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調弦、午前三時

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桜降る日に

ジェミニとほうき星、マーティンと祈吏の迎える春。
季刊ヘキ8号にお邪魔させていただいた作品からの再録です。



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 春が訪れるその都度、地球四分の一周分の距離を隔てた国に住む妹からはもう何年もずっと、満開の桜の花の写真が送られてくる。

 ――『すこし遠くの公園まで行ったからその時に撮ったの。って言っても、あんまり代わり映えはしないかもしれないけれど、見てほしくて』
 ――『たまたま通ったマンションの前なの。あんまりきれいだったからつい。家に帰り着くたびに見守ってもらえるなんてちょっといいなって』
 なにげない言葉とともにつづられる日々の断片を、淡く彩るように――。
 はかなく揺れる薄桃色の花々は、ささやかな日常をあわく照らし出すように、やわらかなその姿をこちらへと伝えてくれる、
 ――『ようやく満開になったと思ったら通り雨で。このままじゃお花見にも行けないまま散っちゃいそう』
 落胆を隠せない様子の口ぶりとともに送られてきたのは、雨に濡れた薄桃色のはなびらと、がっくりした様子のうさぎのスタンプだ。
 ――『気持ちはわかるけど、そういうはかなさもいいんじゃないの。日本だとそういうの、「もののあはれ」って言うんでしょ』
 ――『むずかしい言葉知ってるのね。教科書でしかみたことない気がする』
 ――『外国人にそんなこと言われたって、って?』
 ――『素敵だなって思っただけ』
 はなびらのようにやわらかに落ちていく言葉を目にしながら、画面に映し出されただけの文字を思わずそうっと指先でなぞる。
 たまには顔がみたいな、やっぱり。恋人には――うしろめたいことなんてひとつもないのだから、話したって構わないけれど。

 ――『ねえ、カイは最近はどうしてるの?』
 ――『わたしに聞かなくたっていいでしょ。こないだだってスカイプで話してたじゃない』
 いじけたような口ぶりで紡がれる言葉に、くすくすと笑い声をあげるようにしながら僕はその先へと続く返事を送る。
 ――『君の瞳からみた姿がどうなのか聞かせてほしいっていうのは、そんなにいけないこと?』
 ――『しょうがないなぁ』

 九時間前の世界からタイムラグとともに届けられる言葉に、もう何度目かわからないゆるやかな吐息を吐き出す。
 そう、この感覚を知っている。「お姉ちゃん」でいる時の彼女のそれだ。



 ひとつ年下のこの女の子は、日本に居るパートナーの双子の姉であるのと同時に、彼の初めての恋の相手だった。
「要するに恋敵ってこと?」
「もうとっくの昔に休戦協定は結んでいるけれどね」
「複雑な関係なのね」
 ぎこちなくしかめられた表情とともに告げられる遠慮のない言葉をふわりとかすかな笑顔でかわすようにしながら、僕は答える。
「当事者同士の間では意外にシンプルだよ」
 これからは家族になろうと、そう言ってくれたのだって彼女の方からだ。にわかには信じがたい話だと思われるのも承知の上で。
「まぁこんな感じかな」
 机の上で広げて見せた端末の中では、スタンプの飛び交うささいな日常のやりとりが続く。
「それで、どのくらい続いてるの?」
「これで三度目の春になるのかな」
 ゆっくり話をしてみたい、と持ちかけてくれた提案に乗るような形で、パートナーである彼を通じてスカイプの通話を繋いでもらったあの日のことは、いまでもはっきりと覚えている。
「ほんとうはすごく不安だったよ。きっと向こうもそうだったとは思うけれど――あたりまえだよね、身勝手に傷つけた相手なんだから。ちゃんと話せたらって思ってたのは確かだけど、望みどおりの答えが返してあげられる自信なんて、あるわけもなくって」
 ちりちりと揺れる画面の向こう、やわらかそうな長い髪をゆらしながらこちらを見つめてくれる、どこか物憂げなまなざしにたちまちにするりと心をとらわれたあの瞬間のことを、僕はきっと、ずっと忘れないだろう。
「写真では見たことがあったけれど、それだってずっと前の話で――あたりまえだけれど、画面の向こうにはうんと大人っぽくなって綺麗になった女の子がいて。正直、どうしようかって思ったよ。この子は彼の隣にずっといて、彼を形作っている半分以上のものを持っている相手で――敵うわけなんてないのに、何を得意になってたんだろうって思った。これから何を話せばいいんだろうって」
 取り繕うような笑顔を張り付けたままぎこちなく発した「こんにちは」のひとこと。それが第一声だったことは、確かに憶えているのだけれど。
「それで、彼女は」
 木目の丸テーブルひとつぶんの距離を隔てて届けられる問いかけを前に、静かにまぶたを細めるようにしながら僕は答える。
「――やっと話せたねって」


「ずっと話してみたかったの、友達だって聞いた時からずっと――だってそうでしょ。ずっと隣にいたんだもん。わたしの知らない誰かがカイの隣にいるだなんて、ずっと寂しかった。ずうっ思ってたの、カイに大切な人ができたら仲良くなりたいなって。こうやって話してもらえるのだって、もう何年も待ってたのよ?」
「……ごめんね」
 思わず口をついて出た言葉を、ふるふると音もなく震わされたような会釈がそれを遮る。
 ほんのわずかなためらいを溶かしたかのようなその笑顔は、やっぱりどことなく、よく見知った彼のものに似ている。
 こほんとちいさく咳払いをしたのち、画面の向こう側で彼女は答える。
「はじめまして」
「はじめまして、こんにちは」

 パートナーの瞳を通しての虚像でしか知ることのなかった「いちばん大切な女の子」の姿が確かに実を結んだ、その瞬間だった。


「ほんとうに何でもないようなことしか話さなかったと思う、その時は。そりゃそうだよね」
 画面の向こう側、なんでもないようなほんの些細なことをそれでも笑ってくれる姿に、あたりまえのように告げ合った「またね」のひとことに、心をふわりと掬い上げられるようなぬくもりを憶えたのはいつまでも色褪せないままだ。
「その時にLINEのIDを交換しあってね。それからしばらくした後に、桜の写真が届いたんだよね」

 あんまり綺麗だったから、見てほしいなって思って。

 ごくシンプルな、だからこそ飾り気のない思いをそのままに届けてくれるメッセージに添付されていたのは、淡い水色の水彩絵の具で塗りつぶしたようなやわらかな空をふわりと覆う、薄桃色の花々の咲き誇る姿だ。
「いまでも保存してあるよって言ったら『いいのに』って照れてて」
「自慢したいの? そんなところもかわいいって」
「そりゃまぁ」
 照れ隠しめいた様子でかすかに笑いながら、コーヒーカップのソーサーのふちをするりと指先でなぞる。
「今年は送らなくっていいよってこないだ言ったら、なんだかがっかりしてて」
「けんかでもしたの?」
 好奇の色を隠さない様子で告げられる問いかけを、ふるふる、と首を横に振ることで打ち消すようにしながら、僕は答える。
「直接見に行けるから大丈夫だよ、よかったら今年の桜はふたりで一緒に見ようねって」
 ふと視線を逸らすようにして見上げたガラス窓の向こうでは、ロンドンではいちばん咲きのチェリープラムの花々が淡いピンクのはなびらを軽やかに揺らしている。



 地球四分の一周分の距離を隔てた日本の地でも、春の訪れを告げる花々の姿は故郷と少しも変わらない。
 いつもの通り道だという、彼らの生まれ育った家から駅まで続く川沿いの道ではまさに一斉に咲き誇らんとばかりの満開の桜の花々が悠々と枝をのばし、淡く溶けるようなはかない薄桃色を空へと溶かす。
「ねえ、ほんとうにカイと一緒じゃなくていいの?」
 半歩先からこちらを振り向きながら投げかけられる、「妹」からのうんと遠慮がちに投げかけられる問いかけを遮るように、かすかに首を横に振る仕草ののち、僕は答える。
「今日明日に飛行機に飛び乗らなきゃってわけじゃないんだから、祈吏といられる時間だって少しくらい作らなきゃ損でしょ」
 答えながら、やわらかな髪に落ちたひとひらのはなびらを拾い上げる。
「ほら、ついてたよ」
「……ありがとう」
 照れたようにぎこちなく笑いながら、かすかに頬の染まるさまを、瞼を細めるようにしながらじいっと眺める。
「それよりも、今日は?」
「なあに」
 きょとんと首を傾げて見せる姿を前に、おぼつかない掌をそうっと差し出して見せるようにしながら僕は尋ねる。
「無理強いするつもりはないけれど、いいでしょう? たまにしか会えないんだから」
 わずかに震わされたきゃしゃな掌は、たちまちに包み込むように優しくこちらのそれへと重ね合わせられる。

 
 初めて会って話をしたその日から、二度目の春を迎えていた。
 枯れ葉の舞うロンドンから新緑の木々と花々の息吹の芽吹く日本へと舞台を変えても、どこかおぼつかない指先を握りあった時の優しい感触を、ここでしか得られないぬくもりを、この掌はちゃんと憶えている。
「ずいぶん前から決めてたんだよ、次に日本に来るのは桜の咲く時期がいいなって。こんなに早く叶うだなんて、思ってなかったけれど」
 いまから四年前、日本にいる恋人に会うために初めてこの地に降り立った時の記憶を昨日のことのように思い返す。あの時はまだ、わずかに膨らんでまばらに咲く花々を目にすることが出来たくらいで。
 再び降り立ったこの地で、しっかりと手を繋ぎあって歩く道すがらには写真で目にしたのと同じ、豊かに咲きこぼれる淡い花々たちは抜けるような青空とのあいだでやわらかなコントラストを描き出す。
「ロンドンにだって桜は咲くんでしょう?」
「日本のとは似て非なるものだと思うよ、種類だってずうっと多いしね」
 ほとんどがソメイヨシノ一辺倒の日本の桜とは違って、二月末頃、一番に早く咲き始めるチェリープラムを皮切りに、色合いも樹木の高さもまちまちの花々が順繰りに咲き、春の訪れを告げる花々のリレーは通常五月頃まで連綿と続いていく。
「多様性の国なのね、そんなところも」
「いいのか悪いのかはわからないけれど」
 一斉に咲き誇り、儚く散ってその姿をひっそりと遠ざからせていくだなんていうのは、いかにも日本的な情緒だなんて言えるだろう。
 桜の花が日本という国を象徴したかのような存在として知らしめられていることは、海を渡った先でも代わりはしない。それでも、春という季節の扉を開くこの花々が作り出す風景はそれぞれに異なっているのだからなんだかおかしい。
「カイもね、ロンドンで初めての春が来た時にはなんだか戸惑ってたみたいで」
 慈しむような心地で、そうっと瞼を細めながら僕は答える。
「あの樹、いつも前を通り過ぎてたんだけど桜だったの? って。実際に目にしてみたら、やっぱり落ち着かないみたいで。あれは桜じゃなくてアーモンドだねって教えてあげたら、ちょっとがっかりしてたみたいだけれど」
「アーモンドにも花が咲くの?」
「桜にそっくりなんだよ、見分けがつかないくらいに」
 ばら科さくら属に属するそれらの花々は、一見したところではほとんど姿形は変わらない。
「でも、決定的な違いがひとつだけあって」
 見上げた先、しなだれるように降りてくる枝を指し示して見せながら僕は答える。
「ほら、桜はこんな風に細い枝から花が咲いているでしょう? それと違って、アーモンドは太い枝から直接花が咲くんだよ。そのぶんだけ日本の桜のほうがずうっと風情がある」
「風情って言葉は英語ではなんていうの?」
「Taste」
 答えて見せると、返事のかわりのように、ぱちぱち、とぎこちないまばたきが返される。
「おかしいよね、なんだか。無理矢理持ち込んだみたいっていうか。やっぱり置き換えられない言葉だと思う。日本語にはそういう言葉がたくさんあるよね」
「ほかにはどんなのがある?」
「Jocho」
 わざとらしくアルファベットの発音で答えて見せれば、くすくすとやわらかな笑い声が返される。
 おだやかなぬくもりだけを溶かしたまなざし、かすかに震えた指先の感触、風にさらわれるようにふわりと揺れる栗色の髪。
 こんな感情にあえて名付けるのにふさわしい言葉があるのだとすれば、この国では「いとおしい」という言葉を用いるのだと、テキストには書かれていた気がする。
 ほら、lovelyだとかcherishだなんて言葉でくくってしまうには乱暴すぎる。このやわらかな気持ちは、この国で用いられる言葉でしかきっと閉じ込められない。


 川沿いの並木道を歩いたその先でたどり着くのは、こぼれおちんばかりの満開の花々が迎えてくれる広々とした公園だ。
「やっぱり日本で見る方がしっくりくるよね、桜は。こうして見てると、ますますますそう感じる」
「そうかなぁ」
 どこか困ったように、それでも隠しきれない誇らしさをにじませたような笑顔に、するりと気持ちはゆるむ。 
「そりゃそうだよ、日本の象徴みたいな花なんだから」
 どこで咲いたって変わらない美しさを誇るのが花々のすばらしさだとはいっても、どこか借り物めいた光景に見えるのは仕方のないことで。
「ロンドンでは、こんなふうに並木道になっている通りは珍しいんだよ」
 通りを埋め尽くすように植えられた桜を見上げながら、僕は呟く。
「大きな公園に行けば並んでたくさん植えられているところもあるけれど、ほとんどは他の街路樹にまぎれるみたいに急に現れるところばっかりでね。あれじゃあストレンジャー扱いだなんて、顔をしかめる日本人もいるくらいで」
 見慣れたつもりでいた街の風景の中に唐突にぽつりと姿を現した祖国の花を前に、思わず悪態を吐くようなそぶりを見せたのはもしかすれば、恋しさの裏返しだったのかもしれないけれど。
「カイがロンドンに来て、初めての春が来た時ね」
 ゆるやかに瞼を細めるようにしながら、僕は答える。
「桜を見に行こうって、少し遠くの公園まで案内したことがあって。やっぱりどことなく落ち着かない様子で周りを見渡してて。だから聞いたんだよ、『日本が恋しくなった?』って。そしたら、むきになったみたいな顔して、『そんなことない』って言ったあと、すぐにごめんねって謝ってくれて。いいよ、別にって言っても、なんだかずうっと申し訳なさそうにしてて。いまでも時々思い出すんだけれど」
「……らしいや」
 くすりと声を立てず笑う表情は、すっかり見慣れた「お姉さん」のそれだ。
「少し離れて様子を見ていたら、そのうち真剣な顔で何枚か写真を撮り出して、確かめながらちょっとだけ嬉しそうに笑ってて。ねえ、あれって君に送ったんだよね」
 答える代わりのように、気まずさを滲ませたような、ぎこちない笑顔が返される。 
「日本でね――」
 かすかに震わせた指先でぎゅっとこちらのそれを握りしめながら、祈吏は答える。
「いまみたいに、桜が満開になって。今年はカイといっしょに見れないんだなぁ。寂しいなあって思って。せめて写真だけでもって思ってお母さんに言ったら止められたの。『やっと慣れてきたところのはずなのに、日本が恋しくなるかもしれないでしょ』って。それから少しした後、ロンドンでも桜が咲くんだよって写真が届いたの。うれしかったけど、ほんとのことを言えば、ちょっとがっかりして。なんだ、日本だけの特別なものじゃないんだなって思って。得意になって見せてあげたいだなんて思った自分のこと、はずかしいなって思って」
 石畳の上へ舞い落ちたはなびらへとじいっと視線を落とすようにしながら、ぽつりとささやき声がこぼされる。
「あの時にはもう、カイの隣にはあなたがいたのね」
 伏せられたまなざしの奥に、出会うことなど叶うはずもない、十二歳だった少女の面影が滲む。
「……前にも言ったと思うけれど」
 ふるふると音もなく揺れる長い睫毛が頬へと落とす影をじいっと見つめるようにしながら、僕は答える。
「カイに、初めて写真を見せてもらった時があって。ああ、この子なんだって。平気なふりでいたけど、内心ではすごく焦ったし、不安になったよ。ずうっとカイの隣にいたいちばん大切な女の子がこの子なんだ、偶然とか奇跡だとかほんとうにいろんなものが重なっていまは僕の居るところがこの女の子の代わりになってはいるけれど、そんなの思い上がりに過ぎないんだって。代わりになんてなれるわけないんだって、そんなのわかりきってたのに、何を思い上がってたんだろうって。それならいっそ知らなければよかった。こんなかわいい女の子になんて、勝てるはずなんてないのにって」
「……マーティン」
 離れていこうとするかすかに震えた指先を、押しとどめるようにぐっと握り返しながら僕は答える。
「ある朝目が覚めたら女の子になってないかなだなんて、そんなどうしようもなくばかげたことだって何度も考えたよ。でも、僕が女の子だったらきっとあんな風に気をゆるしてくれなかっただろうなんてことだってわかってたから、どうしたらいいのかずっとわからなかった」
 気持ちに蓋をして閉じこめていれば、友達のふりをしてそばに居ることならゆるしてもらえる。たとえそれが、期限付きの関係に過ぎないのだとしても。何度もそう言い聞かせて、繰り返し繰り返し、胸の奥につかえた思いを封じ続けてきた、そのはずだったのに。
「ほんとうにごめんね、大好きなんだ」
「……なんで謝るの」
 視線の先で、手を取り合った小さな男の子と女の子が足早に駆けていく。どこか懐かしさを呼び起こさせるその姿に、目にしたことなどないはずの遠い記憶が、ふわりとやわらかに重なる。
「お花見って、」
 レジャーシートを広げ、思い思いにくつろぐ人たちの姿を目で追うようにしながら、僕は答える。
「日本独自の文化なんだよね。向こうで桜が咲く季節はまだ冷え込むし、気温の変動も激しいから桜の下でゆっくり食事を、なんていうのも難しくって。日本だから根付いた文化なんだろうね。同じ花が咲いたって、土地柄や環境が違えば当然接し方も変わるし、同じようには出来なくって――だから余計寂しくなるだけだっていう人の気持ちもわかるんだよ。でも、これだけ離れた場所にそれぞれいても、同じ季節に同じ花が見られるのも、それを教えてくれる相手がいるんだってことも、本当に嬉しくて。離れているあいだ、桜が咲くようになるたびにカイのことを思い出してたよ。どこか複雑そうに、それでもいつだってすごく嬉しそうに見上げている時のあの顔が、すごく好きだったんだ」
 一足早く咲き始めるたおやかな薄紅色の花々を目にする度にいつも思い返すのは、遠い場所に置き去りしたままの、僕を待ち続けてくれることを、またここで共に生きることを約束してくれた相手のことだった。
「ずっと決めてたんだ。祈吏とカイが目にしてきた桜を、今度日本に行けることがあったらこの目で確かめたいって。祈吏が見せてくれた桜があんまり綺麗だったから。君のくれた気持ちが、ほんとうに嬉しかったから」
 風にふわりと揺らされる儚い姿も、鼻先をくすぐるほのかな香りも、傍らでそれらを見上げるいとおしげに細められたまなざしも、指先を伝い合う熱も――写真越しでは伝わるわけなんてあるはずもない、何にも代え難い宝物だ。
「あのね、マーティン」
「なあに?」
 遠慮がちにこちらをじいっと見上げたまなざしに見入られるのを感じながら、僕は答える。
 つやめいた桜色の唇は、はなびらの咲きこぼれるさまのような優しい言葉を届けてくれる。
「せっかく来てくれたんだからつきあってくれるでしょ、お花見。カイも一緒に、ね?」
 ぎこちなく告げられる言葉に、思わず笑みがこぼれる。それでも、そんなそぶりがうんと『らしく』見えるのは確かで。
「……あたりまえでしょ、ずうっと楽しみにしてたんだよ」
 十二歳の夏、ずうっと隣にいるはずだった片割れのように思い合っていた誰よりも大切な相手――生まれた瞬間からそばにいてくれた、誰よりも大切な女の子と半ば引き離されるようにして、地球四分の一周先、ロンドンの僕のもとへと彼はやってきた。
 初めての出会いから十年の月日を経て、次に桜の季節が巡ってくるころ、彼は生まれ育った愛すべきこの国を離れて、海の向こうの僕のもとへと来てくれると約束をしてくれた。
 ――もしかすればこれが、彼の育った国で僕たちが共に目にすることが出来る、最初で最後の桜なのかもしれないだなんて。

「ねえ、祈吏だってまたおいでよ。ロンドンの桜だって案外綺麗だよ。目にしてみたら気にいるかもしれないでしょ」
「気に入らないだなんていつ言った?」
「そりゃあほら、さすがに日本のそれには見劣りするんじゃないかなって思って」
「ロンドンの桜だってきっと好きになるに決まってるでしょ、大切な人が見てる桜なんだから」
 あんまりにもらしい言葉に、思わず声を立てないようにしてちいさく笑う。ふいに目を逸らした先、かすかに濡れたやわらかな土を踏みしめるこっくりとしたキャメル色のまぁるいつま先にはいつの間にか、はらりと舞い落ちたはなびらが彩りを添えてくれている。
「不思議だなぁ、なんだか」
 ぽつりぽつりと、大切なお菓子をそうっと口にするようにうんとあまくやわらかに「妹」はつぶやく。
「ここは日本なのに、あの時と同じようにマーティンが隣にいてくれて、こうしてふたりで歩いて、桜の花が一緒に見られて」
 もしかしなくてもきっとこの道は、幾度となく彼と共に通った場所の、そのはずなのに。
「何度だって見られるよ、これからだって」
 うんとおだやかに笑いかけるようにしながら、僕は答える。
「これからだってきっと何度でも会えるし、会いにいくよ。僕たちはもうずっと前から家族なんだから、そんなのあたりまえでしょ」
 世界でいちばん大切な女の子――最愛の妹は、こぼれおちていくはなびらに見劣りなんてひとつもしない、うんとやさしい笑顔で答えてくれる。



 こないだは遠いところをはるばる訪ねてくれてありがとう。話したいことがたくさんあったはずなのに、すこしもうまく伝えられなくてもどかしいばかりです。
 ただ言葉を選ぶのが得意じゃないってだけじゃなくてきっと、まだ見つけられないことがたくさんあるからなんだと思います。すこしずつ探して、あなたに届けられるようにがんばりたいです。見ていてくれたらうれしいです。
 あれから少しして、あっというまに桜のピンク色の花は若々しい緑の葉にさえぎられて、いつのまにかみんな散ってしまいました。
 知っているはずで、もう何度も繰り返して見てきた風景のはずなのに、やっぱりいつまでも寂しいままなのは変わりません。
 それでも、薄い桃色のはなびらの絨毯でびっしり埋め尽くされた地面はやっぱり綺麗で、咲いている時も散った後も特別に華やかなのは桜の花の特権だと思います。
 あっという間に旬の季節が過ぎてしまうはかなさこそが美しいだなんて気持ちはわかるけれど、それでもやっぱり、長く花の咲く姿を楽しめるそちらがうらやましいです。
 ロンドンにはロンドンの春にしかない美しさがあるのだと教えてくれる大切な相手がいてくれることを、なによりも嬉しく思います。
 
 あなたと見られた今年の桜はうんと特別で大切で、デジタルデータと記憶の中にだけとどめておくのを惜しく感じたので、今年は手紙でも写真を送ります。よければ、見てもらえると嬉しいです。

 最愛のお兄ちゃんへ 感謝と想いを込めて
 祈吏より


 やわらかなアイボリーに金のラインが入ったおなじみの便箋と封筒の中から姿を現したのは、あの日見たのと同じ桜の写真だ。
 つるつるとした印画紙に映し出されたそれは、記憶の中であざやかに花開くそれと比べてしまえば、ずうっと見劣りしてしまうものではあるけれど。
 ――いつでも目に出来る姿でそれを届けてくれる心遣いに、胸のうちでは音も立てないままに、せりあがるようなぬくもりが滲む。
 さて、今度はなんて返事を書こう。もう幾度となく読み返してきたはずなのに、伝えたいことがたくさんありすぎて、うまく実を結んでくれないのがもどかしいばかりで。
 少しだけぬるくなったコーヒーに口をつけながら、キャップをはめたままの万年筆をそっと手に取り、ぬるい吐息をはきだす。

(大切な景色を教えてくれてありがとう、もう何年もずうっと。そしてゆるされるのなら、これから先だって。だって、誰よりも大切だから。離れていたって、これから先もずうっと)

 指先が、胸の奥が――この目と心が手にしたぬくもりを、あますところなく覚えている。
 ほら、こんなにもあたたかくて、こんなにもいとおしい。

 ガラス越しに見上げたその先では、日本で見られるそれとは違う、大振りで濃い桃の八重桜がフリルを幾重にも重ねたかのような華やかな花を思い思いに広げ、優美に咲き誇る。
 それはまるで、海を越えた遙か向こうの国でもこうして息づく、紡ぎ続けた思いをたどるその証のようだった。





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