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調弦、午前三時

小説と各種お知らせなど。スパム対策のためコメント欄は閉じております。なにかありましたら拍手から。

とつぜんの贈り物

周と忍、贈り物にまつわるお話。






「そういやさ、前から思ってたんだけど」
「うん、なあに?」
 なんの気なしの呼びかけを前に、焼鮭を丁寧にほぐしていた手はぴたりと止まる。
 ……こう見えて真面目なんだよな、こういうとこ。
「いや、なんでもないから。食べながら聞いてくれてていいんだけど」
 手元に引き寄せた大根の味噌汁を一口だけ飲み込み、周は尋ねる。
「それさ、そろそろ買い替えた方がいいよなって思って。ふちんとこ欠けてるだろ」
 手の中にすっかり馴染んで見える灰鼠色に縞模様の茶碗は、もう随分前に周の家で使うために、と買い求めたものだ。
「……そう?」
「そういうのってよく使ってると気づかないうちにひびが出来てたりすんじゃん。前にまっぷたつに割れたことあるし、したら危ないだろ」
「そうかなぁ……」
 途端に、いつものあのきらきらと好奇の色を宿していたまなざしには不安げな色が宿る。
 なに? それほどのことだった? たしか選んだのは忍だったとは思うけれど、そこまで気に入っていたとは露知らずだ。
「……でもそうだよね。こないださ、洗ってたらぶつけちゃって。そん時だと思う。割れなかったから大丈夫じゃんって思ってたんだけど。気をつけないとね」
 あからさまに気落ちしたようすでほうれん草のお浸しを口元へと運ぶ姿に、心はいびつなさざなみを立てる。
「ねえ周、のこりお茶漬けにする? お茶淹れるけど周のぶんもいる?」
「うん、いる」
 けど。立ち上がろうとするのを制するように机越しにそうっと手を伸ばし、さわり、と頭を撫でてやりながら周は答える。
「ごめんな、気に入ってたんだな」
「……違くて」
 途端にみるみるうちに顔を赤らめながら、不器用にもつれた言葉が洩らされる。
「周が買ってくれたやつじゃん。周に初めてもらったから……大事にしなきゃって思ってて、ずっと」

「買ってやるよ、どれがいい?」
「いいよそんなの、俺が買うから」
「俺んちで使うんだから俺が出さなきゃおかしいだろ。遠慮すんな、な」
「……ありがと」
 目を伏せながら遠慮がちに注がれた笑顔を、ありありと思い返す。

 忍が来るたびに使っていた茶碗が実家から持ってきたありあわせの古びたものだったのが、いつからかずっと気がかりだったのだ。
 用事の帰り道で出くわした陶器市で選んだ、有名な窯元でもなんでもないようなごくありふれたご飯茶碗。それが、周から忍への今にしてみれば『はじめて』の贈り物だった。

「おぼえてたんだな、そんなこと」
「おぼえてるよ……」
 いつになく弱気に投げかけられる言葉に、じわりと胸の奥ではあたたかな想いが広がっていく。
 ああもう、ほんとうに。
「こんどの休みでいい? またいっしょに買いに行けばいいじゃん。俺のも買い換えるから、そん時」
「周のぶんは俺が出していい?」
「ん、ありがとな」
 ゆっくりと頷きながら答えれば、瞼をふわりとやわらかに細めた、いとおしさだけで満ち溢れた笑顔が広がっていく。

 ささやかな幸福で満ちた日々は、こんな風にして静かに積み重ねられていく。



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愛の名前

春の名前の続き






 名前があることを知ると、それだけでぼんやりと形のないものが色づきはじめるのをこの身体と心はなにもかも知っていた。
 たとえばこの腕の中にいる相手は、互いに恋をしている相手だから『恋人』だなんてことを。

 やわらかに潤んだまなざしをじいっと見下ろしながら、くしゃくしゃの髪を指でそっと掬ってはなぞる。
 撫でたいくらいにかわいらしいから撫子――ほんの少し前の、短い散歩の最中に教えてもらった火花を散らしたようなあざやかな花の姿をぼんやりと思い返す。
 撫で回したいくらいにかわいい、だなんて思う気持ちが自分にもあったんだよな。それを知った時の驚きと戸惑いは、いまだにありありと思い返せるほどだった。
 理性だとか本能だとか欲望だとか、そんな様々なぶかっこうで剥き出しの感情がないまぜになったみたいなひどくらんぼうで子どもじみた横暴な気持ちを感じるそのたび、いまだにめまいがしそうになるくらいに息苦しくなる。
 押し潰してぐしゃぐしゃにしたい――なんてわけじゃないから。
 不器用に身体を浮かせて、精一杯に気遣うつもりでじいっとようすを伺って、言葉でそれを確かめて――でもそんなのきっと自己満足に過ぎなくて。
 不安や恐れをかき消してくれるのはいつだって、寄り添うように高まる体温や、やわらかに潤んで重なり合う肌の感触、きつく伸ばされる掌、そのひとつひとつだ。

「……あまね、」
 花みたいにぼうっと染まった顔が、じいっとこちらを見ている。射止められるようなそんな心地になりながら、つられるようにぴたりと動きを止める。
「ごめん、痛くしてた?」
 鎖骨の上を這わせていた舌の動きを止めて、そっと問いかけてみる。傷付けないように、痕を残さないように。気遣っているつもりでも、いとおしいと思う気持ちはたやすくブレーキを壊してしまうから。
「……ごめん、ちがう」
「あやまんな、」
 すこしだけムキになったふうを装いながら、ぎゅうっと耳を塞いで睨みつける。
 あまく潤んだ瞳は期待に満ちた色を宿しながらかすかに震えていて、とくとくと心を震えさせる。
「……なんでだろね、好きだなって思うと呼びたくなる。周って」
「――ありがと」
 ばつが悪いような心地に襲われながら、力なく答える。
「照れてんの? かわいい」
 くしゃくしゃに笑いながら、汗ばんだ掌は植物の蔓みたいに自在に伸びて、こちらの背中にぎゅうぎゅう絡みつく。
「そうだよ」
 得意げに答える忍の顔だって、花の色を溶かし込んだみたいにますますぼうっと赤い。
「……かわいい、好きだよ」
「うん、」
 こんな時はなんて答えるのが正解なんだろう、ほんとうは。
 無骨な相槌で答えると、言葉を塞ぐみたいにらんぼうに口づける。やわらかくこちらを絡めとる舌の痺れるようなあまさと吐息のあたたかさに、心ごと重たく沈められていくみたいにくらくらする。
 何度したって慣れるわけなんてあるはずもなかった。いとおしさは繰り返すたびに目減りするどころか、ますます募っては膨らんで、行き場をなくすばかりだ。
「忍、」
「……うん、」
 見つめ合ったまま、盛り上がった鎖骨を指先でするするとなぞる。
「好きだよ」
「……ありがとう」
 途方もない安堵感に包まれるのを感じながら、そっと唇を落とし、舌を這わせて形の良い骨の感触をなぞる。
 指先は敏感な箇所をなぞり、舌は肌の上を伝う。
 シーツの上では、まるで逃げ出すのを恐れるように、不器用に汗ばんだ脚が絡み合う。
 ゆるやかな拘束は、互いを閉じ込め合う檻のようだ。

 変わったよな、といまさらみたいに何度もそう思う。ほんとうに、はじめてこんな風に許された時とまるでちがう。
 まなざしの心地よさ――だけなんかじゃない。あの頃とはまるで身体そのものが違う。どこまでも沈み込んでいくような、重ね合わせた肌のやわらかさも、互いにおなじぬくもりを分け合っていく掌や唇を伝う熱も、自らを受け入れ、繋がり合う時に感じる心地よい息苦しさも。
 どこまでもどこまでも、沈み込んでやわらかに溶けてしまいそうに心地良くて――それなのにこの境界は決して溶かされなくて。
 こんなふうになるだなんて、ほんとうに思いもしなかった。こちらの気持ちを見透かされて、悪戯に手を伸ばされたあの時とはもうまるでちがうのをお互いがなによりも知っている。

 ――愛されてるよな、ほんとうに。
 自惚れなんかじゃなく、なによりもそれを感じるのがこんな瞬間だった。この素直な身体はなによりもそれを全身で教えてくれるから、肌を重ねるたびにその思いは強まる。
 それでも、その心地よさはあっけなく溶けて消えてしまう魔法なのを誰よりもお互いに知っているからこそ、懲りずに何度も繰り返す。
 飽きれるほどに愛していて、なんどこうしたってどうしようもなく足りない。
「……あまね、」
「ん?」
 息苦しそうに、それでも精一杯に忍は笑ってみせる。
 ああもう、ほんとうにかわいいな。こんな顔、きっといままでほかの誰にも見せたことがないんだろうな。
 こんなふうに忍を愛してもいいのはいままではきっと周だけで――たぶんきっと、この先もそうで。子どもじみた独占欲は、確信するたびに抱えきれないほどの募るようないとおしさに変わる。
「……どしたの」
「なに?」
 ゆっくりと髪をかきあげながら尋ねれば、細められたまぶたでじいっとこちらを見つめながら、濡れた吐息がぽとりと落とされる。
「笑ってるから、周」
「怒ってるほうがいい?」
「ちがう……けどいい、どっちでも」
 なにひとつ余すことなく愛しているから、それでいい。
 許されていると教えてくれるまなざしとはだかの心に、さわさわと音もなく心は揺らされていく。
「……でもうれしい、笑ってると」
「俺もだよ」
 額と額を擦り合わせるようにしてじっと見つめ合いながら、確かな気持ちをそうっと重ね合わせる。
 ほんとにちゃんと返せてるのかな、なにかひとつでも。こんなにもなにもかももらってばかりで、息苦しくなるほどだから。
「あのさ、」
「うん?」
 いいこいいこをするみたいに汗ばんではりついた前髪をかきあげながら、そうっと尋ねてみる。
「ちゃんとしてる? 俺は」
 相応しいとそう言えるだろうか、恋人として。
「決まってんでしょ、五百点だよ」
「……あますぎんだろ」
 あきれたように答えながら、絡ませた腕の力をぎゅうぎゅう強める。

 恋をしている相手だから、恋人。
 それでも恋はそもそもひとりで身勝手におぼれるものだから、ふたりでその気持ちを寄せ合う同士だけがお互いをそう呼ぶことを許される。
 言葉ってすごいな、ほんとうに。

 ――でもそれなら、この恋がすべて溶けたらその先でふたりはなんになる?

 この先、この国の仕組みやしきたりが変わればきっと自分たちだって名前のついた何かになれる――でもきっと、そんなことなんかじゃなくって。
「……周はさ、」
 言葉にできないわだかまりに揺らされていれば、陶然に溺れるまなざしは、もつれあった指を絡ませたまま、淡く滲んだ吐息混じりのあたたかな言葉を肌の上へと落とす。
「じょうずになったねって言ったら怒る? ほんとのことだけど」
 つられるように、みるみるうちに頬は熱くなる。
 偽りなくほんとうのことだとそう思う。おっかなびっくりに抱いていたのはたしかだし、経験らしきものもほとんどないほうだった。
 高め合うすべならどことなくわかっていても、慈しむすべなんてすこしもわからなくって、いつだってずっと手探りで――愛してもいいと教えてくれたのは、なんどもこうしてきたからだ。
「……怒ってどうすんだよ」
 それでも、照れてしまうこと。その結果、すこしばかり口ぶりが荒っぽくなってしまうことはどうにか許してほしいのだけれど。
「おまえだってそうじゃん」
 耳元に唇を寄せ、あまやかな囁き声をそうっと注ぐ。
 受け入れてくれてありがとう、ほんとうに。
 この腕の中でやわらかく満ちていく身体がなによりものその証だと、なによりもそう信じているから。




 気怠くて心地よい眠りからゆっくりと目を覚ますと、薄い明かりに包まれていた部屋の中の空気はすっかり一変していた。窓から差し込む光はすっかり翳り、夜の帳が静かに満ちはじめている。
 傍からつたうぬくもりは、水底にたゆたうように心地良く気怠いこの身体にひたひたと染み渡るように優しい。
「……あま、ね」
 ふるふる、と音もなく震えるうすく色づいたまぶたはぱちりと開くと、おぼろげにこちらを捉えてくれる。
「ごめん、つかれた?」
「ううん、へいき」
 にいっと笑いながら、温まった身体を猫みたいに無邪気に擦り寄せられる。ほんとうに、腹が立つくらいにどうしようもなくかわいい。
 いいこいいこをするようにくしゃくしゃの髪を撫でてやれば、くしゃくゃの無防備な笑顔がかぶせられる。
「まだ眠かった? ごめんな、起こして」
「……いい」
 ぶん、と勢いよくかぶりを振ると、逃さない、と言わんばかりにぎゅうぎゅう抱きしめられる。
「もったいないから起きる。そんでこうしてる、あまねと」
「わかったわかった、いいから」
 宥めるようにぽんぽんと背中をなぞれば、こくこくと頷くいい子のお返事が返される。
 ――ああもう、一生こいつには敵うわけがない。
(それで構わないと思っているあたり、なんだかもう)

 これから先立ってきっと、こんなふうに何度も繰り返し繰り返し、飽きることなく恋をするのだ。
 それはきっとなによりもの、確かな『名前』の授けられた幸福な確信だった。




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春の名前

ほどけない体温、周と忍のいつかの春









 この世にあふれるすべてのもの、それぞれにひとつだけの「名前」があることをはじめて知った時の驚きは、いったいどんなものだったのだろう。
 思い出すことなんてきっと出来ない。だからこそ、こんなふうにあてどなく想いを馳せてみるそんな瞬間がある。

「あ、撫子だ」
 歩道の脇に咲いた花は濃いピンクと紫を混ぜたような明るい色で、うんと細かなフリル模様を刻みながらひらひらと頼りなく風に舞う。線香花火の火花ってこんなふうに見えたよな、たしか。
「撫でたいくらいかわいいから撫子って名前なんだって、なんかかわいいよね」
 慈しむようにうっとりとまぶたを細めて話す横顔をぼうっと眺めながら、思わず気付かれないようにちいさく息を吐く。なんでこんなに見飽きないんだろうな、不思議だ。この花の名前をつけた誰かもしかすれば、こんなふうに大切な誰かを思いながら、ちいさな花を愛でていたのかもしれない。
「こっちの白いのは?」
 あざやかな色を引き立てるように咲く、ごくちいさな白い花がこんもりと花束のように生茂る姿を指差してみる。
「スイートアリッサム」
 すぐさま、得意げな笑顔を貼り付けたまま返事が投げかけられる。
「……歩く花図鑑だな」
「そんな詳しくないよ、たまたま知ってただけ」
 誇らしげなようすを隠せない笑顔に、心はおだやかに温められる。
「いい季節だよね、春って。どこもかしこもなんかきらきらしてて」
「ほんとにな」
 分厚いコートやブーツから解放された身体は身軽で、どこまでも軽やかに歩いていけるような気がする。突き刺すように冷たかった風だって、もうすっかり頬を撫でるようにやわらかで心地よい。
「あれってミモザであってる?」
 針のような葉っぱとぽんぽんとまあるい黄色のかわいらしい花を指せば、満足げな笑顔がそうっと返される。
「ギンヨウアカシアだよ。ミモザって言う人の方が最近は多いよね」


「ゼラニウム」
「カタバミ」
「スノーフレーク」
「ツツジ」
「モッコウバラ」
「チューリップ」
「シャクナゲ」
 ごくありふれた住宅街にも、驚くほどに花は溢れている。そのひとつひとつに誰かが授けた名前があるだなんてことをいまさらのように不思議に思う。
 気にも留めずに通り過ぎていたそれの「名前」を知るたびに、なぜだか視界が明るく開けていくのだから不思議だ。
「よく知ってんな、それにしても」
「そっかなあ?」
 ゆったりとしたパーカーの袖口をそっとさするようにしながら、忍は答える。
「ふつうにおぼえない?」
「いや……」
 歴史上の人物だとか星の名前なんかと違って、テストに出るからとおぼえたような記憶もないことだし。
 そういえば、花の名前っていくつそらで呼べるんだろう? 名前がわかったって、実物と結びつけるのが難しいものがきっとやまほどあるはずだ。思わず首を傾げるこちらを前に、いつもそうするみたいににっこりと得意げに笑いながら忍は答える。
「ちっちゃい頃さー、よく家族で散歩とかって行くじゃん。そゆ時に教えてくれたんだよね、佳乃ちゃんが」
 おおよそ『母親』を呼ぶのには似つかわしくないと思うようなお馴染みの呼称とともに、嬉しそうにまぶたを細めながら忍は答える。
「佳乃ちゃんのお父さんーーうちのおじいちゃんがね、花が好きだからってちっちゃい頃によく散歩しながら教えてくれたんだって。だからさ、佳乃ちゃんも子どもが出来たら教えてあげんだーってずうっと思ってたんだって。そんでね、俺とひろちゃんにいっつも教えてくれたの」
 春の日差しに照らされながらうっとりと語る横顔に、わずかにいつもとは違う影が過ぎる。
 この表情を、確かに知っていた。自分と出会うよりもずっと前ーー一生手に入るはずもない、周のことをすこしも知らなかった頃の忍の顔だ。
「言われたんだよね、いつかその時がきたら誰かに教えてあげてねって。わかんなかったんだけどさ、子どもだから。でもいまんなってやっとわかった、そゆことなんだよね、きっと」
 照れたように笑いながら、瞳の中には色とりどりの花が映し出される。
「名前がわかるとさ、なんかいいなぁって思うよね。愛着が湧くって言うか」
「……まぁ、」
 少なくとも、偶然目にした『どこかのなにか』ではなくなる。
「なんかうれしくなる、単純だなぁって思うけど」
「うん、」
 どことなく無防備に放たれる言葉の端々からは、素直な歓びの思いだけがひたひたと染み渡る。ああ、きっとこんな気持ちを手渡したくて、大切な人は花の名前のひとつひとつを幼い子どもに教えたのだ。
「ひろちゃんがちっさいころ言ってたんだよね、お花は枯れる時が怖いって。ほら、しなしなになって変色してぶら下がってるでしょ?」
 視線の先では、茶色くしなびた白木蓮が息も絶え絶えなようすでだらしなく垂れ下がる。
「おばけみたいで怖いって言うんだよね。佳乃ちゃんも困っちゃってさ、大丈夫よ、お花さんも一生懸命最後まで咲いてるんだからかわいそうでしょって。でもさ、わかんなくもないよね」
 しっくりと足に馴染んだスニーカーの爪先には、はらりと薄桃色の花びらが舞い落ちる。
「桜みたいにきれいに咲いてるうちにはらはら落ちちゃうほうが残酷じゃない感じがするもんね、潔いっていうか」
 歩道の脇には、この季節にしかお目にかかれない薄桃色の絨毯がびっしりと敷き詰められている。
「どっちのほうがより残酷なんだろうな」
「むつかしいとこだよね」
 笑いながら、空に溶けるような淡い色をぼうっと見上げる。
 場所によっては日当たりがまばらなせいか、すっかり緑の葉に遮られている木もあれば、膨らみかけた蕾をたくさん実らせた木もまだある。ゆったりとしたペースで続く春のリレーは、どうやらもうすこし楽しめるらしい。
「周は好き? 桜って」
「……別にそんな、咲いてるなって思うくらい。きれいだな、とは思うけど」
「だと思った」
 我ながら愛想のない答えだと思うのに、お構いなしに忍は嬉しそうに笑って見せる。おまえは? なにかに背中を押されるような心地で尋ねれば、いつものあの、花が開くようなやわらかな笑顔がこちらを包み込む。
「ふつうだと思う。すごいなぁ、綺麗だなって思うけど、すごい有名なとこまで見に行こうとかは思わないし。なんていうかさ、あたりまえみたいに咲いてると淡白になるよね」
「そういうもんなのかもな」
「そーゆーもんだよねえ」
 笑いながら、見慣れた道をいつもよりも心なしかゆっくりとペースを落とすようにして歩く。
 手袋を必要としなくなった掌はそれでも手持ち無沙汰にいびつに震えていて、むしょうに情けないような気持ちになる。
 いくらだって知っている、この指の骨の感触も、そこから伝う温もりも。こんな行き場のない感情にぶつかるその度に、自分が一体なにを守っているつもりなのか、時々わからなくなる。
「あれはユキヤナギ?」
「うん、じゃあこれはわかる?」
「しらない」
「ホトケノザ」
「あれならわかる、ビオラ」
「あれは?」
「ハコベ」
 ほんの数メートル歩くだけなのに、みるみるうちに目にする世界に名前がついていく。あたりまえみたいに思っているけれど、これってすごいことなんじゃないだろうか。
「名前がない花ってないのかな、もう」
 細く尖った花びらがまっすぐ伸びる白い花ーーオランダミミナグサ、というのだと教えてもらったーーを目にしながら、忍は言う。
「未発見の新種とかじゃないと無理だろ、たぶん」
「ざんねんだなぁ」
 わざとらしくがっくりと肩を落とすようにしながら、無邪気な言葉は続く。
「アマネって名前にしたのに、俺なら」
「……公私混同だろ」
「そーゆーもんじゃないの?」
 くすくすと得意げに笑いかけられれば、つられるようにさあっとかすかに顔が赤くなる。
 ……わかって言ってるんだよな、まったくたちが悪い。呆れ笑いを噛み殺しながら、家までの道をゆっくりと、ペースを合わせるように気遣いながら歩いていく。
 視界の端には、ごくごくちいさな淡い水色の可憐な花が道の端でひっそりと花開いている。あれはーーキュウリグサ。さっき忍に教えてもらったからわかる。それも忍がいつか、大切な人に教わったからだ。
「キュウリグサだな」
「かわいいよね、一生懸命咲いてる感じがして」
 嬉しそうにまぶたを細めた笑顔からは、まっすぐなぬくもりだけが伝う。
 いつしかあたりまえのように感じていたそのまなざしを見つめるそのうちに、ふいうちのように、胸の奥ではかすかな想いが過ぎる。
 ーー周にはきっと、この先にこうして教わった花の名前を教える相手がきっともういないことを。

 掬ってはこぼれ落ち、そしてまた拾い上げてーーそんなふうにして伝えられてきたはずのこの宝物のかけらたちは、きっとここで途切れて終わってしまう。
 糸と糸を結んで『終わり』の印をつけて、ぱちんと鋏で切り落として、ここでおしまい。
 もしかしなくてもそれは、ひどく残酷なことなのだろう。
「……周、どうかした?」
「いや、」
 ぶん、とおおげさに首を振り、やり過ごすようにぎこちなく笑う。
 言わない方がいいことがあるのを知っている。いたずらに傷付けたいわけじゃないから。
「帰ったらコーヒーいれよっか、そんでちょっと休憩しよ」
「今川焼きまだあったよね、冷凍してるやつ」
「あんこだろ」
「案外合うんだよ?」
「じゃあ信じる」
 笑いながら、幾度目かの春をふたりで歩いていく。つまさきには、風に攫われた春が音もなく静かに降り積もっていく。







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