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調弦、午前三時

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ピアノ弾きと寡黙な友人の話

とあるバーの片隅で知り合った「僕」と彼、彼の大切な友人の話。
第一回手製本交換パーティーに持参した本からの再録です。




拍手


「ねえ、旧い友達の話をしてもいいかな?」
 飴色のカウンターをとんとん、と叩くその仕草と共に彼が語りだしたのは、いつか会えるのかもしれない『誰かの』話だ。


 僕が彼のつま弾くピアノの音色に出会ったのは、行きつけのバーでのことだ。
 これは、無礼は承知の上で言うことではあるけれど――こんな場末の安酒場にはとてもじゃないけれど不釣り合いに感じられる軽やかさと優美さをたたえた演奏は、たちまち僕を捕らえて放してはくれなかった。音楽に無知な僕のたとえ話がどこまで正確かはわからないけれど、眠りに就くほんの少し前に聞きたいそんなララバイのように、音符の上を飛び回る蝶のように、時には寂しげにすすり泣く声のように―楽曲ごとに軽やかに姿形を変え、めくるめく色鮮やかな景色を繰り広げていくその演奏に僕はたちまちに魅了されていた。
 楽器の単体の奏でる音が、ただの空気を震わせた軌跡を遙かに越えて、心ごとここではないどこかへ誘うだなんて、そんな体験があることを僕はその時、はじめて知った。
いつしか、彼の奏でる音色に耳を傾けることを、そこで酌み交わす杯よりも何よりも心待ちにするようになったその頃―僕は、彼がいつも欠かさない、奇妙な風習に気づいたのだ。
 几帳面なたちに見える彼は、いつも演奏を一通り終えると、トレードマークのビロードの山高帽を手に取り、長身の体躯を折り曲げるように丁寧なおじぎをする。その時いつも、ぐるりと四方八方を見渡すようにあたりを見回しては、誰も居ない壁に向かって丁寧なお辞儀をして、どこかまぶしげに瞳を細めて見せるのだ。
 まるでそこに、ずっと昔からの旧い馴染みの友達か誰かの姿を見つけたかのように。
 やはり芸術家には常人に見えない何かが見えているのだろうか。いつもどこか寂しげに見える彼のまなざしにやわらかなぬくもりを落としていくかのような、何かが――嫉妬にも似た感情が胸をくすぶらせていくのを感じながら、僕はただ、彼の少しだけ尖った靴のつま先が木の床をそっと蹴るその姿を目を凝らすようにじっと眺める。

「ねえ、君」
 何度目かの夜、カウンターの隅に腰を下ろす彼を前に、どこかうわずった気持ちを抑えきれないままに傍らで僕は尋ねる。
「ああ――」
 こちから会話を切り出すよりも前に、ゆるやかな会釈と共に、言葉が紡がれる。
「よく聞きにきてくれているよね?」
 その通りではあるのだけれど――どこか気まずい心地を隠せないままでいれば、促すような目配せがこちらへと送られる。
「一杯くらい奢らせてもらっても構わない? 君の演奏の価値には到底適わないとは思うけれど」
「光栄だよ」
 どこか照れたように答えるその声に合わせて、微かに震わされた喉のあたりをじっと眺める。
「この街には、いつくらいから?」
「一ヶ月と少し前かな? 残れるのもたぶん、そのくらいになる予定だけれど」
 突如あっけなく告げられる別れの予兆を前に、いっそ分かりやす過ぎるほどにこちらの表情は曇る。
「――旅をしてるんだよ。元々、同じ場所に留まっているのが平気な質じゃあないみたいでね。父親がそうだったから、生きること自体がそうだと思っているのかもしれない」
「あなたの父も、ピアノを?」
「アルトサックス吹きだよ」
 薄い唇をゆがめるように、にやりと笑いかけながら彼は答える。
「音楽家とか芸術家とか、それも、ひとつの場所に留まって根を張って生きることも出来ないような生き方は絶対選ぶなって念を押されていてね」
「内心ではなってほしいからそう言ったんじゃないの?」
「……大いにあり得る」
 くすくすと喉の奥を転がせたような笑い方は、鈴を転がしたように軽やかだ。
「ねえ、聞いてみたいことがあったんだけれど」
 飴色のスツールの上を、つつ、と指先を滑らせながら僕は尋ねる。
「君が演奏を終えたあと―いつも、あたり一面を丁寧にぐるりと見渡してから、誰も居ない壁際に向けてお辞儀をしているよね?」
 指摘したその途端、どこかばつが悪そうに、ウールのジャケットを羽織った肩が微かに震わされる。
「そんなにおかしかった?」
「そんなこと」
 ぶんぶん、と首を横に振り、僕は答える。
「素敵なことだと思ったんだよ。君にしか見えていない客人が居るのなら、どんな人なのか教えてほしいなって」
 どこか躊躇うように、帽子のつばをぎゅっと指で押さえつけながら告げられる言葉はこうだ。
「――僕にも見えたことがないって、そう言ったら?」
「え」
 戸惑いを隠せないままのこちらを前に、うっとりと瞳を細めるようにしながら彼は答える。
「少しだけ、昔話をしてもいいかな。うんと旧い、僕の友達の話なんだけれど」
 微かに濡れた瞳を揺らし、どこか遠い場所を夢見るかのような儚げな語り口でつま弾かれる彼のいつか通り過ぎていった時間が紡ぐ物語は、こうだ。
「小学生の頃のことだよ。その当時から演奏旅行であちこちの町を転々としていた父に着いては出会いと別れを繰り返していた僕は、その当時に居た片田舎の町の小学校では、どうにも自分の居場所を見つけられないままだった。言葉遣いや立ち居振る舞いがすかしてるだの、男のくせにピアノなんて軟弱だ、だの―何かにつけては嫌みばかり言われては肩身の狭い思いをしていたけれど、そんなこと父親に言えるわけもなくて。僕の安らげる唯一の場所は、手入れの行き届いたグランドピアノのある音楽室だった。休み時間の大半を僕は、そこで過ごした。学校の建物の外観も教室の光景も廊下も階段も――ちっとも思い出せやしないのに、少し草臥れた机と椅子に歓声を送ってくれる満員の観客が押し寄せるところを想像した時のことも、日に焼けて色褪せた肖像画一枚一枚も、少し埃っぽくて日向の匂いがした分厚いビロードに金のブレードのついたカーテンのことも……なにもかも、ありのまま瞼の裏に思い出せるくらいに」
 行き場のない孤独を癒すかのように、どこにも居ない観客に向けてピアノを奏でるそんな日々に登場した、ひとりめの観客―それが『彼』だったのだと、目の前の男は、囁くような優しい口ぶりで続ける。
「ねえ君、いつもピアノを弾いてるよねって? 隣の自習室で、いつも楽しみにしてたんだよって。まさか観客が居るだなんて思いもしなかった僕は、拍手と共に現れた彼の姿を目にした瞬間、見る見るうちに耳まで熱くなるのを感じた。まぁ、肝心の彼にはうろたえている僕の無様な様子が見えていなかったのがまだしもの救いなんだけれど」
「……どういう意味?」
 微かに首を傾げるこちらを前に、グラスの中の液体にもどこかよく似た、微かに濡れた琥珀の瞳を揺らすようにしながら、彼は答える。
「彼の瞳は僕と出会う数年前から、光を喪っていた」
 カラリ。溶け落ちる氷の音を響かせるグラスをくるりと指先で弄ぶようにしながら、紡がれる言葉はこうだ。
「見えないのは確かに不便だけれど、悪いことばかりでもないんだよ。だって、目の前に広がる光景に囚われないで済むってことじゃない?」
 囁くようなその口ぶりは、舞台役者のように滑らかでどこか優美だ。
「心の瞳だけをこらしていれば済むんだよ、それって神様からの贈り物みたいでしょって。うんと得意げに笑いながら彼は答えるんだ。後から聞いたことではあるけれど、彼もまた、自らに背負わされた境遇をかさに、よからぬからかいの標的になっていたらしいんだ。それでも、持ち前の明るさと前向きさでひとかけらも堪えたところなんて見せたことなんてなかった。はみ出しもの同士で馬があったのか、彼はいつしか、僕に出来たいちばん最初の親友になった」
 ビロードの帽子に燦然と輝くカラフルな羽飾りを、弄ぶように指先でそっとなぞる、照れ隠しか何かのように見えるそんな仕草と共に、彼は続ける。
「ある日彼に言われたんだよ。君がピアノを聞きに来ている観客が僕以外にも居るんだよって。そんなこと言われたって、僕の瞳には彼以外は見えない、彼にだって、音楽室の様子は見えていないはずなのに。なんのことなんだか、いぶかしげに首を傾げる僕を前に、彼は続けるんだ」
「僕がひとたびピアノを奏でだすと、いつも決まって、彼の世界にはふたりの観客が現れる。ひとりは中肉中背でぱりっとしたスーツにアッシュブラウンの少しくせのある巻き毛、シルクハットをかぶってステッキを持った年の頃は三十代半ばに見える紳士、もうひとりは、金髪のボブカットに羽飾りのついた帽子、体にぴったり沿ったラインを描くドレス姿でハイヒールを履いた、連れの男と同世代に見える女優みたいな優美な姿の淑女だっていうんだ。彼らはいつしか音もなくその場に現れては彼から少し離れた席に座って、じっと集中した様子で僕のピアノの音色に耳を傾けて、時折涙ぐんでいる男に、連れの女がハンドバッグから取り出したレースの縁飾りのついたハンカチを差し出してやることもよくあるそうだよ。一曲終わるごとに息を呑むようにしながら盛大な拍手をして、曲の合間にはなにやらひそひそおしゃべりをしていることもあるけれど、ひとたび演奏が始まればぐっと集中して、うっとりした様子で耳を傾ける。時折瞳があった時にはしっと口元に指を当てながら会釈をしてくれることはあるけれど、彼のほうを目にすることはほとんどない。ひとたびピアノの蓋を閉めてその日の演奏を終えれば、いつの間にか彼らもまた、ひっそりと姿を消している――」
「イマジナリーフレンド?」
「少しニュアンスが違う気がするんだけれど、そんなところかな」
 にこり、と口元を微かに緩ませたようなほほえみを浮かべながら、彼は答える。
「きょうは端の方に座っていたよ。きょうは喧嘩でもしていたのか、少し気まずそうにしていたけれど帰る時には笑顔になっていたよ、今日は靴を新調したらしく、ぴかぴかの上等な革靴でステップを踏みならしながら登場したよ―ほんとうに見えていたのか、僕を楽しませるつもりのリップサービスだったのかは定かではないし、それでも構わなかった。三人の観客をどう楽しませるのか……僕の演奏家としてのはじまりがあの音楽室だったと、いまでもそう思っている」
「――その後、彼とは?」
 不躾を承知にそう尋ねれば、過ぎ去った時間を懐かしむかのように、うっそりとたおやかに瞳を細めながら返される言葉はこうだ。
「次の町に移り住んだその後、一度か二度、葉書のやりとりをしたよ」
 居るはずもない誰かの姿を追い求めるかのように――いつも見せる、どこか寂しげで、それで居てうんと穏やかな色を宿したまなざしでぐるりと周囲を見渡すようにした後、彼は答える。
「それから数十年の時が経ち、僕はあの頃の父親と同じように方々を旅しては音を届けるようになった。それ以来いつも、いちばんはじめに僕の観客になってくれた三人の姿を探すくせが止められないままなんだ。ほら、ひとりは実体を持っているから簡単に見つけられるけれど、残りの二人を僕は目にしたことがないからね。もしいまも演奏を聞きに来てくれているのに無視しているだなんてことになったら失礼だろう? だから、四方八方をひとしきりぐるりと見渡してお辞儀をするようにしてるんだ。もちろん、演奏仲間にはそんな話、笑われるだけだろうからいちいち話したことはないけれどね。『神様にお礼を言っているんだよ』なんて言っては見たけれど、首を傾げられたままだったね」
 くすくすと肩を揺らして笑うその姿に、どこかいつかの音楽室でたった三人の観客のためだけにピアノを弾いていたという幼い演奏家の影が滲んで揺らいで見えることに僕は気づく。
「……どうして僕には、ほんとうのことを?」
「さぁ、どうしてだろう?」
 琥珀色の瞳を微かに滲ませ、くすくすと声を立てずに笑いながら彼は答える。
「もしかすれば、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれないね。だって、ひとりで抱えてる過去なんて夢や幻とおなじでしょ? 共有する相手がひとりでも出来れば、宝箱の奥底にしまい込んでいたそんな儚い幻に輪郭をもたらすことが出来るような気がするよね」
「……光栄だよ」
 うつむいたまま、少しだけ熱くなった喉を潤すようにクラッシュアイスをそっと口に含み、瞳を合わせないようにと、上着の袖口から微かに覗いた少し骨ばって痩せた手首のあたりをちらちらと盗み見る。
「それでね君、少しだけ思い出したことがあったんだ。良ければ、これも何かの縁だと思って聞き流してほしいんだけれど――」
 淡いあたたかさを溶かしたような声に導かれるままに視線をふいにあげた、その瞬間のことだ。

 あ。
 思わずちいさくそう声をあげそうになった瞬間、女は艶やかな紅い紅をさした口元にそうっと一差し指を当てて、いたずらめいたほほえみをこちらへと傾けて見せる。その傍らには、彼女をエスコートするように寄り添いながら、そっと会釈を送ってくれる紳士が居る。

 中肉中背の背格好に上等そうなスーツ姿、シルクハットからこぼれる癖毛のアッシュブラウンの髪、手入れの行き届いたことの伝わる少しくすんだ金の持ち手に革張りのステッキ。傍らの女はと言えば、うんと高いハイヒールのおかげなのか、エスコート役の紳士よりも少し背が高い。
 暗がりでも艶めく光を放つ豊かなブロンドのボブカットにレース飾りとぴかぴかと光るブローチのついたトークンハット、滑らかな肢体を包み込む黒のドレス姿はそのままどこかの映画から抜け出した女優のような気品に満ちあふれている。
 そう、まるで、彼の話に出てきた「彼ら」そのままのような――
「どうしたの?」
「……いや」
 目をこらそうとしたその瞬間、視界の端にほんの僅か一瞬だけ現れたその姿はたちまちに立ち消えてしまっている。
「ねえ、それよりも君の話を聞かせてよ」
 興味深げに尋ねるこちらを前に、肩を竦めるようにしながら返される言葉はこうだ。
「すまないね、なんだか。どうしてだろう、君とこうしてると、心の奥がほどかれていくみたいだ」
「かいかぶりすぎじゃないかな? 僕はただの君の一ファンだよ?」
「演奏家が成り立つのなんて、聴衆が居てくれるからだよ。誰も耳を傾けてくれないのなら、どんな音色だってただの雑音に過ぎない」
 彼の奏でる唯一無二の芸術としか言えない音色はずっと昔、三人の聴衆に届けるために羽ばたきだした道のその先で、いまもこうして輝いているのは確かなことで。

「ピアノなんて止めてしまおうって、そう思ったことだってほんとうのことを言えば何度だってあるよ。でも、そのたびに踏みとどまったのは彼らが居たからだ。止めてしまえば、彼らはどこで生きればいいんだろう? 彼の、それに僕にとっても大切な友達を裏切ったりなんてすれば、きっと一生後悔するだろうって」
「彼らが居なければ、僕がこうしてあなたのピアノに出会える可能性もなかったのかもしれないってこと?」
「……そうかも」
 グラスに隠された口元は見えないけれど、きっとやわらかに心を砕かせたかのような笑みを浮かべてくれているのであろうことが、少し細められた穏やかなまなざしが如実に伝えてくれる。
 秘密の宝物を差し出すかのようなそんなたおやかさは、僕の瞳の奥をなぜだか、微かにつんと熱く火照らせるのだ。
 ねえ君たち、どうして隠れてしまったの? 彼はいまでも、君たちの姿をこんなにも探しているんだよ。どうして僕の前にだけ、いたずらみたいに姿を現したんだい?
 独り言めいたそんなささやきを暗がりの闇にゆるやかに溶かしていけば、答える代わりのように、革靴とステッキ、ハイヒールのかかとが踏みならす小刻みなリズムがそうっと返される。(――ような、気がする)
 ほんの一瞬だけ瞼を閉じ、すっと息を呑むようにする。
 その瞬間、まなうらに写るのは、目にしたこともないはずの大人になった『彼』と、彼が見つけてくれたという観客ふたり、そこに並ぶ僕と――そして、そのたった四人のファンの為だけに、鍵盤の上を軽やかに舞い踊るようなやさしい音色を奏でる彼の姿だ。

「もし彼らに会えたとしたら、なにを話すの?」
「決まってるよ、そんなの」
 にっこりと得意げに笑いながら、彼は答える。
「ねえ、ずいぶん上手くなったでしょ? 君たちにとびっきりの演奏を聞いてもらう為に、きょうまで精進してきたんだからねって」
 微かに滲んだまなざしのその奥には、いつかの孤独な少年の面影がゆらりと音もなく揺れる。
「――次の町では」
 ちいさく息を吐き、僕は答える。
「次の町では、会えるといいのにね」
 答えるその代わりのように、彼はただ黙ったまま、ゆっくりと瞳を細める。どこか遠い場所をまなざしながら口元をやわらかに持ち上げたその笑顔はいつも演奏を終えたその後、解き放たれたかのような様子でやわらかにつむがれるそれと何一つ変わりない、同じあたたかさを潜めているのだった。

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