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調弦、午前三時

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光を集める

このところはあまり無いけれど、夢の中で一冊の本の中の文章がすらすらと流れていくという感覚を味わうことが時折あった。
パソコンや端末に向かって打ち込んでいるわけではなく、活字の本を眺めている感覚とでも言えばよいのだろうか。言葉の羅列が活字となって、目の前で刻まれていくのだ。
当然目を覚ました時には夢の中で書いた文章は跡形なく消えてしまい、その都度残念な気持ちだけが残る。

小説を書く時に映像で浮かぶか文章で浮かぶのか、それともとりとめもないイメージを掘り出すようにして「小説」になるように組み上げていくのかという話題を時折見ることがある。
わたしの場合はといえば、ひとかたまりの文章がふわふわと浮かぶのを自分の中に根を下ろして、引き寄せながら小説へと落とし込んでいく、という感覚が一番近いと思う。
少なくとも映像は見えないので、どうすれば映像的な視点と奥行きを持たせられるのかを演出する方法を手探りで探しているところだ。

「ジェミニとほうき星」「ほどけない体温」をほぼ一ヶ月で書き終えた時(どちらも10万字近くある)は、文字通り「何かに取り憑かれた」という感覚が強かった。
頭の中に文章イメージが雪崩のように流れ込み、「わたし」を侵食するため、本も読めなければ音楽も聴く気にならない。
ずっと愛聴していたPodcastも、録画して毎週楽しみに見ていたバラエテイ番組も「疲れるから」という理由でパタリと見るのをやめた。(これはいまも続いている)
追い立てられるように夢中で書き、彼らを一冊分の物語を通してたどり着ける場所へと導くことに必死だった。
頭の中に浮かぶものと、自分が形にできるスピードのタイムラグがひどくもどかしかった。
「わたし」を生きながら「彼ら」の人生を並行世界で共に生き、悩み、もがき、一喜一憂し、恋をしていた。
物語になり得ない日々を生きるわたしには、それは確かな希望だった。
一冊分の時間をかけて彼らが新たなスタートラインに立つまでを書き終えた後も、ずっと彼らのことを考えている。
とにかく小説が上手くなりたい、書きたいものがもっとちゃんと書けるようになりたい、変わりたいと思っていた。
そんな時、起爆剤のように物語を導いてくれる彼らに出会った。(「見つけた」という方が正しいのかもしれない)
なりたい自分になれた、とはきっとまだいえないけれど、少しだけそこには近づけたのでは、と思っている。



好きな物語、引き込まれる文章
自分の書きたい文章
書ける文章

は当然違っている。
好きな、書きたい文章から受け取る印象は、一言でいえば「きらめき」だと思う。
水や光のように、空気を震わせる音のように。やわらかく膨らんで、染み渡って、広がって。波紋を落としていくように、感情に様々な色を描いてくれる言葉が好きだ。

言葉はいつも、夢の中で見た本のようにふわふわとわたしの周囲を漂っている。
手を伸ばした途端にすり抜けて、形を変えてしまう。
いまこうして書いている文章もみな、頭の中から通り過ぎて、打ち込もうとすればするほどどんどん形が消えて違う何かになっていく。
滲んで膨らんできらめく断片は果たしてどこにあり、どこに行くのだろう。
それはわたしの外の、わたしではない憧れる人たちにしか成し得ないことなのだろうか。
近づきたい、と思うことは無駄ではないと思いたい。

言葉は祈りによく似ている。
目に触れること、届くことを願って形にした言葉は、気持ちを包んでくれる。
そこにあってもいい、目を逸らさなくてもいい、とわたしからわたしに伝えてくれる。
形にしなければこぼれ落ちて消えてしまうそれを残す時、そこに見つめているのはきっと希望なのだと思う。
わたしが見つけた気持ちは確かにここにある。それはいましか残せない。わたしの気持ちはあって構わない。

切り捨てることが出来なかった感情を拾い集めて残して行けたらと思う。
それが光になってわたしを、誰かを照らしてくれることを願わずにいられないから。

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