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調弦、午前三時

小説と各種お知らせなど。スパム対策のためコメント欄は閉じております。なにかありましたら拍手から。

さよなら、せんせい

季刊ヘキ 1dayライティング企画にて書かせて頂いたものです。
第0回お題「せんせ、」










「しーのぶくん」
「…………」
「しーーのーーぶくーーん」
「…………」
「しーーーーのーーーーぶーーーー」
「…………」
 間延びした空気の漂う夕暮れ時の部屋の中に、少し鼻にかかった声がぼんやりと響く。
 びっしりと窮屈そうに並べられた教科書と参考書に、図書館のラベルのついた本。キャラクターの絵のついたカラフルな文具に、ところどころに飾られたかわいらしいぬいぐるみ。
 にぎにぎしい色と文字列の洪水に目を逸らすようにして壁側へと視線を向けて入ってくるのは、雑誌の付録らしき、折り目のついたアイドルのポスター。
 いまとなってはノスタルジアを感じずにいられないこの空間にもとうに慣れきってはしまったけれど、だからと言って、しかるべき線引きを忘れたことは一度もない。だってまあそりゃ、こちらはもう『大人』ですから。
 それならもういい加減に返事のひとつでも返してやるべきなのだろう。
「大人」げないと言われても仕方ないので。あきれながら渋々と口を開こうとしたタイミングで、諦めたとででも言いたげな不服さを隠しきれない口ぶりで言葉が返される。
「せーんせっ、」
 まぁ、これだってあからさまに「い」が省略された簡略形式ではあるけれど、そこにはどうにか目をつぶるということで。
「ん、どした」
 くる、と顔を向けて答えると、宝石を模したきらきらした飾りのついたシャープペンシルを握りしめたまま、じっと上目遣いにこちらを見上げるようにしながら彼女は答える。
「ていうか無視はよくないんじゃん? せんせ、案外強情だよね」
「だから何度も言ってんじゃん、名前で呼ぶの禁止って」
 仮にも『先生』ですから、そこはけじめとして。
「だってさぁ」
 淡いチェリーレッドの色付きリップを塗った、不自然にあまったるいにおいのつやつや光る唇が紡ぐのはこんなせりふだ。
「一回くらい間違えて返事してくんないかなって思うじゃん、つまんないの」
「……誰と間違えんの」
 きぃ、とキャスターの軋む音を響かせながら、さも当然と言わんばかりの口ぶりで彼女は答える。
「決まってんじゃん、せんせの彼女」
「いるともいないとも言ってないよね俺は? ていうか課題はどした。ドリル四ページは?」
「終わったんで見てもらおって思ったんですけどー」
 ぷうっと頬を膨らませて答えるその姿から目を逸らすようにしながら、たっぷりとしたシルエットのカットソーの裾のフリルが揺れるさまをぼんやりと眺める。


 城之崎祐希は、この一年ほどのあいだに受け持っている家庭教師の教え子だ。
 多少注意力散漫なところはあれど、飲み込みは早いし、頭も悪くはない。こちらの指摘は素直に受け入れる物わかりの良さと機転の利く受け答え、それなりの熱心さで課題に取り組み、着実な結果を導き出す姿だけを見れば『いい生徒』ではあるのだ。
 問題は慕われている、というよりはあからさまに『舐められている』ことに尽きるのだけれど。

「ここは引っかけ問題だからまー間違えてもいんだけどさ、どうせなら解けた方が気分いいじゃん。例題の文章の癖にあらかじめ気づいておくとその辺の罠にもかかりにくくなるっていうか――」
「はいせんせ、しつもんでーす」
 休憩に、と出された紅茶のカップをことん、とテーブルに置きながら「生徒」であるところの彼女が投げかけてくる質問とはこうだ。
「せんせにさ、プレゼントとかって渡してもいい? 受け取ってくんなかったら損だし、確認しとこって思って」
「……話、聞いてた?」
 ぴく、とおおげさに眉根を寄せて尋ねれば、堪えた様子などかけらも見受けられないけろりとした表情が返されるのはもはやお約束というか、なんというのか。
「聞いてるに決まってんじゃん。ていうかまじめ。似合わない」
 ――こういう時、男相手なら小突いたりでもしていいのか。いや、そういうのも問題があるのか。
 思春期の子どもは相手にするのがなかなか難しい。向こうだってこちらが『大人』なんかじゃないことくらい見抜いているのは確かなんだし。
 ひとまずはふぅ、とおおげさなため息のポーズを示してやりながら、言葉を続ける。
「決まってんじゃん。何度も言ってるけど、こう見えても君の先生だからね? こしてるあいだも時給もらってんだからね? まじめにもなるっつうの」
「知ってるけどさぁ」
 ぷうと、リスみたいに膨らませた頬にバタークッキーを遠慮なく詰め込んでいくかたわら、祐希は答える。
「だから聞いといた方がいいって思ってさ。自己満で迷惑かけんのやだし。だってさ、私が彼女だったらほかの女に貰ったものとか使っててほしくないもん。でも消えモノって気持ち的に味けなくてやなわけ。わかるでしょ?」
「……気持ちだけで充分だって、そゆのは。ていうか勿体ないとか思わないわけ」
 果たして、下手に傷つけないためにはどう答えるのが正しいのか。受け答えに窮しながらクルミのたっぷり入ったバタークッキーを放り込むこちらを前に、しばしば見せるあの、いじけたような口ぶりで横目にこちらをじいっとにらみつけながら告げられるのはこんな言葉で。
「だってさぁ、もうあと何回かしか会えないじゃん。せんせはどうでもいいのかもしんないけど私はそうじゃないってだけだし」
「……んなこと言われたって、こっちも困んだけど」
「そっかぁー」
 少しぬるくなったダージリンを流し込むこちらを前に、いつも通りのあの得意げな笑顔がかぶせられる。
 ほら、遊ばれてる。若干十七歳の女の子に。
「……ていうかさぁ」
 手持ちぶさたに、手にしたボールペンを指先でくるくるもてあそぶようにしながら忍は尋ねる。
「城之崎さんは気まずくないわけ。俺、あと二回は授業あんだけど」
「ばれてる片思いなんてずっと気まずいに決まってんじゃん、今更だし」
 素直なのは美徳かもしれないけれど、こういった場合はなんと答えるのが正しいのか。ひとまずは無様に目を逸らして誤魔化すこちらを前に、一歩もひるまない様子で続けざまに言葉が投げかけられる。
「てかさ、ちゃんと彼女に聞いといてね。シュラバになってもしらないし」
「……だからさ、いるともいないとも言ってないよね?」
「ほーらそやって誤魔化すー。子どもだと思ってー。せんせのいじわるぅー」
「……休憩、あと五分ね」
 やれやれ、と息を吐きながらせめてもの抵抗に答えてやれば、瞳を細めたいやに得意げな笑顔を返される。
 まったくもって、なんと言えばいいのやら。



「まぁそういうわけなんで聞いておかなきゃいけないらしくて。周はさ、もらっても平気?」
「……別に平気とか平気じゃないとかそういう問題じゃないだろ」
 予想通りの答えを前に、ほうらやっぱり、と言わんばかりのため息をこぼしながら、カップのふちに添えた指先にかすかに力を込める。
「まぁーでもさぁ、実際女の子って割とそゆとこあるわけ。わかんなくもないんだけどさぁ」
 少しくらいは嫉妬してほしい、というところに関しては特に。
「ていうかさ」
 ふぅ、と息をつき、返される言葉はこうだ。
「おまえはどう思ってんの、その子のこと」
「あぁー、」
 生返事、とでも言わんばかりのどこか投げやりな口ぶりで忍は答える。
「まぁねえ、かわいくないわけじゃないよ。割と出来はいい子だし。漠然とだけど受験までは見てあげられんのかなって思ってたし、やっぱ無念じゃないっていやそうなるじゃん。まあでも、それはそれ、みたいな。ていうかまぁぶっちゃけた話、慣れ親しんだ稼ぎ口がなくなっちゃうってやっぱ多少は痛いよね、くらいの」
 すでに新しい生徒を受け持つ予定もあれば、顔合わせだって済ませてははいるのだけれど。
「……そういうもん?」
「周だってさ、あんまり転職とかしたい方じゃないでしょ?」
 げんに大学に在学する四年の間、おなじコンビニに務め続けていただなんて実績の持ち主であるわけだし
「まぁさ、かわいいっちゃかわいいけどじゃあひろちゃんとどっち? つったら身内なぶんだけひろちゃんの方が断然かわいいわけね。わー、ひろちゃん以下かー。それ言っちゃうとなんか急にすっげ生々しいじゃん。なにこの感じ」
 わざとらしく顔をしかめて答えてみても、目の前の相手の表情にはみるみるうちに曇りが広がるのも仕方のないことで。
「……忍、」
 軽口ばかりを並べ連ねるこちらを前に、しばしば見せるあの、諫めるような口調とまなざしをそうっと手向けながら周は答える。
「おまえはともかくだけど、相手の子はそれでいいのかって俺は聞いてんだけど」
「……まぁー、ねえ?」
 おおげさに首を傾げて見せれば、居心地の悪さを隠せない苦笑いだけがぎこちなく返される。
「よくあるあれでしょ、思春期にありがちなごっこ遊びっていうか気の迷いっていうか。どうせ新しいガッコに行ったら彼氏でもなんでもすぐ出来んだろうし、したらどうせすぐ忘れるって」
 自分にまさかそんな役割が回ってくることがあるだなんて、おなじ年頃の頃には思いもしなかった展開ではあるけれど。
「なーんかさぁ」
「……どした」
 すっかり底が見えて、念入りに冷ます必要もなくなったコーヒーを勿体つけるようにちびちびと口をつけるようにしながら忍は答える。
「俺があの子の立場だったら、こやって『どうせ子どもの言ってることだし』ってあしらわれでもしたらちょういらっとすんじゃん。でも実際逆になってみるとさ、子どもには子ども扱いする以外の正解なんて見あたらないもんだよなって思って」
 いつの間にかどうやら、こんなにもずるい大人になっていたらしいだなんて。
「しゃあねえだろ、んなこと言ったって」
 あきらめと、いくつしみと――それらすべてを溶かしあうおだやかなぬくもりを携えたまなざしが、じっとこちらを見つめてくれている。
「そっかぁ」
 瞳を細めて笑いかけるようにすれば、いつものように手慣れた様子で差しのばされた掌が、くしゃりと無造作に髪をなぞってくれる優しい仕草にただ身を任せる。
 ――やっぱりこっちの方が断然かわいいのは仕方のないことなので、そこは赦してもらうということで。(言う気はないけれど、もちろん)



「気持ちごとありがたくもらっておきます、突っ返しはしませんのでご自由に。以上です」
 事務的に淡々と伝えた連絡事項を前に、それでも目の前の少女の表情はみるみるうちにゆるむ。まぁなんというか、素直なのはよろしいことで。(ご期待に添えられるのかどうかはともかくとして)
「やっぱいんじゃん、彼女」
「だからさぁ」
 バサ、とおおげさな音を立てるようにして参考書を開きながら、忍は答える。
「こっちはいるともいないとも言ってないじゃん、憶測で話すのはやめよーね?」
「そやって子どもだと思ってごまかせばいいと思ってるのはどーかと思いまーす」
 不自然に間延びした声で答えられると、じわりとほんのひと匙ばかりの腹立たしさにも何かが呼び起こされるのも仕方のないことで。
「ていうか忘れてるっぽいけど俺は知り合いのお兄さんでもお友達でもなくて先生ですからね。君のお父さんお母さんに雇われてる身ですからね?」
「ていうかさぁ」
 ぴくりとも堪えてなどいない、とでも言いたげな口ぶりで彼女が告げる台詞はこうだ。
「こっちだって根拠がなくて言ってるわけじゃないんですけど」
「――ナニ」
 わざとらしく乱雑に答えるこちらを前に、彼女は続ける。
「せんせっていかにも彼女切らしたことないですーって感じじゃん。ぶっちゃけもてるでしょ」
「プライベートに関わる質問にはお答え出来ません」
「ゲーノージンかよ」
 ぷう、と頬を膨らませて答える姿を前に、閉じたままの教科書をばさりと音を立てて広げてやることで、現実へと引き戻す。
「明日の予習まだ終わってないじゃん。宿題終わったんだし、教科書残り三ページね」
「ていうかせんせさぁ」
 シャープペンシルの先、プラスチック製のきらきらした宝石の先で乱暴にぐりぐりと関数の数式をなぞりながら、祐希は答える。
「言うの忘れてたんだけど、きょうの晩ご飯からあげだよ。たくさん作ったから持って帰ってねっておかあさん言ってたから。それと空豆のサラダね」
「どしたの、それが」
「や、せんせからあげ好きでしょ。喜んでくれるかなって思って」
 もう最後だし。頼りなくかすれた声で告げられる言葉には、隠しきれない感情の色が淡く滲む。
「予習が終わった後のからあげは美味しいだろうねー」
「……いっつもそうに決まってんじゃん」
 ぼそりと答えた後、きゅっとちいさな唇を引き結ぶようにすると、途端に真剣な目をして数式の羅列へと没頭していく、すべらかな頬の上を添うように流れ落ちるくせのない黒髪をぼんやりと眺める。
 途端にしんと静まりかえった部屋には、台所から漏れ聞こえる野菜を刻むリズミカルな包丁の音がいやに響く。
 

 自分が高校二年の時はどうだったろうか、なんてことをこのところぼんやりと考える。
 彼女は――確かいた、文化祭に来ていて、向こうから声をかけてきた女の子。それほど長続きはしなかったけれど、電車で三つ先の県立高校に通っていた、放送部に入っていると話してくれた笑顔のかわいいい女の子。名前は確か――せりかちゃん。
 かわいいこだったよな、とぼんやりと思い返す。少し気まぐれで気分屋なところもあったけれど、そんなところも含めてなんとも愛嬌があって魅力的だった。思い出すこともないだろうし、いまさら会って話すこともないだろうとは思うけれど――記憶の底、蓋をしたことすら忘れていたような淡い淡い思い出のひとつだ。
 もし自分が高校生で、家庭教師がついていたとしたら――それが、自分みたいな相手だったら。
 何も特別な感情なんて抱くわけがないに決まってる。そりゃそうだ、そこまで自己愛が強いわけなんてないから。でもそれが、いまの恋人だったとしたらもちろん話は別だ。
 素っ気ないよな絶対、いまの自分以上に。どれだけこちらを向いてほしくって真剣になったって、むきになってからかってどうにか探りを入れたって、悪循環の積み重ねでますます遠ざけられていくばかりなのは目に見えている。もしかすれば、担当を変えてほしいだなんてあっさり糸を断ち切られる可能性だって十二分なほどにあって。
 あ、やっぱり縁って皮肉なもんだ。巡り合わせとタイミング次第でどうにでもなりうる。あんなに大切で手を離すことなんて考えられない相手とだって、年齢や時間や出会い方やタイミング、そのどれかひとつでも違ってしまえば、当然こんなにも手放すことなんて考えられない「いま」にたどり着けることはなかったはずで、どうなったって、その根本が翻ることなんてあり得ない。
 それはある意味とても幸福なことで――それでいて、残酷なことでもあるのかもしれなくて。

「――せっ、せんせーっ」
 ぼんやりとあてどない思案に明け暮れていたこちらの意識を揺り起こすかのように、いつものあの少し舌っ足らずに鼻にかかったあまくくすぶった声が意識の底へと飛び込んでくる。
「はい、どした」
「課題終わったんで採点してもらおって思って。いいです?」
「早いじゃん」
「そりゃあまあ」
 得意げに瞳を細めて笑う姿を前に、するりと心の奥がゆるまされるのを感じる。かわいいと、そう思わなくはないのだ。(良識の範囲内において)
 期待に満ちたようなまなざしでちらちらと覗きこむ視線を感じながら、順に回答をチェックしていく。期待を裏切らないと言わんばかりに特に目立ったミスもないのだから、すばらしいというかなんというのか。ここまでの積み重ねが実ってこそ、と自負してもいいのだろうか、これは。
「どーですか?」
 少しだけ揺らぐまなざしをちらりと見返しながら、忍は答える。
「やるじゃん」
 ごく簡潔な答えを前に、目の前の少女の顔は、まるで満面の花が咲き誇るかのように見る見るうちに緩まされる。
 ふぅ、とやや大仰に息を吐き、精一杯の『先生』のポーズをとるようにと言葉を紡ぐ。
「まぁね、ここはもうちょい効率が良い計算式で解いた方がいいけど。その方が時間もかかんないし、教師によっては正しい数式で解いてるかってのを加点対象にするからね。ちょっとややこしいかもしんないけど後々も使うことになるんで暗記しといて。だからって消しゴムとかに書いておくのは禁止ね、ばれたらちょうダサいってことくらいわかんでしょ」
「するわけないじゃん、んなこと」
「一応だよ、いちおう」
 赤ペンで書き込んだ数式の文字列の上を、ヤスリとクリームで丁寧に磨いたのであろう、つやつや光るさくら色の爪がするりとなぞりあげる。
「……向こうのガッコの授業の進度とかはちゃんと聞いてんだよね。追いつけそう? これで」
「いかなきゃわかんないよ、そんなの」
 いじけたような口調で答えるそのまなざしに、かすかに影がよぎる。気づけば、訪れる度に少しずつ殺風景になっていく部屋はいよいよ最終形態を目前にしているのが明らかで、にぎにぎしく部屋の中を彩っていたぬいぐるみやポスターや写真立てのたぐいはすっかり消え去り、彩度の落ちた部屋の中で、彼女の存在だけがいやに白々と浮かび上がる。
「編入試験があるみたいなのね。まぁ、おおまかな学力の診断みたいで、どの辺の範囲が出題されるかもわかんなくて。一応ね、授業の進み具合によってついていけなかったら補講もやってくれるって。でもさ、先生たちもみんなボランティアで残らされる羽目になるわけでしょ。なんかそこまで迷惑かけんのもなーって感じじゃん」
「かけたらいいじゃん、そのくらい」
 妙なところで遠慮したがるのはどうなんだか、子どもなのに。
「慣れるといいね、早く」
 ひとまずは、とばかりに無難な言葉のひとつでもかけてやれば、どこか得意げな口ぶりで返されるのはこんな返事だ。
「いじめられたらそっこーLINE送るからね、すぐ来てね」
「便利屋じゃないんでそこは。ていうか教えられないんで」
「いいじゃんもうせんせじゃなくなんだし。忍くんのけち」
「だからね、俺は君の先生で、それも雇われてる時間だけなの。だからそんな、」
「……知ってるよ」
 むきになったように答えるその言葉尻は、いつしかかすかにくぐもって震えている。
「……城之崎さ、」
「先生」
 いつもとは違う、はっきりとした意志を潜めたことを伺わせる真摯さでそう呼ばれる。
「いままでありがとう、ほんと。ごめんなさい、かわいくなくて。でも、ほんとだから。楽しかったのも、会えてうれしかったのもぜんぶほんとだから。どうせ怒んだろな、相手にしてくんないだろなってわかってたけど、でもぜんぶ、ほんとだから」
 射るようにひたむきなその感情を目の当たりにすれば、言葉なんて無意味なものに頼ることなんて出来るわけもなくって。
「城之崎さん」
 ぶん、と首を横に振ったその後、いつものあの強気な笑い顔と共に告げられるのはこんな一言だ。
「彼女のこと、あてずっぽうじゃないって言ったよね。ちゃんと気づいてたんだよ。それ、言ってもいいよね」
「……」
 うながすようにちらりと視線だけを投げかけ、黙り込むこちらを前に、祐希は続ける。
「だってさ、鍵」
「鍵?」
 首を傾げながら尋ね返せば、強気なまなざしがじろりとこちらを睨みつけてくる。
「せんせさ、いつもチェーンの先に鍵とかキーホルダーとかつけてんじゃん。歩いてるとチャリって音が聞こえてきて。猫みたいだな、かわいいなーってちょっと思ってて。でもいつからだったかな――気のせいかなって思ったけど、音がなんか、変わった気がして。聞いたよね、キーホルダー増やしたのって。したらさ、チェーンの先、手にとって。まぁねって答えたじゃん。なんかさ、すっごいうれしそうに」
 ひるむことなどない様子で、きっとこちらを捕らえたまなざしの奥がかすかに揺らぐのを感じる。目を逸らすことなんて出来るはずもないまま息をのむかのような心地で見つめ返すこちらを前に、続けざまに言葉が紡がれる。
「前から思ってたけど、やっぱそうなんだろなって思った。自分家と彼女ん家の鍵なんだろなって。それでそんなうれしそうにしてるとか、ほんとばかみたいって思った。ばかみたいにかわいいじゃん、そんなの。こっちのこと見てくんないのなんてわかってんのに見せつけてんじゃねえよって思った。それでも、せんせがうれしそうにしてるの見るとやっぱ好きだなって思った。名前で呼ぶといっつも怒んじゃん。だろなって思ったけど、一回くらい間違えて返事してくんないかなって思ったのは本気だよ。もしかしてもっと違う呼び方してんのかな、しーちゃんとかそういうのかなって、でもそれやったらなんか本気で怒るだろなって思ったから我慢したんだけど」
 へへ、と強気に笑って見せるその姿を前に、裏腹に、胸の奥がひきつるような感覚を覚える。ごくり、と息を呑むようにしたその後、ゆるやか吐き出す言葉はこうだ。
「……祐希」
「せんせい、」
 差しのばした掌で、ふわりとやわらかな髪をなぞりあげる。大切な相手へとしばしばそうするように。ただ慈しむだけの、静かな思いを溶かしていくかのように。
「先生にしてくれてありがと。新しい学校でもがんばって、な。祐希だったら大丈夫だよ。勉強だってすぐ追いつけるし、友達だって彼氏だってすぐ出来るから。大丈夫だから、ぜったい」
 ――どうせすぐに忘れるから、というずるい言葉を飲み込んだ喉の奥で、ふさがれたかのように息苦しさが募る。
「……ありがとう」
 いままでいちばん頼りない響きで告げられた言葉には、それでも、いちばんの飾りのないまっすぐな思いが込められているかのようで。



「でさ、帰ったら見ていいよ、帰るまで絶対開けちゃだめって言われたんだよね」
 餞別に、と渡された金色のシールとリボンで丁寧にラッピングされた包みを前に、恋人はと言えば、けげんなそぶりを隠せない様子でじろりとこちらをにらみ返す。
「で、なんで俺に見せんの」
「や、浮気じゃないよって証?」
 彼女にも見せてね、と念を押すように言われてはいたし、そりゃまあ。答えながら、ごそごそと封を開け、慎重に中身を取り出す。ころん、と音を立てて姿を表したのはずっしりとした飴色の革製のキーケースだ。
「洒落てんじゃん」
「安くはないよね、これ」
 シンプルだけれど手にしっくりなじむ形と、レザーの風合い。ブランドのタグこそついてはいないけれど、高校生のお小遣いで手にするには決して安くはない確かな品質のものであるのはあからさまで。
「……ばかだな」
 かき消えてしまいそうな頼りない声でぽつりとそう吐き出しながら、鍵を下げる為のフックを指先でそっとなぞる。むき出しでぶら下げたままのふたつの鍵を納める為の、彼女なりに考えた最初で最後の餞別がきっとこれで――そんなところに気を回したりなんかして、なんのつもりだろう。こちらはと言えば、返せるものなんて何ひとつないままこの関係が『終わる』ことに安堵していただけなのに。
「忍、」
 少しだけ、諫めるような。それでいて、こちらをやわらかく包み込んでくれるかのようなおだやかさを滲ませた声を前に、ふっと息を呑むようにして答えを紡ぐ。
「どういうつもりだったんだろね、これ」
「――わかってんだろ、おまえは」
 うんとちいさく頷けば、いつものように、ただ飾りのないぬくもりだけを携えた掌がくしゃり、とやわらかに、洗い晒しの髪をなぞりあげる。

 選び抜かれたキーケースにはきっと、これからも頻繁に行き来する羽目になるはずのふたつの部屋の鍵は綺麗に収まってくれるはずだ。
 鍵を目にするその度、彼女のことをこれからも思い出すのだろうか。そしてそれもいつか、そう遠くない未来には風化してしまうのだろう。新しい街へと舞い降りた彼女がきっと、いつの間にか自分のことなんて綺麗に忘れてしまうのと同じように。

 『先生』にしてくれてありがとう。慕ってくれてありがとう。
 答えられなくても、思い出だけは携えたままこれからもここで生きていくから。新しい場所へと旅立つ君の未来がどうか、希望に満ちあふれていますように。
 『先生』なんだからまぁ、そのくらいは。

「なんていうかま、お疲れ」
「……ん」
 もうひとつの鍵の持ち主を前に、ゆるやかに瞳を細めながらそっと息を吐き出す。指先で触れた真新しいキーケースの金具の感触はひどく冷たい。







周くんと忍は「ほどけない体温」に登場するキャラクターです。
元々家庭教師のアルバイトをしている設定だったのでするっと浮かんだエピソードでした。

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