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調弦、午前三時

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おかえりなさい

ほどけない体温、あましのの行く年来る年。





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 煩わしいばかりに思える『ふたりでいること』にも数少ない利点はいくらかあって、そのうちのひとつが、狭いはずの部屋をひとりになった途端にいやに広く感じられる点だったりする。

「みなさま明けましておめでとうございます」
 晴れ着姿で賑々しくはしゃぐテレビタレントたちの姿を目に、やれやれとおおげさに息などついてみせる。三が日もようやくすぎたのに、白々しいとは想わないのだろうか。
 と、文句を言っても仕方あるまい。仕事なんだし。
 時計代わりにつけたうるさいだけの画面を暗転させれば、ひとりで過ごすには無駄に広い部屋には途端に望んだ通りの沈黙が広がる。
 ――『落ち着く』と『もの虚しい』はやっぱり別物らしい、当然だけれど。
 やれやれと大げさにため息をつきながら、机の上に投げおいた暗転したままのスマートフォンを手に取り、灰色の吹き出しに浮かび上がる文言を確かめる。

 ――『きょうの夕方帰るから。おみやげあるんで待っててね。』

律儀にもたらされた、『冬休み終了』のお知らせだ。


 アルバイトの隙間に単位の取得と就職活動に励んだ、と言っても過言ではない大学四年間。その締めくくりもまた、労働に明け暮れたまま日々は過ぎていった。なんせこの四年、年越しの瞬間は常に職場で迎えていたのだから。(自慢でもなんでもないけれど)
 短い冬休み期間をほぼまるまる帰省に当てるという忍を実家へと送り出したその後、欠員の隙間を埋めるかのように不規則な労働時間に身を費やすそんな日々に追われる中で、あっという間に周の一年は締めくくりを終え、なだれ込むかのように新しい一年へと押し流されていた。
 いままでと決定的に違うのは、慌ただしい日々の隙間の『退屈』を埋めてくれる唯一無二の相手がいることと、あたりまえのように生活に侵食してきたその存在が一時的に目の前から遠ざかったことにどこかむなしさを隠しきれないこと。
「桐島くんはさ、帰んなくていいの?」
 差し入れにと店長から出された蕎麦(インスタントじゃない上に、豪華なことに天ぷらまでついている)を啜りながらかけられる言葉を前に、少しかじかんだ指先に熱を行き渡らせるようにと、どんぶりのふちにそっと指先を這わせながら周は答える。
「帰りますよ、二日に」
 帰れとはさんざん言われたし、なんならみどりの窓口にいっしょに並ばされたし。とはいえ、封筒に入ったままのチケットの存在を思い起こすだけでどこか気が重くなるのは仕方ないことで。
 そういう安西さんは? 横目にちらりと視線を投げ返すようにしながら尋ねれば、汗ばんだ額を手元のタオルハンカチで拭いながら、頼もしい先輩は答える。
「今の時期って割引もきかないじゃん。なもんで、忙しいとかなんとか言ってだいたい半ば頃に帰るようにしてんだよね。帰んないわけじゃないからいいっしょって言ってんだけど。まぁでもそういうのはね、言い訳っていうか」
 ふぅ、と大げさなため息を吐き出しながら続けざまにかけられるのは、おおむね予想通りのこんな一言だ。
「……正月の実家の空気ってさ、正直重くない?」
「あぁー、」
 どこか息苦しさを隠せないままに相づちを打てば、傍らのまなざしが同類を哀れまんとばかりの慈しみと、ほんの一匙ばかりの好奇の入り混じった色に染め上げられるのがわかる。
「桐島くんはまだ若いじゃん、学生さんだし。まーそんだけ期待されてるってことだよねえ」
「別にまぁ……その」
 ごまかすように曖昧に言葉を濁せば、察するかのように天ぷら油で少しだけべたついた唇がわずかにゆるむ。
「まぁねえ、いい年こいてふらっふらしてる息子なんてそりゃ頭痛のタネですよ。周りみいんなまじめにきっちり会社勤めなんてしちゃって、地元に残った同級生の半分はとっくに所帯持ちだしね。顔みた瞬間『おかえり』よりも先に『年金滞納してないだろうな? 危険ドラッグに手は出してないだろうな?』だよ?」
 けらけらと笑いながら答えるその表情からは、それでも本心から嫌悪しているわけではないことがきちんと伝わる。
 どこか曖昧に笑いかけることくらいしか出来ないこちらを前に、割り箸のささくれを少し荒れた指先でするすると弄ぶようにしながら、いかにもな億劫を貼り付けた言葉は続く。
「うちはさー、四つ上の姉貴がいるわけね。普段は外資系のベンチャーみたいなとこでばりばり働いてんだけど、たまにどかって半月くらい休んでは海外でふらーっと遊んでんのね。それも、観光用に整備なんてされてないような、日本人が聞いても『どこそれ?』って顔しかめるようなとこばっかでさ。もっとOLっぽいとこにしたら? エステとかブランド品とかにちっとは興味ないわけ? って言ってもうるせーっていいながらガキのころとぜんぜん変わんない感じでぺしってはたいてくんのね」
 苦笑い混じりに答えながら、どこかまぶしげに瞼を細めて見せる姿からは、うとましげな言葉とは裏腹の慈愛とも呼べるような感情が静かにほころぶ。
「かっこいいじゃないですか、そういうの」
「顔見たらうせるよ、んな気」
 答える合間にと、ずる、と音をたてて少し伸びた蕎麦を啜る。
「……いいなぁって思わなくもないよ。でもさ、ぶっちゃけ疎ましくないかって言ったら嘘になるよね? 要領いいよなーって。なんかさぁ、結局いつまでもガキのまんまなのは俺だけなんだよね。それなりにどうにかやってるつもりなのに、いざ帰った途端に俺の立場は出来損ないの惨めな弟なわけよ。向こうもそういうのわかってるから、わざわざ俺にLINE飛ばしてスケジュールかち合わないようにしてくれててさぁ。なんかさ、そーいう気の使わせ方してるって時点で情けないっつうか、いくつなんだよっつうかさぁ」
 つけっぱなしのテレビの画面からは、店内の有線放送で聞かされるよりは幾分かキーがずれて不安定に掠れた声のアイドルがありふれた恋の歌をいやに大仰な表情で切々と歌い上げる姿が映し出される。
「……大晦日だってのに、なんかめんどくさい話降っちゃってごめんね?」
「――別に、そんな」
 曖昧に答えながら、丼の底に沈んだ、ふやけてぷちぷちと千切れた蕎麦を掬っては口へと運ぶ。
 ……率先して話題を運んでくれたことで、こちらから話さなくていいのだと気楽になったのは確かなので。(もちろん言うわけないけれど、そんなこと)
 少しだけ思案に明け暮れたのち、どこか覚悟を決めるかのような心地でぷかぷかと浮かんだネギを眺めながら周は答える。
「……相手に。実家帰るからいっしょに帰ろって言われて。まぁ、どこまで本気かはわかんないすけど」
 そもそも一時が万事そんな調子だからというのは、思っていても、もちろん口には出さない。
「行けばよかったのに。俺が桐島くんのぶんも働けばいいだけじゃん?」
 てらいのないまっすぐな言葉に潜められたぬくもりに、裏腹に心の奥をぞわりとなぞりあげられるような心地を味わう。
「んなことしたら安西さんいい加減ぶっ倒れますよ」
「年末年始は医療費高いしねー」
 けらけらと笑いながら、結わえた髪の毛先がぴょん、と跳ねるのをぼんやりと横目で追いかける。
「まーさすがにねえ、いきなり年末年始はハードル高いもんねえ? でもさ、まだつきあいたてでしょ? それでそんなさらっと誘えるってすごくない? 信頼されてる証じゃん」
「……なんも考えてないだけですよ、たぶん」
 別々のところに帰る日々が続くと退屈だからとか、たぶんそんな理由で。
「かわいいじゃん」
「割とイラッとしますけどね」
「嫌う理由にはなんないだよね? でも」
 答えられずに目線を逸らせば、得意げに笑いかけるまなざしが横目にちらりと突き刺さる。
 ぱきぱき、と音を立てて割り箸を割りながら、傍らの先輩は答える。
「桐島くんさ。いま、寂しいでしょ?」
「――おかげさまで忙しくしてもらってるんで、そうでもないですけど」
 おしぼりで指先を拭いながらぽつりとそう答えれば、たしなめるように「だめだよ」の一声が被さる。
「そういうのはね、ごまかすのになれちゃうと良くないよ。帰ってきたらでいいから、ちゃんと言ってあげないと」
 俺みたいな大人になっちゃだめだよ。いつになく頼りなく掠れた声で告げられる言葉に潜められた色に、しんと胸の奥がわだかまるような心地を味わう。

 ふたりでいるほうが、これから先もずっとひとりでいられると思っていた時よりもずっと寂しい場合はどうしたらいいんですかね。

 投げかけられるはずもない問いかけがゆらりと浮かび上がり、心の奥を無様に揺さぶる。つかの間の休憩時間は、あと五分もすれば終わりだ。


 ――『なんかひろちゃんが夏に会った時よりもでっかくなってる気がすんだよね。ひろちゃん背伸びたっしょって言ったら変わんないっていうんだけどさぁ。もしかして俺が縮んでんのかな。最近ちゅーしやすくなったとかそゆのない?』

 毎日のように着ていた報告メールのうちの一通を見返し、思わず力なく苦笑いを漏らす。迷った末に一言だけ「ばかか」とロッカールームから返せば、すぐさま帰ってきたのは得意げな笑い顔の絵文字ひとつだけの、あまりにも「らしい」返事だ。
 普段ならほぼ事務的な連絡事項でしか用を成さない(なんせ週の半分近くは家にいて、いるあいだほぼ一方的に何でも喋りかけてくるので)メールのやりとりでこんなにも饒舌になるのは、離れているからこそだろう。
あいつなりに寂しいのか、こっちが退屈しないように気遣ってでもいるつもりなのか、はたまたその両方か。
 ――かわいいと思わなくもないあたり、なんというか、まぁ。

 いつもはほぼ占有されているブランケットをぐるぐると巻き付けて、暗転させたスマートフォンをぽい、と乱雑に床の上に投げ置くようにする。人ひとり減るだけで体感温度は下がるけれど、その分だけ防寒具は使い放題だ。プラスなのかマイナスなのか、これじゃあさっぱりわからない。


「いまだけだよーそういうのも。だからまぁ、思う存分味わっておきなよ。言うじゃん、亭主元気で留守がいいって」
 レジカウンターに戻っても尚も続いた、眠気覚ましの雑談がてらに告げられた言葉がそれだ。
「初々しいよねえ、なんか。新婚さんって感じ。おじさんうれしいなー、桐島くんからそういう話、聞けるなんて思ってなかったからなー」
 からかいがてらに投げかけられる言葉を前に、平静を取り繕いながらも僅かに耳の先が赤く染まるのを抑えきれない。
「――別にそういうのじゃないですよ。なんていうか、家に帰ると部屋が寒くて不便だな、くらいで」
 どうせあと数日したら帰ってくるのだし。
「無事に帰ってくるといいね、彼女」
「……まぁ」
 曖昧に笑いながら答えれば、満足げに微笑みかけるその仕草とともに、都合良く会話は途切れる。ぎこちなく目線を逸らすその仕草を照れ隠しの一環か何かと受け止めてくれているらしいのはこちらにとっては好都合だ。
 ――嘘は言ってはいないのだ。ひとつたりとも。ただ、こちらからは性別を明らかにしてはいない、それだけだ。


 それ相応の心の準備とともに迎えた一日半ばかりの帰省は、果たして親孝行になっているのかはともかくとして無事一通りの行程を終え、ようやく迎えることの出来た休日らしい休日だった。
 大掃除なんてものをしている暇は当然なかったので、申し訳程度に水回りとレンジフードの掃除をして、風呂場とトイレの掃除もいつもよりも念入りに済ませた。冷蔵庫の整理がてらに備蓄しておいた食材はひとりで過ごすうちにあらかた処分を済ませて、すっきりした庫内の中は、散歩がてらに立ち寄ったスーパーで買い足したふたり分の食材で新たに埋まっている。(ついでに忍の好きなビエネッタも買っておいてやった。半額セールになっていたし、お年玉代わりのつもりで)
 すべきことは吐いて捨てるほどあって、時間は有限でも、それを邪魔する相手がいない。拍手喝采で賞賛を浴びせたいほどの絶好のシチュエーションに置かれているというのに、こうも気が乗らないのはいかがなものだろうか。

 ――あいつがいて煩わしい方が、あいつがいなくて自由なのよりもよっぽどいいだなんて、我ながらわけがわからん。

 おおげさに息を吐きながら、裏返しのままのスマートフォンをじろりと睨みつけてみる。
 毎日の日課になっていたあのおかしな報告メールももう来ないのかと思うとどこか残念な気がしなくもないのは、我ながらなんだか少しおかしい。
「さーて、と」
 誰もいやしないのに、スイッチを切り換えるみたいにわざとらしく声をあげて床に手をつくようにしながらその場を立ち上がる。
 もういい時間だ、そろそろ夕食にでもしよう。有り合わせで作れるなにか暖まるものでも。そう思い立ったところで、廊下からはゴロゴロとキャリーカートを引きずる音が響く。
 そういえばそんな時期だもんな。お隣さん、帰省か旅行かは知らないけれどお疲れさまです、お帰りなさい。引っ越してきた時に一度顔を合わせたぐらいだから、どんな相手だったかなんてはっきりと思い出せやしないけれど。

 冷蔵庫のドアに手をかけ、まずは少しばかり水分補給でもしようかと思ったところで、ゴロゴロと車輪を引きずる音は、うちの前でぴたりと止まる。
 ――なんでまた。と疑問の余地を挟む間もなく、聞き慣れたあの、合い鍵を回すガチャリと無機質な音が玄関先から聞こえる。ということは、もちろん。
「たーだーいまー」
 ほら、やっぱりそうだ。

 いったん開きかけた冷蔵庫のドアをすぐさま閉めて玄関先に向かえば、そこにいるのは東京駅で送り出した時のままの見慣れたコート姿にぐるぐる巻きのマフラーと耳当て姿のままで、そんな厳重の装備なくせに鼻の頭を僅かに赤くして、大荷物を両手に抱えたまま得意げに笑いかけてくるすっかり見慣れた男の姿だ。
「ただいま周。なんか東京寒くない? 雪とか降んのかなぁもしかして。電車止まっちゃうとやばいもんねー。ちゃんと帰れてよかったー」
 にこにこと笑いながら矢継ぎ早にかけられる言葉を前に、気の利いた言葉のひとつも思い浮かばないのはどうなのだろうと思っても、そう簡単には変われないのだからあきらめてもらうほかない。
「……なんで」
 いつも通りのあの、にぃっと得意げな笑い顔とともに忍は答える。
「年明けだしさ、ちゃんと自分ちに帰ろって思ってたんだよ最初は。でもやっぱ、どしても周の顔みたいなって思って。いっぺん帰って荷物くらい置いてこよかなって思ったんだけど、なんかめんどくさくなっちゃったから直接きちゃった」
 ずさり、と荷物を投げ置くようにすると、なんの遠慮もない様子でそのままぎゅうっと抱きつかれる。たっぷりと冬の匂いを吸い込んだコートからつたう冷たさに微かな身震いを隠せずにいれば、いつもそうするように、少しだけこわばった指先で、遠慮なんてかけらも見せない様子で、くしゃくしゃと髪をなぞられる。
「こうしてると周、いつもよりおっきいねー。いいなぁなんか」
 上目遣いのまなざしでにこにこと笑いかけられると、いつも以上にざわざわと心がかき乱される。ほんの数センチの違いでも、視点が変わることにはなかなかどうして、有効な効果があるらしい。
「おまえさ、冷たい」
 わざとらしくぶっきらぼうに答えながら耳当ての下に指先をもぐらせて、冷え切った耳をゆるゆると指先でなぞる。
「じゃあ周があっためて、ね」
 ぱちぱちと、まばたきを繰り返しながらじっとこちらを見上げるまなざしと、あまえたようなくちぶり。その両方に心ごとぎゅうぎゅうときつく抱き寄せられて、息苦しさにめまいがしそうだ。
 コート越しに背に回した腕の力をじわりと強めるようにしながら周は答える。
「風呂入れてやるから入ってこいよ、そのあいだにうどん作ってやる」
「そゆ意味じゃないんだけどなー」
 ぴったりと耳元に唇を寄せ、ささやくような口ぶりでそう告げられる。冷気に晒された吐息はいつもよりひんやりと冷たくて、ふわりと微かに触れた髪の毛の氷のような冷たさとともに周の熱をじわじわと奪っていくのに、相反するように胸の奥のくすぶった熱は高めていくばかりなのだからおかしくって仕方ない。
「……新年早々セクハラかよ」
「お年玉でしょ、そこは」
 答えながら、歯を立てないようにしてゆるゆると耳のふちを食むその仕草に身を任せれば、いよいよ立っていることすらおぼつかなくなってしまう。支え合うようにぎゅっときつく抱き合ったままゆるやかに瞼を閉じて、たっぷりと全身に纏った冬の匂いがこちらまでを包んで溶けだしていくその過程にじっくりと酔いしれるようにする。
「おかえり、忍」
 ぐしゃぐしゃと髪をなぞりあげながら、ほんとうなら一番に伝えなければいけなかったはずの言葉をやっとの思いで吐き出す。ほら、ちゃんと言えた。遠回りばかりしてきたけれど、ちゃんと。
「ただいま」
 心底うれしそうに答えてくれるその笑顔を前に、こらえきれない衝動に襲われるまま、首の角度を傾けるようにして口づける。かさついて、いつもよりも少し冷たく感じるその感触は、こじ開けるようにして差し出しあった舌をきつく絡め合うことですぐにあたためられる。

 帰ってきてくれた。
 帰りたい場所があるのに、こんなにも真っ先に周のところに帰ってきてくれた。
 そのことが、周には何よりもうれしくて仕方がなかった。



 ふぅ、ふぅ、ふぅ。
 いつもそうするように、いやに念入りにさましながらうどんを啜る姿をぼんやりと眺める。
 忍の持ち帰った正月用の高い蒲鉾は心なしか時々スーパーで買うものよりも魚の風味が濃い。卓上にはタッパーから取り分けた紅白なますに筑前煮、黒豆と栗きんとんがところ狭しと並び、慎ましやかなひとり暮らし(プラス半同居人)の食卓は一気に正月ムードで染め上げられている。
「うまい」
 よく味のしみた筑前煮に箸をつけながらつぶやけば、瞼を細めた得意げな笑顔がそうっと返される。
 家庭の味ってあるもんなんだな、やっぱり。特にこれといって特徴のない定番料理のはずなのに、口にするだけで会ったこともないはずの作り手の影(この場合は『佳乃ちゃん』か)が伺いしれるかのような心地になるのだから不思議だ。
「周はさー」
 れんげに掬った卵の白身をつるんと飲み込みながら、おもむろに忍は尋ねる。
「今年の大晦日は休みだよね、もう」
「……まぁ」
 よっぽどのブラック企業でもない限りは。
 というか、なんで年が明けてそうそうに大晦日の話になるのだろう。いつものこととは言え、この男の発想の飛躍ぶりは何なのか。けげんなそぶりを隠せないこちらを前に、にこにこといやにうれしそうに笑いかけながら忍は続ける。
「だったらさぁ、今年の大晦日はいっしょにいよ? 約束ね」
 きっぱりと答えながら、いつも通りのあの、熱のこもったまなざしでじいっと捕らえるようにこちらを見つめてくる。
「……おまえ、実家は」
「ちゃんと帰るよ、二日になったら。でも、大晦日と元旦は周といっしょにいる」
 決定事項だとばかりにそう答えながら、つやつやと宝石のように輝く黒豆に箸をつきさし、うれしそうにぱくりと口にする。
「周はさぁ、家に帰るよりも俺といるほうが楽しいんだよね?」
 答えられずに口をつぐんでいれば、箸をぱたりと置いた掌がしばしばそうするようにこちらへと差し伸ばされると、遠慮のない様子でくしゃりとやわらかに髪をなぞりあげる。
「俺は周が楽しいほうがいいし、周が寂しいのがいちばんやだよ。だから、今年の大晦日と来年の元旦は周といる。年が明ける瞬間もずっと周といる。あけましておめでとうって、周にいちばん先に言う」
 少しだけ汗ばんで張り付いた前髪をふわりとやさしくなぞるようにしながら、うんと得意げなとっておきの笑顔を浮かべるようにしたまま、恋人は答える。
「でもさ、二日になったらちゃんと家に帰んなきゃだめだよ? 俺も帰るからね、約束ね?」
 子どもをなだめるようなひどくやさしい口ぶりから押し寄せるあたたかさに、ぐらりと心ごと揺らされるのを感じる。
「……実家は?」
「ちゃんと言うよ、大事な相手と一緒にいたいから二日まで待っててねって」
 きゅっと弧を結ぶやさしいあの笑顔とともに、周が何よりもほしい言葉はこんなにもあっさりと差し出されてしまう。
「気づいてあげらんなくてごめんね? その分も今年はいっぱい一緒にいよーね。年越し蕎麦も一緒に食べて、紅白だって一緒に見よ? うちはカウントダウンTV派だったけど、周がゆく年くる年がいいならそっちに変えていいよ? ね」
「……いまからチャンネル争いの心配してどうすんだよ」
 もっと気の利いた言葉を、何か。そう思うのに、心の奥がぶざまにもつれてうまく言葉になんてならない。吐き捨てるような乱暴な物言いを前にしても、構わずにいつもみたいに笑いかけてくれるそんな姿を前に、じわじわと押し寄せるような感情の波はますますたかまるばかりだ。
「周」
 いつもそうしてくれるように、うんとやさしい声で名前を呼ばれる。この男にしか出来ない、混じりけなんてひとかけらもないぬくもりに満ちあふれたその響きで。
「忍、」
 テーブル越しに、わずかに震えた掌をそっと差し伸ばすようにしながら周は答える。
「あけましておめでとう、忍」
 くしゃり、と髪をなぞりあげながらかけた言葉を耳にしたその途端、すっかり見慣れてしまった子どもみたいななんのてらいもない笑顔が一面に広がる。
「……ほんとだ、言うの忘れてた」
 むじゃきにくしゃくしゃと笑いながら、追いかけるように「あけましておめでとう」が告げられる。

 あけましておめでとう、今年もどうぞよろしく。
 願うことが赦されるのなら、来年もそのまた次の年も、更にまた次の年も。そうやってこれからもずっと、未来へと続く『いま』この時を積み重ねていけるように。

 去年までとはまるで違う新しい一年が、ようやく始まる。










続刊として出した「春、間近」からの再録でした。

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