「ほどけない体温」
周の消すことの出来ない追憶のお話。
読了後の方向けのおまけエピソードです。
時間とともに少しずつ記憶が薄れていく中、永遠にとどめておくことなど出来なくても、覚えていることはいくつもある。
少しかさついた大きな掌、四角い爪、片頬に僅かにえくぼを浮かばせた遠慮がちな笑い顔、シャツ越しに触れた腕の、ずっしりとした骨の感触、最後に聞かせてくれた、電話越しのざらついたかすかに甘くくすぶった声。
必要なものを、惜しみなくぜんぶくれた。
ぶざまに震わせた指先をきつく握り返してくれた、最初で最後のその相手になるはずだった。
「話していい? 最初っからぜんぶ」
「いいとか悪いとか、そゆんじゃないよ」
いつもそうしたように、ベッドに背をもたれさせたままそう投げかけるように尋ねれば、返ってくるのはあまりにも「らしい」そんなひとことだ。
話せる時があれば話すと、ずっとそう約束していた。誰にも打ち明けるつもりなんてなかったけれど、ほんとうはずっと聞いてほしくて仕方がなかった。
誰にも預けることなんて出来ないとずっと思っていた感情を、それでも委ねさせてほしいとそう願った、たったひとりの相手だったから。
指先が震えて、胸の奥が鈍く痛む。いまさら話したって何にもならないのは知っている。過去が取り返せないことも、やり直しなど出来ないことも。それでも、前に進みたかった。
「周……?」
いつになく遠慮がちに投げかけられる視線を前に、ぎこちなく作り笑顔を浮かべながら、振り絞るような心地で周は答える。
「前にもさ、言ったじゃん。中学の時、自分はそうなんだ、普通じゃないんだって気づいて。人間の欠陥品だと思ったし、本気で死にたかった。でも、同じくらいなんでこんなことで死ななきゃいけないんだろうって思った。誰にも気づかれないようにしてれば生き延びれるのかなって、ずっとそんなことばっか考えてた」
ごくり、と深く息を飲み込むようにすれば、傍らの男の瞳に、いつになく暗い影が落ちるのが伝わる。そりゃそうだ、こんな話、聞かされて楽しいわけがない。いまさらわざわざ話して聞かせてるのなんて、ただのエゴにすぎないのも知ってる。それでも。
「それで――」
震わせた指で掌にきつく爪を立て、ささやくように答える。
「誰かに聞いてもらえばいいんだって思った。自分のことなんて知らなくて、出来れば、同じ境遇の相手に。それで、危ないってわかってたけど、高校に入ってから携帯が持たせてもらえたから、そこからネットで同性愛者だって人と知り合って、実際に会ってもらうことになって」
「ほんとうに失礼だけど、正直言って信用なんてしてなかった。ネットなんていくらでも取り繕えんじゃん。いくらいい人っぽく話してくれても、会う前に電話で喋っても、そのあいだずっと疑ってた。実際に会ったらそうじゃないのかもしれない、下心があって近づいただけかもしれない、もしかしたら殺されるとか、もっと取り返しのつかないことになるのかもしれない。それでもずっと、このまま変われないままで居るよりもいいはずだって、そう信じてた。どうしても誰かに頼りたくて、他に相手なんて思いつかなかった、それで」
まざまざと記憶が蘇るのを感じる。洗い晒しのTシャツが汗ではりついた肌触りも、目深にかぶった帽子のつば越しに見上げた空の色も、風に揺れる枝が立てる音に耳をくすぐられた感触も――ざらつきのない、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた時に視界に飛び込んできた、どこかぎこちなく瞳を細めた笑顔や、引き結んだ唇の形も。
「四つ上で、大学生だって言ってた。免許証と学生証も見せてくれて、嘘はついてないよ、信用してって。疑ってた自分がばかみたいで、本当に申し訳ないなって思うくらいちゃんとした、いい人だった。本当にいい人で、何でも話していいよ、頼りになるよって言ってくれた。もしかしたら向こうだって寂しかったのかもしれないし、昔の自分でも見てるみたいで放っておけなかったのかもしれないし、同情されてたのかもしれない。いま思えば、最初っから普通のつきあいじゃなかったんだよ。でも、そんなことすら気づけなかった、ただ縋ることしか考えてなかった、それでも赦されるって思ってた。それで――」
深く息を飲み、ぐらつく頭を抑えるようにする。ほら、結局ひとつも変わってなんかない。またこうして背負わせようとしてるだけだ。
きつく組んだ指先にぎゅっと力を込めるこちらを前に、ひどく思い詰めたような顔をしてこちらの様子を伺うようにしながら、忍は尋ねる。
「その人が、前に話してくれた人?」
「――うん」
かすかに熱くなった瞼をほんの一瞬だけ閉じ、ぐっと息を吐き出すようにしてから、言葉を紡ぐ。
「ほんとうに優しかった。裏表なんかひとつもなくて、たくさん救ってくれた。何にも返せないのにいいのかなってずっと思ってて――でも、そんなの思い上がりだった。そんなことすら気づけなかった。子どもだったんだよ、でも、そんないいわけで済ませちゃいけないのだってわかってる。焦ってたし、空回りだってしてた。不安だった。それで――自分から誘ったんだよ。セックスしてほしい、しなくていいのって。間違ってるなんて気づけなかった、ほんとうにほんとうに、ばかだった」
取り返しのつかない後悔が、いまさらのようにふつふつとあふれ出してくるのを感じる。こんなこと、いまさら言って何になるんだろう。それでもきっと、話さなければ、ぜんぶ打ち明けなければ、前になんて進めない。
「周……」
ぎこちなく震わせた指に、ぎゅうっと優しく包み込むように触れながら、忍は答える。
「周はその人が好きだったんだよね? だったら、そんなのちっとも悪くもおかしくもないよね?」
かすかに震わされた息の詰まるようなその声に、ぐっと胸の奥が塞がれたような心地に襲われる。
そうじゃない、そうなら良かった。からっぽのこの胸の奥は、身勝手な欲望と思い上がりと、それに気づけなかった自分の中に膨れ上がった後悔でいっぱいだった。
ふかぶかと息を吐き、返す言葉はこうだ。
「――好きだったよ」
「セックスしたらちゃんと好きになれるって、そう思いこんでたって言うほうが、たぶん正しい」
目をこらすように見つめたまなざしの色が、ざわめくように震える。そりゃそうだ、わかってる。でも、ちゃんと話すとそう決めたのは自分だ。
「正直さ、なあんだって思った。気持ちよかったけど、なんだこんなのかって。たぶん向こうだってすぐに気づいてたと思う。それでもちゃんと相手になってくれた。最初っからそんなの求めなきゃよかった、求めるべきじゃなかった。そんなもの要求した時点でもう後戻り出来なかったんだよ。ちっとも大事になんて出来てなかった。向こうのことも、自分のことだって。そんな関係で長続きするわけないって思うじゃん? でも、向こうはちゃんと逃げないでつきあってくれた。たくさん優しくしてくれた。それなのに、俺がばかだったせいでぜんぶ台無しにした。だからずっと後悔してた。もうあんなこと絶対繰り返しちゃいけない、あんな気持ちにさせるくらいなら、もう誰のことも必要となんてしない。自分なんか、ひとりで居るべきなんだって」
沢山傷つけた、後悔だってさせた。でも、そんなことひとかけらも望んでないだなんて、そのくらいすべて分かり切っていた。
最後に聞かせてくれた言葉だって、ぜんぶ覚えてる。あの人は周に、前に進むことを望んでくれた。それなのに――傷つくのが怖くて、向き合うのが怖くて、逃げ出したのは自分だ。
まぶたの奥がいやに熱くて、ふさがったはずの胸の奥が疼くように鈍く痛む。もしかすれば、泣きたいのかもしれない。でも、何のために? 唇を噛みしめたまま、おそるおそると顔をあげれば、ひどく息苦しそうな顔をしてたっぷりと目に涙の滴を浮かべている男の顔がこちらへと飛び込んでくる。
「なんで……」
「なんで泣くんだよ、おまえが」
ばかか。喉の奥だけでそう呟きながら、震えた親指の先で、頬をつたう滴にそっと触れる。
こんなにも温かい、こんなにも苦しい。でも、ここから溶かされてなんてしまわないのを知っている。
「だって仕方ないじゃん。周はそやって自分のこと責めるし、俺はそのことどうにも出来ないじゃん。でも俺は周が好きだもん。周に自分のこと、悪く言ってほしくなんてないんだよ。周が言って楽になるんならいくらでも言っていいよ、聞かせてほしいって言ったのだって俺じゃん? でも、そんな顔されたらこっちだってどうしたらいいのかわかんないじゃん……」
震わせた掌をぎゅっと差しのばして、ゆっくりと抱き留める。誰よりも大切だと伝えられるように、壊してなどしまわないようにと。
「ありがとう……ありがとう、ほんとうに」
肩に預けられた頭をそっと撫でるその仕草につれるようにして、ぽたぽたと温かな滴が落ちて、広がっていく。ほら、やっぱり傷つけてる。それでも、ここで手を放すことなんて出来るわけがなかった。
少しも泣けない自分の代わりなんかにこんな風にいつだってむき出しの気持ちを開け放してくれるこの男のことが、ずっとどうしようもなく好きだった。手を延ばしては躊躇って、ぶざまに指先を震わせて、それでも、後戻りなんて出来るわけもない――その繰り返しで。
「周、あまね……」
ひどく子どもじみた、ぐずぐずに端から溶けていくような声と、震わせた熱い吐息を吹きかけるようにしながら忍は答える。
「一緒にいてもいい? 周のこと、好きでいてもいい?」
「……なんで聞くんだよ、そんなこと」
答えながらゆっくりと髪を梳くようにして、露わにされた赤く火照った耳のふちをゆるゆるとなぞる。
「おまえがいなきゃダメなのは俺のほうに決まってんじゃん」
ずっとひとりで居られると思っていた、そうするべきだと思っていた。そんなわけ、あるはずもなかった。
「大丈夫なんかじゃないよ、おまえに会ってからずっとそうだよ。だから一緒にいたい、おまえにいてほしい――」
口にした先からどんどん、言葉が端からほつれてはほどけていく。口にしてしまえば、こんなにも簡単で――だからこそ、ずっと言えなかった。言えるはずもないと、そう思っていた。
いつの間にか、頬の上を熱い滴がつたっていることに気づく。それが自らの流している涙だと気づいたその途端、ただ力なく笑い飛ばしてしまいたくなるような、そんな衝動に駆られる。
誰かの前で泣くのなんて、あの人に初めて会った時以来だ。ほら、結局少しも成長なんてしていない。あの頃のままだ。
それでも、あの時にちゃんと生きることを選べたから、手を延ばしてくれたあの人に縋る勇気を持てたから――だから、ちゃんとこうして生き延びることが出来た。ほんとうの意味で、こうやって誰かを好きになれた。あの人がくれた気持ちに、ようやくこうしてちゃんと、答えられる自分になれた。
「好きだよ――」
振り絞るような心地で、熱くなった瞼にぎゅっと力を込めるようにして周は答える。
「好きだよ、ほんとに好きだよ。だからいっしょにいてほしい、これからも」
答える代わりのように、背中に回された腕の力がぎゅっと強まる。
とめどなく伝っていく滴とともに、たくさんの「ありがとう」が胸に落ちて、溶けていくのを感じていた。
それでもこの痛みが、潰えることなどなくいつまでもとどまり続けているのだって知っている。でも、それで構わない。だって、ちゃんと前に進めている。こんな風に、歩けている。
流れ落ちてはあふれていく感情の中に溺れてしまわないようにと、きつく唇を噛みしめると、鈍い痛みと共に、あたたかな思いがゆらりと溶けていく。
こんなにも耐え難いくらいにあたたかい気持ちがあることなんて、ずっと知らなかった。知らなかった頃になんて、もう戻れない。でも、それで構わない――
ぐらつく頭と、僅かにひりひりと痛む瞼の痛みをやり過ごすようにゆらりと意識を揺り起こせば、真っ先に視界に飛び込んでくるのは見慣れた天井のその姿だった。
いつの間にこうしてたのかなんて、ろくに覚えてもいない。ああ、あの夜と同じだ、と思う。決定的に違うのは、ここが住み慣れた自分の部屋で、すっかり馴染んだベッドをいつも通り残り半分占領されて、予定通りに狭いままであることに、どこか安堵感を覚えていることだ。
「……おはよ」
ざらついた声で答えれば、いつも通りに得意げににいっと笑いながら、投げかけてくれる言葉はこうだ。
「おはよ、周」
答える代わりみたいに、乱れた髪の毛をくしゃくしゃと掌でやわらかにかき混ぜるようになぞってやる。
「おなか、空いてない? さっき冷蔵庫みたけど空っぽだったよ。たまにはなんか外まで食べにいく?」
「いいけど……」
起きてたわけ? くぐもった声でそっと尋ねれば、少しばかり照れたように瞳を細めながら返される言葉はこうだ。
「ちょっと前、喉渇いたなって思って。冷蔵庫開けて、あーそっかって思って。なんか買い物行ってこようかな、周、よく寝てるしって思って」
こちらの動きをなぞるようにさわさわと髪をなぞりながら、恋人は答えてくれる。
「でもそやって出てるあいだに周が起きたらどうしよって思って。起きてひとりだったら絶対寂しいから、だから一緒にいようって思って。周の寝顔かわいかったから見てよって思ったんだけど、結局寝ちゃって」
くしゃりと笑う飾り気などひとかけらもない笑顔を前に、幾度となくそうされてきたかのように、胸の奥のわだかまった気持ちがたちまちほどかれていく。
ほら、こんなにもあたたかい。こんなにももどかしい。こんなにも、いとおしくてたまらない。
こんな感情に出会えるだなんて、ずっと思いもしなかったのに。
「しのぶ……」
答えながら、ぎゅうっと抱き寄せる。離さないと、こんなにも大切だとそう伝えられるように。
「どしたの周、かわいい」
「……おまえの方だろ」
答えながら、くぐもった息をそっと吐き出す。
後戻りなんて出来ない、なかったことにすることも、やり過ごすことも出来ない。
それでも、たくさん積み重ねてきたことの末にたどり着いた今がある。それからのずっと先にまだ、ふたりで辿る未来がきっとある。
あやすような手つきで優しく背中をなぞってくれるその仕草につられるままにぎゅっと瞼を閉じて、ゆるやかに唇を噛みしめる。
「しのぶ……、」
囁くように答えながら、少しだけ熱くなった瞼に僅かに力を込めるようにする。遠くに滲んだ視界の向こうにほんの少しだけ、もう二度と会えないはずの人の笑顔が見えたような、そんな気がしながら。
自分で考えていたら悲しくなったんですが、せっかく考えたのなら書いておこうと思いました。
忍にいつか話す、と約束した過去のお話。
代わりに泣いてくれた忍に「ごめん」じゃなくて「ありがとう」を言えたこと、「ひとりで平気なんかじゃないから傍に居てほしい」と言えるようになったのは周にとっては大きな成長で、心から信じあって、求め合えるようになった証なんじゃないかと思います。
タカミさんは周に拒絶することではなく、受け入れること・求めることを確かに望んでくれていたし、遠回りしても時間がかかっても、周がそのことにちゃんと気づけたのならいいなぁと思います。
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