忍者ブログ

調弦、午前三時

小説と各種お知らせなど。スパム対策のためコメント欄は閉じております。なにかありましたら拍手から。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

春の名前

ほどけない体温、周と忍のいつかの春









 この世にあふれるすべてのもの、それぞれにひとつだけの「名前」があることをはじめて知った時の驚きは、いったいどんなものだったのだろう。
 思い出すことなんてきっと出来ない。だからこそ、こんなふうにあてどなく想いを馳せてみるそんな瞬間がある。

「あ、撫子だ」
 歩道の脇に咲いた花は濃いピンクと紫を混ぜたような明るい色で、うんと細かなフリル模様を刻みながらひらひらと頼りなく風に舞う。線香花火の火花ってこんなふうに見えたよな、たしか。
「撫でたいくらいかわいいから撫子って名前なんだって、なんかかわいいよね」
 慈しむようにうっとりとまぶたを細めて話す横顔をぼうっと眺めながら、思わず気付かれないようにちいさく息を吐く。なんでこんなに見飽きないんだろうな、不思議だ。この花の名前をつけた誰かもしかすれば、こんなふうに大切な誰かを思いながら、ちいさな花を愛でていたのかもしれない。
「こっちの白いのは?」
 あざやかな色を引き立てるように咲く、ごくちいさな白い花がこんもりと花束のように生茂る姿を指差してみる。
「スイートアリッサム」
 すぐさま、得意げな笑顔を貼り付けたまま返事が投げかけられる。
「……歩く花図鑑だな」
「そんな詳しくないよ、たまたま知ってただけ」
 誇らしげなようすを隠せない笑顔に、心はおだやかに温められる。
「いい季節だよね、春って。どこもかしこもなんかきらきらしてて」
「ほんとにな」
 分厚いコートやブーツから解放された身体は身軽で、どこまでも軽やかに歩いていけるような気がする。突き刺すように冷たかった風だって、もうすっかり頬を撫でるようにやわらかで心地よい。
「あれってミモザであってる?」
 針のような葉っぱとぽんぽんとまあるい黄色のかわいらしい花を指せば、満足げな笑顔がそうっと返される。
「ギンヨウアカシアだよ。ミモザって言う人の方が最近は多いよね」


「ゼラニウム」
「カタバミ」
「スノーフレーク」
「ツツジ」
「モッコウバラ」
「チューリップ」
「シャクナゲ」
 ごくありふれた住宅街にも、驚くほどに花は溢れている。そのひとつひとつに誰かが授けた名前があるだなんてことをいまさらのように不思議に思う。
 気にも留めずに通り過ぎていたそれの「名前」を知るたびに、なぜだか視界が明るく開けていくのだから不思議だ。
「よく知ってんな、それにしても」
「そっかなあ?」
 ゆったりとしたパーカーの袖口をそっとさするようにしながら、忍は答える。
「ふつうにおぼえない?」
「いや……」
 歴史上の人物だとか星の名前なんかと違って、テストに出るからとおぼえたような記憶もないことだし。
 そういえば、花の名前っていくつそらで呼べるんだろう? 名前がわかったって、実物と結びつけるのが難しいものがきっとやまほどあるはずだ。思わず首を傾げるこちらを前に、いつもそうするみたいににっこりと得意げに笑いながら忍は答える。
「ちっちゃい頃さー、よく家族で散歩とかって行くじゃん。そゆ時に教えてくれたんだよね、佳乃ちゃんが」
 おおよそ『母親』を呼ぶのには似つかわしくないと思うようなお馴染みの呼称とともに、嬉しそうにまぶたを細めながら忍は答える。
「佳乃ちゃんのお父さんーーうちのおじいちゃんがね、花が好きだからってちっちゃい頃によく散歩しながら教えてくれたんだって。だからさ、佳乃ちゃんも子どもが出来たら教えてあげんだーってずうっと思ってたんだって。そんでね、俺とひろちゃんにいっつも教えてくれたの」
 春の日差しに照らされながらうっとりと語る横顔に、わずかにいつもとは違う影が過ぎる。
 この表情を、確かに知っていた。自分と出会うよりもずっと前ーー一生手に入るはずもない、周のことをすこしも知らなかった頃の忍の顔だ。
「言われたんだよね、いつかその時がきたら誰かに教えてあげてねって。わかんなかったんだけどさ、子どもだから。でもいまんなってやっとわかった、そゆことなんだよね、きっと」
 照れたように笑いながら、瞳の中には色とりどりの花が映し出される。
「名前がわかるとさ、なんかいいなぁって思うよね。愛着が湧くって言うか」
「……まぁ、」
 少なくとも、偶然目にした『どこかのなにか』ではなくなる。
「なんかうれしくなる、単純だなぁって思うけど」
「うん、」
 どことなく無防備に放たれる言葉の端々からは、素直な歓びの思いだけがひたひたと染み渡る。ああ、きっとこんな気持ちを手渡したくて、大切な人は花の名前のひとつひとつを幼い子どもに教えたのだ。
「ひろちゃんがちっさいころ言ってたんだよね、お花は枯れる時が怖いって。ほら、しなしなになって変色してぶら下がってるでしょ?」
 視線の先では、茶色くしなびた白木蓮が息も絶え絶えなようすでだらしなく垂れ下がる。
「おばけみたいで怖いって言うんだよね。佳乃ちゃんも困っちゃってさ、大丈夫よ、お花さんも一生懸命最後まで咲いてるんだからかわいそうでしょって。でもさ、わかんなくもないよね」
 しっくりと足に馴染んだスニーカーの爪先には、はらりと薄桃色の花びらが舞い落ちる。
「桜みたいにきれいに咲いてるうちにはらはら落ちちゃうほうが残酷じゃない感じがするもんね、潔いっていうか」
 歩道の脇には、この季節にしかお目にかかれない薄桃色の絨毯がびっしりと敷き詰められている。
「どっちのほうがより残酷なんだろうな」
「むつかしいとこだよね」
 笑いながら、空に溶けるような淡い色をぼうっと見上げる。
 場所によっては日当たりがまばらなせいか、すっかり緑の葉に遮られている木もあれば、膨らみかけた蕾をたくさん実らせた木もまだある。ゆったりとしたペースで続く春のリレーは、どうやらもうすこし楽しめるらしい。
「周は好き? 桜って」
「……別にそんな、咲いてるなって思うくらい。きれいだな、とは思うけど」
「だと思った」
 我ながら愛想のない答えだと思うのに、お構いなしに忍は嬉しそうに笑って見せる。おまえは? なにかに背中を押されるような心地で尋ねれば、いつものあの、花が開くようなやわらかな笑顔がこちらを包み込む。
「ふつうだと思う。すごいなぁ、綺麗だなって思うけど、すごい有名なとこまで見に行こうとかは思わないし。なんていうかさ、あたりまえみたいに咲いてると淡白になるよね」
「そういうもんなのかもな」
「そーゆーもんだよねえ」
 笑いながら、見慣れた道をいつもよりも心なしかゆっくりとペースを落とすようにして歩く。
 手袋を必要としなくなった掌はそれでも手持ち無沙汰にいびつに震えていて、むしょうに情けないような気持ちになる。
 いくらだって知っている、この指の骨の感触も、そこから伝う温もりも。こんな行き場のない感情にぶつかるその度に、自分が一体なにを守っているつもりなのか、時々わからなくなる。
「あれはユキヤナギ?」
「うん、じゃあこれはわかる?」
「しらない」
「ホトケノザ」
「あれならわかる、ビオラ」
「あれは?」
「ハコベ」
 ほんの数メートル歩くだけなのに、みるみるうちに目にする世界に名前がついていく。あたりまえみたいに思っているけれど、これってすごいことなんじゃないだろうか。
「名前がない花ってないのかな、もう」
 細く尖った花びらがまっすぐ伸びる白い花ーーオランダミミナグサ、というのだと教えてもらったーーを目にしながら、忍は言う。
「未発見の新種とかじゃないと無理だろ、たぶん」
「ざんねんだなぁ」
 わざとらしくがっくりと肩を落とすようにしながら、無邪気な言葉は続く。
「アマネって名前にしたのに、俺なら」
「……公私混同だろ」
「そーゆーもんじゃないの?」
 くすくすと得意げに笑いかけられれば、つられるようにさあっとかすかに顔が赤くなる。
 ……わかって言ってるんだよな、まったくたちが悪い。呆れ笑いを噛み殺しながら、家までの道をゆっくりと、ペースを合わせるように気遣いながら歩いていく。
 視界の端には、ごくごくちいさな淡い水色の可憐な花が道の端でひっそりと花開いている。あれはーーキュウリグサ。さっき忍に教えてもらったからわかる。それも忍がいつか、大切な人に教わったからだ。
「キュウリグサだな」
「かわいいよね、一生懸命咲いてる感じがして」
 嬉しそうにまぶたを細めた笑顔からは、まっすぐなぬくもりだけが伝う。
 いつしかあたりまえのように感じていたそのまなざしを見つめるそのうちに、ふいうちのように、胸の奥ではかすかな想いが過ぎる。
 ーー周にはきっと、この先にこうして教わった花の名前を教える相手がきっともういないことを。

 掬ってはこぼれ落ち、そしてまた拾い上げてーーそんなふうにして伝えられてきたはずのこの宝物のかけらたちは、きっとここで途切れて終わってしまう。
 糸と糸を結んで『終わり』の印をつけて、ぱちんと鋏で切り落として、ここでおしまい。
 もしかしなくてもそれは、ひどく残酷なことなのだろう。
「……周、どうかした?」
「いや、」
 ぶん、とおおげさに首を振り、やり過ごすようにぎこちなく笑う。
 言わない方がいいことがあるのを知っている。いたずらに傷付けたいわけじゃないから。
「帰ったらコーヒーいれよっか、そんでちょっと休憩しよ」
「今川焼きまだあったよね、冷凍してるやつ」
「あんこだろ」
「案外合うんだよ?」
「じゃあ信じる」
 笑いながら、幾度目かの春をふたりで歩いていく。つまさきには、風に攫われた春が音もなく静かに降り積もっていく。







拍手

PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL
URL
コメント
パスワード

Copyright © 調弦、午前三時 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]