「ジェミニとほうき星」番外編、高校一年生の海吏と親友春馬くんのお話。
「ねーねー、前からちょっと気になってたんだけどさ。カイって自分の事『俺』って言う時と『僕』って言う時があるじゃん。アレってさ、なんか意味あんの」
学校帰りの通り道にあるマックの二階席、制服姿であふれかえるざわついた店内で何の気なしに投げかけたそんな問いかけを前に、トレーのど真ん中に広げたLサイズのポテトへとのばしていた指先が、びくりと動きを止める。
「……いつから?」
ピリ、と微かに空気を震わせるようにして、いやに張りつめた様子でカイは答える。
え、何か悪い事言った? これってそんなに? 戸惑いを隠せないまま、ひとまずは取り繕うようにぎこちなく苦笑いを浮かべながら俺は答える。
「いつっていうか……最近? なんかたまに言ってるよ、『僕』って。こないだ家行ったじゃん、そん時はずっとそうだった気がするけど」
「……早く言えよ」
独り言めいた響きで、ぼそりと彼は答える。頼りなく掠れたその声は、隣の席から響くバカ騒ぎの話し声にあっけないほどあっさりとかき消されてしまう。
「あの、カイ?」
そっと様子を伺うこちらを前に、俯いたまま、酷く重苦しげな様子で彼は答える。
「あのさ、もしまた学校とかで言ってたら教えてよ。直すようにしてたのに、たぶんおまえの前だから油断してた。教えてくれてありがとう。気をつけるから」
「……気をつけるって」
オレンジジュースのカップを握りしめた華奢な指先に、微かに力が入ることが手に取るように伝わる。どうしてそんな、わざわざ。そう思った所で、それが彼にとってどれだけの無神経な物言いになるのだろうかとこんな鈍い自分にも分かるのだから、そんな乱暴な指摘を投げかける気にはなれない。
ぐっと息を飲み込むようにしてから、俺は尋ねる。
「いいけど、なんで『直さなきゃ』いけないって思うの? 別にいいじゃん、呼び方なんて。カイがしっくりくる方でよくない?」
暢気なこちらの返答を前に、重苦しげな口ぶりを崩さないままに彼は答える。
「よくない、おまえにはわかんないだろうけど」
棘の籠もった言葉がそっと吐き出されたその途端に、冷えきった瞳にはまざまざと後悔の色が描き出される。ほら、言わんこっちゃない。傷つくのは自分なのに、何でそんな思い詰めたような言い方するんだよ。
手持ちぶさたにそっと、少し冷めたポテトへと手を伸ばす。油っぽくてボソボソしていかにも体に悪そうなそれを、さらに体に悪そうな歯が溶けそうに甘ったるいコーラでぐっと流し込むようにした後、俺は尋ねる。
「……聞いていい? なんでそう思うのか」
俯いたままの彼の肩が、微かに震えていることに俺は気づく。こういうって時どうすればいいんだろうね? いいからいいから、気にしすぎなんだよ! とかなんとか言って茶化してやる? 思ったところで、テーブルの下に潜らせた手はびくとも動かない。
こんな瞬間に思い出すのは、少し前に教室で見せたあの態度だ。大きな白いヘッドフォンをした姿を前に、聞こえなかったらいけないと背中にそっと触れたその途端、酷く怯えたような瞳で捕えられたあの瞬間を俺はきっと、忘れないだろう。
ああ、気安く他人に触れられたくない、そんなヤツだっているんだ。何かと無神経な自分と彼はまるで違う人間なのだと思い知らされたその一件以来、いくら打ち解けたって、名前で呼ぶ事を許されたって、物理的な距離を置くことを常に意識していたのは確かで――。
躊躇いがちに、重苦しそうな唇をそっと押し開くようにしながらカイは答える。
「だってさ、高校生にもなって『僕』なんておかしいだろ。普通は『俺』じゃん、みんな。現におまえだってそうだ。だから合わせようって、せめて家に居る時以外は変えようって思ってたんだよ。おまえと居ると気が緩んだんだと思う、たぶん」
「普通って……」
近寄りがたく見られたいなんて言って、わざわざ伊達眼鏡なんてかけてた奴が『普通』かよ。どこか苛立ちまじりにそう答えてやりたくもなるが、あまりにも苦しげに紡がれるそんな言葉と様子を目の当たりにしてしまえば、そんな軽々しい事、言えるわけもない。
ぐしゃり、と音を立てて紙コップを握りつぶす様をそっと伺うようにしながら、俺は言う。
「何が普通とかそうじゃないとか、俺にはわかんないけどさ。わざわざそうやって無理して自分を変えようとする事が『普通』だなんて、俺は思わない。」
ひどく乱暴なそんな返答を前に、苛立ちを隠せない様子ですぐさまカイは答える。
「僕は普通になりたいんだよ!」
熱の籠もった言葉と叫ぶような声に、ピリ、と僅かに空気が固まる。気づけば通りすがったゴミだらけのトレーを手にした女の子ふたり連れがどこか遠慮がちにこちらを見ている。そりゃそうだ、傍目から見れば何らかの修羅場に見えてもおかしくない。それに加えてカイは普通にしていても人目を引くようなこんなルックスなのだから、余計に。
「……カイ?」
「……ごめん」
重苦しげに答えながら、大きな瞳を縁取る睫毛が微かに揺れるその様を俺はぼんやりと眺める。
瞳の色、結構薄いんだなー。窓際から容赦なく注ぐ西日に照らされた張り詰めたような顔を見ながら、いまさらのようにそんなつまらない発見に気づく。いやいや、そうじゃなくて。
「あのさ、カイ」
まるで子どもを宥めるみたいだ――こんな事、当人に知られたらきっとますます不機嫌になるだろうけど――いつの間にか過っていたそんな感慨に耽りながら、俺は言う。
「俺さ、割と考えなしにぽんぽん喋るとこがあるから、そういう時ヤだったらちゃんと言ってほしい。今のだってカイは少しも悪くない。おまえの気持ちわかってなかった俺が悪かった。謝るよ」
「……何でおまえが謝るんだよ」
泣き出しそうに微かに震えながらも、冴え冴えとした冷たさを称えたまま告げられる口ぶりを前に、俺は思わず苦笑いを漏らしたくなるような、そんな衝動を無理やりに抑えつける。
どんだけ不器用なんだよ、ほんと。大ざっぱに生きてきた自分とは比べものにならないその繊細さを目の当りにすれば、どこか打ちのめされるようなそんな心地を味わうのは、仕方のない事で。
ニコリと、それでもぎこちなく笑うようにしながら俺は答える。
「順番だよ、順番。カイは思わず声がきつくなって謝った。俺はカイにそんな事言わせたのを謝った、これで終わり」
「……ばかか」
クククと、微かに喉を震わせて笑うそんな姿を前に、ひとまずは黙ったまま目の前のポテトの載ったトレーをそっと差し出す。途端に、引きつれたようなその笑い声は僅かに勢いを増す。
「なんで押しつけんだよ」
「や、だから喰えってことで。カイさ、ちょっと痩せすぎだよ。炭水化物はパワーになるって家庭科で習ったじゃん」
「ほとんど油だろ、これ」
笑いながら、しなやかな指先がそっと、少ししなびたポテトをつまみ、咀嚼する。そうするうちに、こわばっていた表情に少しだけ生気のようなものが戻ってくるのを俺は感じる。
「ねえさっきさ、『僕』って言ってたじゃん」
気づいてた? 少しの意地悪を込めてそう尋ねれば、ばつが悪そうにそっと目をそらしながら彼は答える。
「仕方ないだろ、こんな時まで取り繕ってられない」
「別にいいじゃん、誰も笑わないよ。大体、カイが無理してるの見る方がこっちはしんどい」
「関係ないだろ、おまえには」
「関係なくないだろ、友達なんだから」
「……じゃあそれでいい」
ぶっきらぼうに投げかけられる言葉の端には、どこか隠しきれない温もりに似た何かが淡く滲む。
たぶん彼の抱えている物は、脳天気な自分なんかよりもずっとずっと、計り知れないほど根が深くて。同じ十六年程度の時間しか生きていないそのはずでも、意味合いの違う物が沢山あって。
だからきっとこれからも、こんな風に不用意に彼を傷つけてしまう事があるのかもしれないと、改めて俺はそう思う。でも、それでも構わない。そこに気づけたら、きちんと立ち止まって謝ればいい。彼がきちんとそんな気持ちに答えてくれる相手であることを、出会って間もないけれど俺はちゃんと信じている。
「春馬はいつから『俺』って言ってた?」
油で汚れた指先でそっとポテトの山に手を伸ばしながら尋ねられたそんな台詞を前に、俺は答える。
「んー、わかんないけどたぶん、幼稚園くらいから」
「でもなんか分かる。おまえってそういうキャラだし」
肩を竦めるような仕草と共に、どこか自嘲気味に俺は答える。
「まぁね、昔っから進歩してないですから」
「別にそんな風に言いたいわけじゃない」
むっとしたように答える表情を前に、思わず笑い出したくなるのを抑えながらコーラのストローにそっと口をつける。
男が男に言う台詞じゃないとは思うけれど、可愛いとこあるじゃん。こういう所、どこまで隠し通すつもりだったんだよ。
伊達眼鏡に大きな白いヘッドフォン、目を合わせてもまともに挨拶すらしない。
必死に作っていたであろう見せかけの彼の内側から現れた、不器用で繊細すぎて、いちいちメンドクサくて、それでいてすぐにいじける――こんな彼の素顔はそれでも、教室の中でそっと息を殺していたかのようなあんな態度よりはずっと魅力的に映っているのに。
「……肩肘張んなくたっていいじゃん、別に」
しなやかなその指先に触れてしまわないように、彼が伸ばしたのとは反対方向の山から、そっと崩すようにすっかり冷めてしなびたポテトに手を伸ばしながら俺は言う。
「俺の前では素だったって事でしょ? それならそれでいいじゃん。ちっともおかしくなんてないよ」
「僕はよくない」
不機嫌そうに答える姿に、笑いだしたくなるのをぎゅっと抑える。ほら、また『僕』だ。その方がずっと『らしい』のに。
「いいとか良くないとか、そういうの気にすんの止めたら? カイはカイのまんまがいいよ。たぶんクラスのみんなだってそう思ってる」
現に伊達眼鏡も常にはめたままだったヘッドフォンも外して、よく喋ったり、たまには笑ったりするようになった今のカイの方が、他者を寄せ付けず遠巻きに視線を投げつけられる『王子様』扱いだった彼よりもずっと受け入れられているのは確かなのだし。
「……努力してみる」
少しだけ重荷を下ろしたかのようなやわらかな口調で、彼は答える。
「ね、どういう意味、それ」
合わせる方に、だったらどこかいびつに感じるのだけれど。
「だからその、気にし過ぎない方に」
望んだとおりだったそんな返答を前に、俺は思わずそっと瞳を細める。
たぶん目の前の彼には、まだ奥深くに人にたやすく見せられないような傷ついたやわらかな場所があって、俺にはそれを無遠慮に暴き出す権利なんてあるわけもなくて。
でも、たぶんそれで構わない。玉葱の薄い皮を一枚ずつ剥いでいくように、少しずつ覆い隠した気持ちに近づく事を許してもらえればと、今はそう思う。
「あのさ、春馬」
「何?」
こちらをのぞき込むようなまなざしが、どこか遠慮がちに微かに揺れる。ごめん、と動きかけた唇は微かに震えながら、続く言葉を紡ぎ出す。
「なんかありがと。その、色々」
揺れる言葉の奥に潜む温かさに、じわりと胸の奥に滲んだ色が広がる。
「……カイって時々、拍子抜けするほど素直だよね」
「時々、は余計だ」
少し不機嫌そうにそう答えるそんな表情を前に、ゆっくりと胸の内が満たされていくのを感じながらゆるやかに瞳を細める。
もっとこういう素直さを他の相手にも見せられるようになったらいいのに。いや、余計なお節介か。
渦巻く感情をそのまま流し込むように、氷が溶けて少し水っぽくなったコーラのストローへと口をつける。
机の下では、決して差しのばすことの出来ない指先が、どこかもどかしさを秘めたまま、ひきつったように微かに震えていた。
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