかわからない。でも、それでかまわない。
 言葉になんてしなくたって、寄せあえるふたつの身体と肌をつたって分かちあえる温もり、そのあいだでゆらりとあまく揺れるはだかの心、そのすべてが何よりも確かなものをこうして渡しあってくれる。

「――きもちいい」
 うっとりと細められた瞼の上をかすめるように口づけながら、伏せられた睫毛をそうっと食む。
 くすぐったそうに身をよじらせながら笑いかけてくれる態度がとほうもなくかわいくて、せりあがったいとおしさがますますぐんと膨らむのにただ身を任せる。
「忍、」
 赤く火照った耳をさわさわと両掌で覆いながら、すこしだけ意地の悪い口ぶりで投げかけてやるのは、こんな問いかけだ。
「まだだめ、って言ったらどうする?」
「……いじわる」
「がまんするから、俺も」
 溶け出しそうに潤んだ瞳でじいっとこちらを見上げながら、火照った指先はすがるようにきつく周の肌に食い込む。
「いいよって言ったらどうすんの?」
「どうしよっかなあ」
 はぐらかすように答えながら、うんとゆっくりのリズムでより深く身を沈めていく。
 たとえほんのわずかひとときだけの錯覚だとわかっていても、こうして繋がりあえる時間がなによりもいとおしかった。
 あふれて溶けて流れ出しそうな気持ちごとすべて、忍がいつだってあますことなく受け入れて、愛としか呼べないもので返してくれるのを、こうしている時に何よりも感じられるから。

 お互いの渇きを癒せるのはきっと、この身体しかない。それを共に知っていられるのはなんて幸福なことだろう。
 すっかりふやけてしまった唇の上を指先でたどるようにすれば、期待に満ちた潤んだ瞳の奥に宿る光はますますあまく、熱く揺れる。
「……あまね、」
 こじあけるように指先で唇にしきりに触れるさなか、うっとりとこちらを見上げたまま、忍は尋ねる。
「ねえ、そんなすき?」
 忍とするキスが、こうしていることが、そのすべてが。幾重にも重なり合ったあまやかな問いかけに、ぐらりとのぼせるような熱があふれ出すのにただ身を任せる。
「……知ってんだろ」
「決まってんじゃん?」
 強気に笑いかけてくれる笑顔に、言葉でなんてきっと言い表せないいくつもの感情がぱちぱちと肌の上で、炭酸水の泡のようにはぜる。
 堪忍したような心地で、唇を震わせて告げる言葉はこうだ。
「……愛してる、忍」
 忍にしかきっと言えない、忍が見つけてくれた何よりもの宝物のような感情は流れ出していくその先から、ひたひたと肌身にあたたかに染み渡る。
「……あまね」
 みるみるうちに赤くなる頬を両掌でぎゅうっと包み込むように触れながら、周は尋ねる。
「もっとキスしてもいい?」
 塗ってやるから、リップクリーム。いたずらめいた口ぶりで告げれば、赤く火照った顔には、子どもみたいな無防備なくしゃくしゃの笑顔が広がる。
「なんで聞くの?」
「聞きたいから?」
 くすくすと笑いながら瞼を細めてくれる姿を見下ろしながら、繰り返しなんどもそうしてきたように、唇と唇で互いを味わう。

 恐れも迷いも不安も、すべてを溶かしあったぬくもりが、夏の日差しにすっかりぬるく温められた肌と肌の上で混じり合う。
 いちばん深く繋ぎあったその場所で、体温よりもずっと熱いものはとめどなく溢れる悦びでふたりを包み込む。
 ――離さないでいよう、いまこの時だけでも。
 らせんを滑り落ちるような心地でぎゅっと瞼を閉じれば、ほつれた指先はいつのまにか、自分のよりもずっと熱く火照ったそれにきつく絡められている。





 つかの間のぬるい眠りから目を覚ましてみれば、あんなにせわしなく鳴いていた蝉の声はいつの間にか消え去っていた。

「――一気に秋まで飛んでたんならどうしよって思っちゃった」
 冗談かほんきなのかわからないことを、時折忍は口にする。そんな突拍子もなさだってとても愛していることは、たぶんきっと知られている。
「そんなわけないだろ」
「だってほら、気持ちよかったし」
「関係あんのかよ、そこ」
「あるかもじゃん」
 約束を果たしてやったあかしのつやめいた唇で満足げに囁かれる言葉に、そわりと胸の奥はあまく痺れる。
「でもよかったね、洗濯物。取り込んでて」
 カーテンは引いたまま、薄い藍色に染められた水槽の外の世界では、ぱらぱらとまばらに、ビーズの粒を叩きつけるよう繊細な雨音が響く。
「すこしは涼しくなるといいけどな」
「降りすぎないといいよねえ」
 周の苦手な雷にならなければいいと気遣ってくれていることは、言葉にしなくたってちゃんとわかる。
「蝉ってさ、こゆときちゃんと雨宿りとかしてんのかなぁ」
「……考えたことなかったな、そういえば」
 人間と違って帰る家なんて持ち合わせていないのだから、そりゃあ。
「よかったね」
「ん、」
 曖昧に答えながら、揺らいだまなざしをそうっとかわしあう。

 人間に生まれてこれてよかった。持て余して燃やし尽くすだけの冗長な命にすぎないと思っていたのに、こうしてぬくもりを渡しあえるたったひとりの相手に出会えたから。
 言葉にするのははずかしいから、ぽつりと心の奥でかみしめるだけでいるけれど。

「ねえ、晩ご飯どうしよっか」
「角煮あったじゃん、おまえん家からもらったやつ。あれは」
「あとそれと……野菜どうしよ。ごぼうでいい? サラダ作ろうよ、周もすきでしょ」
「ゴマいっぱいかけたやつな」
「そうそう」
 笑いあいながら、ほどけてしまった指先をたどるようにもう一度重ね合う。

 たっぷり満たしあった後は、またこのベッドで抱き合って眠りに就く。そうやって、またいつもとおなじ顔をした朝がおとずれるのをふたりで待つ。
 ああなんてけものめいた、ひどく単純な日々の営みだろう。
 でもそこには、ふたりでしか描きだせない満ち足りた幸福の香りがあふれているのだから。

「夏休みっぽいねえ、なんか」
「うん、」
 健全なのか不健全なのかはよくわからないけれど、ただひどく幸福なことだけは確かだ。


 絵日記にはとうてい書けない思い出がまたひとつ、肌と心のその上にぽたりと落ちる。
 取るに足らない日々のかけらはこうしてゆっくりと陰りながら、泳ぎ方をすっかり忘れた二匹の魚のたゆたう水槽の中で、静かに滑り落ちていく。

 これもまたすべておなじ、ありふれた夏のゆうぐれのひととき。




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