「ほどけない体温」のふたり。
行く春を惜しむ。
春の雨は、短くてやわらかい。
ぱらぱら、とビーズの叩き付けるような鋭さをはらんだ、冷たくくすんだ灰色の冬の雨とは違って、芽吹き始めたばかりの緑の木々や花々を、それらを抱いた土へとしみこみ、受け止めてくれるように穏やかに染み渡る雫の気配はじわじわと肌身に染み、鼓膜をやさしく震わせてくれる。
たしかきのうの晩にも、幾重にも広がるこの波紋を耳にしたまま「おやすみ」を言い合ったはずだ。それならまだ、あれからほんのわずかな時間しか経っていないのだろうか。
どこか損をしたような心地に襲われながら薄暗がりの中で身をよじらせ、壁時計で時刻を確認する。
午前八時過ぎ。なあんだ、休日にしては早起きなほうだ。
昨晩からの長雨のせいで光の届かない部屋は、耳をやわらかに揺さぶる雨音も相まって、時の流れに取り残されたように静かだ。
「あまね」
ざらついてかすれた声で、それでもうんとささやかに名前を呼ぶ。うすい瞼がふるふると揺れて、うっすら赤く色づいたそのさまが花びらによく似ていることにいまさら気づく。
眠ってくれている。こんなにもすぐそばで。そんな些細なことが、忍にはうれしい。
すっかり慣れた様子で上掛けをそうっとめくって、片側のベッドへともぐりこむ。あんなに隙間なくぎゅうぎゅう抱き合った記憶がいまだ色鮮やかなのに、さらさらとした布地越しにかすかに触れ合うもどかしいこんな感触に、いまさらみたいにどきどきする。
無防備に投げ出された掌に自らのそれを重ね合わせるようにしながらぬるい息をゆるゆると吐き出せば、かすかな身じろぎとともにうすい瞼はぱちりと開き、そうっとやわらかにこちらを捕らえてくれる。
「……おはよう」
ふちが半分とろけたみたいな掠れた声が耳をくすぐる。雨だれの輪唱と溶け合った、少しだけ濡れた響きが心地よい。
「おはよう、周」
くしゃくしゃの髪をかき回しながら、しばしばそうするみたいに身を寄せてぎゅうぎゅうしがみつく。
「雨だよ、きょう」
「みたいだな」
まだすこしおぼつかない指先が梳くようにそっと髪に触れる。やさしいその感触に瞳を細めたまま、手慣れた手つきでパジャマのボタンを外して、露わになった素肌に触れる。
雨の日の素肌は心なしか湿り気を帯びて温かで、吸いつくように滑らかだ。
「なにしてんの」
「朝這い?」
掌を滑らせるだけに飽きたらず、唇をやわらかに素肌へと寄せる。やわらかな肌の上にはかすかなしるしが残されていて、花びらを散らしたみたいにも見える。
「ごめんね、赤くなっちゃった」
「いいよ、見せるわけじゃないし」
自分しか知らない覆い隠したあかしにこみあげるいとおしさをこらえきれないまま、指先でそうっとなぞりあげる。
「ね、どうするきょう?」
「いいけど別に、どっか行きたいとことかあった?」
「んー、」
思案に明け暮れる、ふりをしながらちゅ、と音を立てて顎にキスを落とす。
「ご飯食べてから考えていい? おなか空いた」
「二言目にはそれだよな」
「だってそうじゃん、周は?」
「支度してやるから。その間ちゃんと磨けよ、歯」
すり、と抱きついたまま布地越しにさわさわと身を寄せながら、促すようにくしゃくしゃと、やわらかに髪をかき回してくれる指先の感触に瞳を細めて酔いしれる。
どうせ雨ならいっそこのまま日がないちにちこうしていようだなんて言い出してくれるのを待っているのだけれど、さすがにそれは言わない。怒られる気がするから。(そんな態度もかわいいけれど)
「春の長雨、だっけ」
窓ガラスをつたって滑り落ちていく雨粒でふちをにじませた外の世界をぼんやりと眺めたまま、恋人はつぶやく。
「どうする、せっかくだし散る前に見納めとく? 桜」
「だねえ」
答えながら、残り物のきんぴらごぼうを挟んだ塩バターパンにかじりつき、コーヒーを流し込む。
「どっかいいとこあったかな。裏の公園とか?」
「緑地公園あんじゃん、川縁のとこ。そのついでにどっか行こっか、歩いてすぐ駅だし」
「だったら美術館は? ほら、こないだポスター貼ってたやつ」
「ああ、じゃあそうする?」
「ん」
にいっと笑いながら、寝癖の残った姿のまま屈託なく笑いかけてくれる恋人の笑顔をぼんやりと眺める。
いつのまにかこんなにもあたりまえになっている。そのことをすこしも怖がらないでいてくれる。新しい季節が過ぎていくたびに、こんな気持ちは高まるばかりだ。
特別好きでも嫌いでもなかった雨の日も、傘のぶんだけ距離を隔てて、わずかに湿り気を帯びた声や、ふちのにじんで見える横顔をぼうっと眺めたまま並んで歩くことは好きになった。
否応なしに片手がふさがっていれば、そのぶんだけ手持ち無沙汰な掌を持て余したもどかしさが減るだなんてことはあるけれど。
「やっぱ増してんねえ、勢い」
「だなあ、」
渦を巻くようにして勢いよく流れる水音と、地面をやわらかに湿らせる雨の音色が鼓膜の奥でやわらかな二重奏を奏であうのを耳にしながら、ぽつりぽつりとささやき声を交わしあう。
断続的に降ったりやんだり。さほど激しくはなくともぱらぱら、と滴を落として大地を潤す恵みの雨は、結果的にやっと綻びはじめたばかりの花々をあっけなく散らしてしまう。
しっとりと濡れた花々や、その隙間から芽吹き始めたやわらかな緑の新芽は豊かな恵みを喜んでいるように見える一方で、アスファルトに叩きつけられ、水かさを増した川の流れにみるみるうちに吸い込まれていく花々の姿を無惨に想ってしまうのはただの身勝手な人間の都合に過ぎないのだろうけれど。
「花散らしの雨ってよく言うじゃん、この時期。でもさ、あれって元々違う意味だったらしくて」
「なに」
ぽたりぽたりとやわらかに流れ落ちる滴はいつのまにか、はらりと落ちた花びらを傘へとはりつける。ビニール越しのうすくけぶった世界を彩る薄紅の色彩は、そこだけ水彩絵の具を一滴垂らしたみたいにあざやかだ。
くぐもった薄い灰色に点る灯りを見上げたまま、忍は答える。
「江戸時代のね、花見ついでの乱交パーティー」
「……ほんとかよ」
「うそついてどうすんの。調べたらわかるよ?」
半信半疑の様子でこちらをちらちらと伺う顔を横目に、得意げにうっすらと笑ってみせる。
「みんなで花見でわいわい騒いで、その翌日に集まってやる仕切り直しの宴会のことなんだって。翌日があるってことはその晩はそのまま帰って出直したなんてわけないでしょ、お察しくださいってことらしいよ。でもさ、みんなそゆの知らないで風流な言葉だと思って使ってるわけじゃん」
「……どう言えばいいわけ、だったら」
くぐもった声が投げかける問いかけに、投げ返す言葉はこうだ。
「桜流し」
「なんかきれいだけど、ちょっとぞっとする」
「……わかるよ」
答えながら、避けきれない滴に濡れてわずかに湿った上着の袖を遠慮がちに引っ張る。
見上げた先では、たっぷりと雫をしたたらせ、重みに耐えきれずにはらはらと落ちる花びらが、行く春をかけらも惜しむ様子など見せずにしきりに舞い降りては、水の流れに飲まれていく。
「見時がほんのちょっとしかないからとかなんとかやたら煽るけどさ、そもそも人間の都合のために咲いてるわけじゃないのにね」
咲いた先からこぼれてかき消えて、せかすような、あざ笑うような早さで「花の盛り」はめくるめるうちに通り過ぎてしまう。
吹きすさぶ風や雨の勢いにのまれるまま、あっというまに花を散らしては水の流れに運ばれてしまうその姿に勝手な感傷を押しつけてしまうのなんてきっと、身勝手な傲慢にすぎないのに。
「"きれい"と"怖い"ってなんで似てんだろ、時々」
口をついて出た言葉は、全くもって聞かせる意図なんてありもしない気弱なひとりごとに過ぎなかった。それなのになぜこんなにも色鮮やかな輪郭を保っているのかと思うと、心底おかしいのだけれど。
「わかるよ」
鼓膜を震わせてくれるささやき声は、しっとりと水気を帯びている。
降りしきる雨は一定のリズムをたたえたまま世界を静かに濡らしていく。やわらかに緑を潤わせ、ふかふかとやわらかな大地に染み込んでいく恵みの水は、傘で覆い隠しきれない腕や足下をじわじわと濡らし、身体を芯からじわりと冷やしていく。
「つめたいね」
「ん、」
ぱらぱら、と傘の上を雨粒が滑り落ちていく。ふっくらまるいビーズの玉がはじけるようなその姿は、はかないのにどこかやさしい。
「コーヒー飲みにいこうよ。雨だしさ、案外空いてるかもしんないよ」
「だな」
短い相づちを打ってくれる横顔を見上げたまま、すこしだけ濡れた袖をぎゅっと、子どもみたいに握りしめる。
寄せ合った冷えた身体の奥には、それでもかすかにくすぶった熱が潜められている。
かすかな土と花の香り。やわらかな雨の響き。くぐもってしたたるようなささやき声。
気持ちの奥底にあるものを確かめ合うのが怖くて、不協和音のようにぶつかり合うことしか出来ないと思っていた、そんな時だってあったはずなのにーーこんなにも、何にも縋らないままただ隣り合って共にいられるようになっていたことがただ不思議だった。
鼓膜をやわらかにくすぐるように響くのは、高く澄んだ鳥のさえずりだった。
ああ、晴れたのか。それだけですぐにわかる。そういえば、心なしかまぶた越しに感じる光はきのうよりもうんとやわらかで明るい。たゆたう波底の気配はどこへやら、春の息吹はいつのまにか息を吹き返したらしい。
もぞり、と身じろぎをしたまま手探りで腕をのばせば、よく見知った感触がうんとやさしく指先を握り返してくれる。
ぱち、と重くふさがったままだったまぶたを押し開くと、かわたらのベッドではいつものように、どこか困ったような表情をしてじいっとこちらを伺いみる、くしゃくしゃの寝癖のついたままの顔。
「おはよ、」
とろけかけた半生の声に答えるかわりに、すり、と身を寄せてパジャマの布地越しの肩に顔をうずめる。
「あまね、おはよ。起きてたの?」
「……さっきだけど」
間が悪そうにつぶやく掠れた声が、鼓膜をさわりとゆさぶる。いつもよりもすこしあたたまった指先でくしゃりと髪をかき回して耳を触られると、もうすっかり慣れているはずなのにそれでもやっぱり、胸の打ち鳴らす音はぐんと早くなる。
「……あめ」
「どした」
「ずっと降ってて。あがんなくて。窓の外みんな水で、水槽みたいになってて。そんで、花びらが水面で揺れてて。出れないねって周と言ってた、夢で」
ささやき声を肌の上へと落としながら、まだ落ちかけたまぶたをパジャマの布地へと押しつけるようにして、ぱちぱちと重いまばたきをする。
「夢でよかったな」
もうすこしも滴をしたたらせてなんていない、それでもふちが淡くにじんで溶けた声でささやかれるのを耳にすると、なぜだかそれだけで、胸のうちがあわく軋む。
夢のままでもよかっただなんてことは、やっぱり言わない。(たぶんわかってくれるから、言葉にしなくたってきっと)
窓を開け放つと、洗い流された涼やかな空気とかすかな新緑の匂いが鼻先をくすぐるのを感じた。
やわらかな繭のようにあたり一帯を覆い尽くした静けさはすっかり過ぎ去って、光のかけら一粒一粒がやわらかに降り注ぐようだ。
「落ちちゃったろうね、桜」
「見に行く? 様子」
「どうしよっかなあ」
ぼんやりと答えながら、遠出のおみやげがてらにと手にしたバゲットのすこし固い耳にかじりつく。
ゆっくりと噛みしめるように歯をたてるそのうちに、いまだ波底でたゆたっていた意識がゆらりと引き上げられていくかのような錯覚を味わう。
「きのうさ、傘。あれから広げたんだけど、やっぱついてて、花びら」
つかの間だけ目を楽しませてくれた花たちの、儚く果てていく残骸。
「帰れないんだなって思ったんだよね。なんか、変だなって思うかもしんないけど。捨てよっかなって思ったけどそれもできなくて。そのまんまにしてたんだけどさっき見たら、どっか行ってて」
「そっか、」
ぽつりぽつりと答えながら、コーヒーカップのふちへと添えられた指先を、きっちりと四角く切られた爪を、ぼうっと眺める。
「……やっぱ行く? きのうの」
どこか気遣うようにかけられた言葉をまえに、やわらかに息を潜めるようにしたまま、忍は答える。
「ちょっと遠回りだよ、買い出しあったでしょ」
「やならいいけど、」
「やじゃないよ、いいよ」
花を落とした木々の下では、たっぷりと花びらを沈ませて桃色に濡れた水の流れゆくさまが見られるだろう。
滴り、流れ落ちながら新しい季節へと押し流されていくその光景はどこかぞっとするようにも無情に見えて、あまり好きにはなれなかったけれど。それでも。
「周とならいいよ、みたいよ」
本心から答えれば、いつくしみだけを溶かしたかのようなあわい笑顔が返される。
流れ、過ぎ去るものはいつもすこし怖い。自分だけが置き去りにされて取り残されてしまいそうだから。こんなにも淡く揺らいでむせかえる春の気配に包まれて感じるものなら余計に。
それでももう、恐れなくたっていい。淡くゆらいだ指先を、鼓動のありかを――こんなにも確かにつなぎ止めて確かめてくれる相手が、すぐそばにいてくれるのを知っているから。
あわい光が、胸のうちで花びらのようにはらりと落ちる。
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