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調弦、午前三時

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方舟と烏

「黒い犬」の番外編。
本編を読了後の方向けです。




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 エヌ・オー・エー Noa

 背丈の低くなった鉛筆を握りしめた指先が、ひどくおぼつかないようすで――それでも、堂々と力強く、誇らしげに一文字一文字を刻みつけるように記していく。
「これがわたしの名前?」
 そうだよ。微笑みかけながら答えれば、ばら色に紅潮させた頬を緩めるようにしながら、少女はうっとりと満面の笑みをうかべる。
「ねえねえ、じゃあディディはなんて書くの。教えてくれる?」
「うん」
 乞われるままに、少年もまた、自らの名前をその隣にそっと書き記す。

 ディー・アイ・ディー・アイ Didi

「すごいすごい! ねえ、すごいねえ」
 興奮したようすでざらついたノートの紙の上をなぞる姿を見つめながら、いくつもの言葉にならない感情がゆらりと立ち昇るのを感じる。
『文字』をおぼえることを、自分はこんなにも無邪気に喜ぶことが出来ただろうか。まぶしいような気持ちとともに、どこか複雑な感情が頭をもたげる。
「これでママにお手紙が書けるようになる?」
「すぐになるよ、きっと」
「そっかあ、じゃあたくさん練習しないと」
 にこにことうれしそうに笑う姿をぼんやりと眺めていれば、玄関の鍵を回す鈍い音が聞こえてくる。
「あ、ママだ!」
 子ども用の補助いすからひらりと飛び降りた少女は、真っ先に玄関へと駆け寄る。
「ママおかえり、おしごとおつかれさま! きょうはね、文字のつづきを教えてもらったの。ノアって自分で書けるようになったのよ。後でみてね」
 鳥のさえずりのように高く澄んで弾んだ声に、すこし艶めいたしっとりとやわらかな相づちが返される。すっかり耳慣れてしまったそんなやりとりにそっと耳を傾けながら、少年は思わず、うっとりと瞼を細めてみる。

 今年で四つになる彼女には、生まれたころから父親がいない。
 父親と母親、その両方がいなければ『子ども』はこの世に生まれ落ちることが出来ないそのはずなのに、彼らの住むこの町では、その両方がそろわない家庭は決してめずらしくはない。
「あの人はこの子の父親になれる人じゃあなかったのよ」
 けだるげな様子で、少女の母親はいつか、そう聞かせてくれた。
 それがどんな意味なのかは、まだ幼すぎた少年にはうまくわからなかった。それでもどうやら、少年の母親とおなじように命を落としてしまったわけではないらしい、ということだけは子どもなりに理解していた。
 少女が自らの父親の姿を知らないのとおなじように、少年は自らをこの世に産み落とした母親の姿をしらない。
 彼が二歳とすこしたったころに病気で亡くなった――というのはたしからしい。それもみな、彼の父ではなく、彼らを古くから知る人たちが教えてくれたことだった。
 少年の家の中には母親の写真の一枚もなければ、父が亡くなった母のことを話してくれることも少しもない。一度だけなにかを聞かせてもらおうとした時、ひどく冷たい目でにらみつけられ、それからすぐに、悲しみといらだちのめっぱいに込められた瞳をして黙りこくられて以来、母の話を聞かせてもらうことはすっかりあきらめていた。
 引き替えのように、周囲の大人たちは少年の母親のことを時折聞かせてくれる。
「あんたは年々ナタリアに似てくるね、まるで生き写しみたいだ」
 ようやく八歳になることのできた少年が、いまは亡き母を知る人たちにたびたび言われた言葉がそれだった。
「ほんとうは渡してあげたいけれど、持っているのを見つかればきっと処分されてしまうから」
 前置きとともに見せて貰った幾枚かの写真の中には、まだいまよりも若々しい父親の傍らに寄り添っておだやかに微笑む女性が映っていた。
 ゆるやかに波打つ艶やかな黒い髪、キャラメルを煮詰めたみたいな金色がかった明るい茶色の瞳――大人たちの言葉通り、父とは似ても似つかない自らの容姿の特徴がどうやらもうこの世にはいない母親譲りのものだったらしいことを、彼はその時はじめて知った。
 数枚の写真の中には、まだうんと小さい、生まれて間もない赤ん坊の自分も映っている。仲間たちに囲まれ、うれしそうに笑いながらおくるみにくるまれた自分を抱き上げる父親、そのよこで満面の笑みを浮かべて見せる『母親』だという女性。絵に描いたようなひどくありふれた――それでいて、いまではもう永遠に閉ざされた『幸福』がそこには切り取られている。
 まるで、つくりもののお芝居の一場面を見せられているようだ。はじめから記憶から抜け落ちたその光景を目にしたその時、すぐさま浮かんだ感情がそれだった。
 どこかしら自らの面影を宿しているかのように見えるばら色の頬のふくふくとした赤子を満面の笑みで抱き上げる父親、その傍らに寄り添い、慈愛に満ちた笑顔でほほえんでみせる母親、ひどくありふれた、かけがえのない幸福をかみしめるかのような家族を囲んで見せる、顔なじみの親しい人たち。
 たしか地続きの『いま』にいる、そのはずなのに――。ほんの数年前のものだというその写真の中とおなじように笑いかけられた記憶が、彼の中にはどこにもない。
 はぐれてしまわないように、と父と手を繋いだのは、いつが最後だったろうか――ごつごつと骨の浮いたがさがさのその掌は、いらだちや憤りをぶつけるように振り上げられることならいくらだってあるのに、いつくしみを込めるようにと頭をなでたり、抱きしめてもらったことはついぞないままだ。


「おかえりなさい、エヴァ」
 蝶番の軋む音を合図に、少女に手を引かれるようにしながら彼女の母親が部屋の中へと現れる。
「ただいま、ディディ。いつもありがとうね、おなかが空いてない?」
「……すこし」
 ためらいながら、それでも正直に答える。
「待っててね、すぐにお茶をいれてあげる」
「てつだうー!」
「ありがとう、ノア。じゃあ背中のジッパーをおろしてくれる?」
 パールのネックレスの金具をはずしながらかけれられる言葉を前に、高く澄んだ声での「はあい」が覆い被さる。

 生まれたころから『母親』を知らない少年にとっての『おかあさん』はいつでも、身近にいるだれかのそれだった。
 かっぷくのいいおおきな身体にうす汚れたエプロンをして背中に赤ん坊をおぶったままたくさんのきょうだいたちにおやつをふるまうおかあさん、朝から夜遅くまでほこりまみれになりながら工場で働いて、夕方になると公園まで迎えに来てくれるおかあさん、ぴかぴかのスーツにかかとの高い靴をはいて、これまた上等なドレス姿の女の子の手を引いてしゃんと歩いていたおかあさん――物語の中にも現実の世界にも、幾通りもの母親はいて、その中でも、ノアの『おかあさん』はとりわけ特別な存在のように彼には見えた。
 赤みがかった茶色の髪はやわらかに波打ち、日によっては束ねられたり、ゆるやかに下ろされていたりしている。
 しっとりとした光沢のある生地にきらびやかな装飾が縫い付けられたドレスは身体のラインを強調するようにぴったりとフィットしていて、大きく開いた胸元にはパールのネックレスがおどる。
 つやつやのばら色の唇、お人形みたいにふさふさのぐるんとカーブしたまつげ、ぱっちりと大きく、アーモンドみたいな綺麗なカーブを描く切れ長の瞳のまわりはいつも、絵本に出てきた妖精の粉をまぶしたみたいにきらきらと光り輝いている。
「エヴァはお姫様のおしごとをしてるの?」
 いつか投げかけた質問に、すぐさま返ってきたのは高らかな笑い声だった。
「そんなこと言ってくれたのはあんたがはじめてよ」
 ひとしきり笑ったあと、上機嫌なようすで、ぴかぴかのルビー色の爪を宿した掌がやさしく少年の頭をなでる。
「あんたのおかあさんのほうがよっぽどきれいなお姫様だったわ。あたしはせいぜい意地悪な女王様がいいところよ」
「エヴァはお姫様みたいにきれいで優しいよ」
「口がじょうずなのね、せめてあと十五は歳が上ならよくしてあげられたのにね」
 すこし寂しげに笑いながら頭をなでてくれる仕草とともにかけられた言葉の意味するところは、いまだに彼にはよくわからないままだ。

「貰い物のお菓子があるの、食べていくでしょう」
 きらびやかなドレスからゆったりとしたシャツと丈の長いスカート姿に着替え、すっかりと化粧を落とした『お姫様』のつややかな唇からこぼれ落ちる言葉を前に、少年はすこしだけ身をこわばらせるようにしながら、それでもにっこりと笑顔で応える。
「いいの?」
「留守番につきあってくれたんだから、そのくらい受け取ってもらえないと困るわ」
 ぱちり、とやわらかなまばたきをこぼしながらかけられる返答に、心はどくんと波打つように飛び跳ねる。
「私のいい子たち、おやつの前に手を洗ってきて」
「はあい」
「いいこ」にふさわしいお返事とともに、手を取り合って洗面台へと向かう。まるで、ほんとうのきょうだいのように。


 金色の波打つような文字(どうやらカリグラフィーというらしい)が踊るきれいな化粧箱にはこんがりとした焼き色のマドレーヌがきれいに並べられている。
「遠慮しないでね」
「エヴァは食べないの?」
「いいのよ、私は食べられないから」
 遠慮がちに笑いかけながら、しなやかな指先がカップの持ち手にそっと絡められるのをじっと見る。
 エヴァはこうして家に立ち寄るそのたび、貰いものだという化粧箱に入ったきれいなお菓子をしばしば振る舞ってくれる。少年はバターのたっぷりはいったクッキーや洋酒のかおりのするフルーツケーキ、ひとたび口にいれれば体温でたちまちにとろけるチョコレート――おおよそ、絵本の中でしか目にしたことのなかった光輝くような豪華なお菓子の味をここで初めて知った。
 それがどれだけ、空っぽになった心におだやかな光を注いでくれるのだとしても、ほんとうの意味ではぺこぺこのおなかを満たしてはくれないことや、大地に根付くようなたくましい身体を作り上げていくため、血や骨の助けにはなってくれないことも。
「ごめんね、こんなものしか用意してあげられなくって」
 恐縮したようすでかけられる言葉を前に、ぶん、と首を横に振ってみせる。ほんとうならすこしだけ持って帰らせてもらって、近くに住む友だちやお父さんにわけてあげてはいけないのだろうか。
 ちいさな疑問が頭をもたげるたび、繰り返し頭の中で鳴り響くのは、幾度となく聞かされたお決まりのせりふだった。
「いい? ここでお菓子をもらったことはほかの子にもあんたのお父さんにもみいんな、ないしょよ」
「うん、わかった」
 ちくりと胸の奥がにぶく痛むのを感じながら、それでも、口元に指をあて、声を潜めるようにして告げられた『約束』を彼はちゃんと守っていた。信用出来る大人の言いつけはちゃんと守ること。そうやって『いいこ』にしていればきっと、神様は困った時に救いの手をさしのべてくれる。繰り返し読んだ絵本に教えてもらった、大切な教訓がそれだったからだ。
「あのね、ママ。きょうはね、文字のれんしゅうをたくさんしたの。名前だってもうママに頼まないでちゃんと書けるのよ」
 口のまわりをめいっぱいにお菓子のかけらで汚しながら、得意げに少女はつぶやく。
「ほら見て、ノアってちゃんと書いてあるでしょう。わたしが書いたのよ」
 かぼそく頼りない指先の指し示したその先には、いびつに震えながら、それでも、力強くその名が記されている。
「すごいじゃない、ママよりもずうっとじょうずね」
 得意げに微笑んでみせる彼女へとのばされた指先は、さもあたりまえ、といわんばかりの手慣れた手つきで汚れた口元をぬぐう。
「ねえ、これはディディが書いたのよね」
 なめらかに磨き上げられたぴかぴかのボルドー色の爪は、ところどころがいびつにゆがんだ不慣れな筆跡のすぐ隣、ぎこちなさは残りながらもはっきりとためらいのない筆致で描かれたアルファベットを指し示す。
「……うん」
「すごくじょうずに書けてる、さすが先生ね」
「ありがとう」
 照れくさそうに肩をすくめてみせる少年のかたわら、得意げに満面の笑みを浮かべながら少女はつぶやく。
「あのねママ、ディディはものしりなの。ノアはかみさまにえらばれておふねを作ったかしこい男の人とおなじ名前だって教えてもらったの。ノアは大雨でみんなが流された時におおきなおふねを作ってみんなをたすけてあげるの」
「船?」
 首を傾げてみせる姿を前に、すこしだけ身を乗り出すようにしながら彼は答える。
「ノアの方舟っていう神様が残した話をしたんだ。神様が地上に大洪水をおこした時、神様に信頼されていたノアは設計図を渡されて、洪水から逃れるためのおおきな船を作って、そこに家族や動物たちを乗せるんだ。そこからながいあいだ洪水は続いて、それでも、ノアと船にのった選ばれた人たちはみんな生き残った。神様はノアとその家族を祝福して、もう二度と生き物を滅ぼすような災害は起こさないと約束をして空に虹をかけるんだ」
「ノアはかみさまにえらばれたおりこうさんでみんなを救ってあげたの。すごいでしょ」
「――よく知ってるのね」
 ふかぶかと息を吐き、感心したそぶりを見せながらエヴァはたずねる。
「ねえ、それなら神様はなんで洪水をおこしたりしたの? そうすれば苦労をして大きな船を作って逃げ出す必要なんてはじめからなかったじゃない」
 まっすぐに投げかけられた問いを前に、ぱちぱち、とゆっくりのまばたきをこぼしながら少年は答える。
「人間があんまり増えすぎて、あやまちをおかす人やらんぼうをする人がたくさんいたからだよ」
 絵本で読んだとおりの『答え』を返せば、とたんに向かい側のテーブルからは、けげんさを隠せないようすの曇った表情が返される。
「神様って残酷なのね、知ってたけど」
 ――それならいまでももっとちゃんと働いてくれればいいのに。付け足すようにうんとちいさくささやかれた声は、なぜかにぶく胸に突き刺さる。
「ディディはものしりなの。本をいっぱい読んでるのよ、えらいでしょ」
「……もらったんだ。だからほんとうは僕のものじゃないけれど、好きにしていいからって。今度ノアにもわけてあげるね」
 週に二度やってくる古紙回収業者のトラックの本の山の中には、時折使い古されてすっかりくたびれた子どもむけの教科書や絵本がまぎれこんでいる。仕事を手伝った礼に、とわけてもらった本たちは、貧しい暮らしを強いられた少年の得られる数少ない知識の泉のひとつだった。
「わたしもだいぶ文字が読めるようになったの。書くのはむつかしいからまだもうちょっと練習するからね。でもすぐじょうずに書けるようになるからね。だから待っててね」
 やわらかな鳶色の瞳を輝かせ、得意げに胸をはって少女は答える。
「ママにたくさんお手紙を書いてあげる。ママにあえないあいだなにがあったのかって、お話すれば教えてあげられるけど、お手紙があればわたしが寝てる時でもおしごとであえない時でも見ておもいだせるでしょう。そしたらさみしくないとおもったの」
「ありがとう、とっておきの宝物になるわ」
 まぶしげに瞼を細めながらほほえんで見せるその姿に、理由はすこしもわからないのに、どこか胸をしめつけられるような息苦しさを少年は味わう。
「ディディにもたくさん書いてあげる。ディディは先生だもんね、どんなふうにじょうずになったかわかるとあんしんでしょう?」
「……ありがとう」
「でもばってんはしないでね。さいしょからはじょうずに書けないのはしかたないでしょ。だんだんじょうずになるからね」
「いいよ、そんなの」
「よかったわね、ノアの先生はやさしい先生みたいで」
 ぴかぴかの笑顔で得意げにわらって見せる少女のほそい髪が、かすかに風に揺れる。
 母親のそれとはすこし趣のちがう明るい赤みがかったブロンドのその髪は、もしかすればこれからも会うことのないはずの彼女の父親ゆずりのものなのかもしれないと、彼は思う。
 それでも彼は決して、そのことを口に出そうとはしない。


 その日の夜、少年はずいぶん久方ぶりの夢を見た。
 彼の住む町一帯に大津波が押し寄せ、たくさんの見知った仲間たちとともに、大きな船に乗って町から逃げ出そうとしている夢だ。
「ひい、ふう、みい……よし、これで全員そろったな。出航だ。早くでないと間に合わなくなるぞ」
 船長らしき男が、並んだ人たちを順番に船上に集まった町の人たちを、手元にもったリストと照らし合わせるようにしながら数え上げていく。それなのに、あたり一帯を見回しても少年の父親の姿はどこにも見あたらない。
「ちょっと待ってください。僕のお父さんは――」
 少年の訴えを前に、どこか息苦しげに顔をしかめるようにしながら男は答える。
「リストに載っている人ならもうみんなここに集まっているよ、もう出ないとほんとうに間に合わなくなる。俺たちは神様に特別に選ばれたんだ。その意味がわかるだろう?」
「でも、」
 すがるようにシャツの裾をぐっと掴みながらかける言葉を前に、ただ堅く唇を結んだまま、男は首をそっと横に振ってみせる。
 周囲にいる誰もが口を噤んだまま、憐れみにも似たまなざしが彼へと注がれる。まるでその沈黙こそが、なにもかもの答えであるかのように。

 やがて船の外からは、押し寄せるような轟音とともに低くしわがれた、よくよく聞き覚えのある叫び声が聞こえてくる。
「助けてくれ! おねがいだ、助けてくれ! 船に乗せてくれ!」
 聞き間違うはずもない、父親の声だ。
「おとうさん……」
「ディディ、手を貸してくれ!」
 濁流にのまれていく父親の手が、すがるように必死にこちらへと差しのばされる。それでもその掌は、ほんの数日前にも痩せっぽっちの少年の体にいくつもの無数の痣を残したものなのを彼は知っている。
 神様はずるをする人、らんぼうをする人、そのほか、悪いおこないをおこなう人間たちのおろかさを嘆き、選ばれた人間たちだけを生き延びさせるためにノアに方舟を作らせた。ノアの方舟に乗ることがゆるされるのは、人を傷つけない、よい行いを守ることのできる人間と種の保存を定められた動物たちだけだ。
 父がはじめから舟に乗っていなかったのは、神様から生き延びるべきではない『悪い』人間だと罰せられたからではないのだろうか。
 でもそれなら――ここで父を見放すことは『よい人間』の行いといえるのだろうか。
「ディディ、早く!」
 うなり声のような轟音にかき消されるようにしながら、それでも懸命に、いらだちを隠せないようすで父は叫び声をあげる。毎晩のように酒に溺れ、少年へと怒声を浴びせるその時とおなじように。

 はたしてあの時、夢の中の自分は父へと手を差し伸べたのだろうか。
 彼はいまでもそれを、どうしても思い出すことができない。




 *


 アレン・ウィンストンさま

 ご無沙汰しています。
 とはいえ、僕は正直なところ、あまりそういった気分ではありません。先日、君を特集した記事が載っているという雑誌を雇い主に見せてもらったばかりだからです。
「ねえ見て」うれしそうに瞼を細めながら広げられた紙面を目にした途端、思わず僕は目をみはりました。そりゃあそうでしょう、そこにいたのは同居人として身近に目にしていた君の姿とはひと味もふた味も違う『作家』の顔をしたよそ行きの君の姿だったのですから。
 なるほど、まったくもってカメラマンとは偉大な職業ですね。
(もちろん、君の被写体としての魅力だって無視できないものではありますが)
 それにしたって、よくよく見知った(つもりの)友人の近況や深層心理をこうして間接的な形で聞かせてもらうというのはいまだに慣れないものです。
 いまや家族や友人同士のあいだでも直接のやりとりではなく、日々更新されるSNSの断片から暮らしぶりや日々の考えを聞かせてもらうことが当たり前の世の中となってしまってからもう随分経ちますが、一対一で、自身の言葉を通して気持ちを伝えてもらうことと、不特定多数の誰かに聞かせることを前提に開かれた言葉とではそこに込められた思いや意味合いはまるで違うものでしょう?
 君がいままでに残してきた言葉、新しく届けられた言葉や想いに触れさせてもらうその度、まるで秘密の扉を開くための鍵を手渡されたような心地を僕は味わいます。
 そして、こんなにもたくさんの見えない誰かに想いを届けようと努力し続け、言葉を磨き続けている君のたゆまぬ努力に改めて感服するばかりなのです。

 さてはて、そろそろ褒め殺しがすぎると君に顔をしかめられてしまう頃合いだと思うので、こちらの近況をお話させていただきます。
 随分なニュースになったこともあり、君もご存知かとは思いますが、僕たちの住む町は、少し前に三日三晩続く記録的な大雨に見舞われました。
 ありがたいことに、高台にある教会と僕たちの住まいには被害が及ぶことはなかったのですが、働きものの雇い主は浸水の被害にあったいくつかの家々や店舗の片づけに追われていました。
 あいにく、命を落とした人は出さずに済みましたが、いくつか商店のテント屋根や看板が吹き飛ばされてしまうなど、災害の傷跡はまだまだ色濃く深く、この町にも人々の心にも刻まれていくようです。
 少なからずは因果応報とも言えなくはないものの、自然の脅威のおそろしさ、こうして『生かされている』側にすぎない自分たちの無力さを改めて突きつけられるかのようなきょうこのごろです。
 それでも、長く降り続いた雨の後には虹が上がり、僕たちにたしかな希望をもたらしてくれます。
「雨がさまざまなものを洗い流してくれることもあるからね」
 雇い主は感慨深げにそうつぶやきながら、カメラを手に散歩に出て行きました。
 よく撮れたものがあれば、のちほどこの手紙に同封させていただきます。あまり期待せずにお待ちいただければ。

 そんな風に平穏な日々を取り戻した雇い主とおなじように、日がな一日、四角い窓枠に切り取られた景色を眺めて過ごすだけの僕の暮らしにもうれしい変化があったことをここでお知らせさせていただきます。
 長く続いた雨ですっかりご無沙汰となっていた鳥たちが以前とおなじように窓辺へと遊びにきてくれるようになり、その中には、はるか遠い大陸から旅をしてきた新しい友達もいることです。
 僕にすこし風変わりな『雇い主』がいること、彼の大切な友人でもあるかつての隣人であったきみとこうして時折、手紙のやりとりを交わしているのだということ。
 ありのままを話聞かせるその度に、彼らは目をまるくして驚きや戸惑いを僕に伝えてくれます。
 一番多く聞かれるのは当然ながら「文字の読み書きだなんて、そんな人間のまねごとのようなことをどんな風にして身につけたの?」という質問です。
 これに関しては、おそらくは神様のいたずらだろうから……としか言えないのですが。
(ほら、君の知り合いにだって目を覚ましたら人間の青年に姿を変えていた黒い犬がいたでしょう? 神様とは時に、そのような不可解ないたずらをしでかすものらしいのです)

 言葉を記録するための『文字』とは人間の遺した数々の発明の中でもとびきりのものだなと、僕は改めてそう思います。
 姿を目に、声のちょうしを直接耳に焼き付けて――おのおのに伝達手段が違えば当然、そこで伝えられるもの・受けとめられる思いは異なっています。
 それでも、こうして『文字』の中に閉じこめ、伝えられること、そして何より、そこに込めたものは形を変えることがなく、何度でも振り返ることができるのだということ。
 これ以上の救いがあるのだろうかと、僕はそう思うのです。

『記憶』はいつだって形を持たず、ただふわふわと雲のように人々の心の中に淡く漂い続けるものです。
 それは時にそれぞれの中で薄れ、形を変え、そして何より、いくら手放そうとしたって、そう簡単に消し去ることができないものです。
 忘れてしまいたくないこと、乗り越えていきたいと思うこと、苦しみや痛みのその真ん中にあるもの――『言葉』にはそのひとつひとつを優しく包み込み、閉じこめ、立ち返りたいとそう思った時の道しるべとなってくれる役割があります。
 お伝えした通り、自然のもつ大きな力の前ではいつだって、この地に生かされている我々はおのれの無力さを突きつけられるばかりです。
 それでも僕たちには『言葉』があり、それをこれからずうっと先、僕たちが命を燃やし尽くしたその後の世界で生きる人々に伝えることができるのかもしれないという希望があります。
 僕たちがこうして交わした言葉のやりとりも、いつかずうっと先、僕や君のいなくなった未来で誰かが目にすることがあるのでしょうか。
 すこし怖いような、ロマンチックなような……どこか複雑な、それでいて誇らしい気持ちに僕はなります。

 いきなりおかしなことを言い出すな、と思ったでしょう?
 どうにも思考が飛躍してしまうのはむかしからの僕の癖なのです。なにせ、想像力だけは樹木一倍豊かに育ったものですからね、どうかご容赦ください。(それがなぜなのかなんてことは、すこしもわからないけれどね)

 取り留めもない話にこうしてつきあってくれて、いつもほんとうにありがとう。
 君がこうして貴重な人生の時間を僕に費やしてくれること、こうして言葉の中に閉じこめた想いを交わし合う機会をくれたこと、そのすべてをとても誇らしく、喜ばしいことだと想っているのだということを伝えられればうれしいです。

 すっかり話が長くなってしまったね。
 話したいことはまだ尽きそうにもないけれど、もうそろそろ君からの言葉を聞かせてもらいたいのでここいらでバトンタッチとさせてください。せかすつもりはありませんが、よければまたいつでもお便りをいただければうれしいです。
(雇い主の喜ぶ顔を見るのは、僕の心身の健康にもとてもよいのです)

 親愛なるかつての隣人へ感謝と愛を込めて
 言葉を手にした風変わりな観葉植物より













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