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調弦、午前三時

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短いお別れ

「黒い犬」の番外編。アレンとかつての友人をめぐるお話。







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 いつしか懐かしく感じるようになっていたその名前をずいぶんと久方ぶりに目にしたのは、思いがけない場面でのことだった。





 いつの間にか自然に足が向かうようになっていたその場所へ、いつもとはどこか違う心持ちを携えたまま、一歩、また一歩と歩みを進める。
 見知らぬ名前ばかりの墓標の立ち並ぶ中、ひときわ大きく立派な〈帰る場所〉を持たない人たちのための合同墓を目にした時に浮かぶのは、どこか不思議な安堵感だ。
 彼の魂のたどり着く場所は決してここではないと知っていても、それでも――ゆっくりと瞼を閉じればそこには、おぼろげに滲むようにして浮かび上がる、いつかのその姿が見える。
 ねえ君はどんな人生だった? 君が最期のその時に思ったことが何かだなんてこと、誰にも想像が出来るわけなんてないよね。それでも君の心が安らかであったのならいいと、そう願うことは赦してもらえる?
 みようみまねのひどくぶざまな祈りを捧げるようにすれば、不思議と心に起こったさざ波が、しずかに揺らぎながら凪へと形を変えていくのを手に取るように感じる。
 ああ、いつか聞かせてもらった言葉はほんとうだ――鎮魂のための儀式も墓標も、すべてはみな、旅に出たその人のためではなく、残されたこちら側の心を鎮めるためにあるものなのだ。
 ゆっくりと深く息を吸い込み、頬をさらうすこし冷たい風に身を任せるようにする。
 風の音、かすかな葉ずれの音、鳥の鳴き声、どこかではしゃぐ子どもの笑い声――おだやかなその響きの中にまじわるように、ひときわ鮮やかに聞こえる、すっかり耳慣れた靴音が聞こえる。
「やあ、」
 やさしい声色に導かれるままにそうっと顔を向ければ、すっかり見慣れた、この場を護るその人の姿が視界へと飛び込んでくる。
 襟の高いスタンドカラーの白いシャツに紺のニットのカーディガン、深いベージュのチノパンツ。華奢な首もとにはオリーブグリーンのショールが彩りを添えている。
「こんにちは」
 ぎこちない会釈と共に答えれば、どこかしら遠慮がちな色を忍ばせた、やわらかな言葉は続く。
「向かいの庭園でローズマリーが満開になったんだよ」
「そうなんだ」
 見に行かないと。小さな声で答えれば、気遣うようなひどく遠慮がちな笑みがそっとこぼれ落ちる。
「きょうは、」
 かすかに揺らいだやわらかな琥珀色の瞳を、それでもじっとひるむことなくこちらへと傾けるようにしながら彼は尋ねる。
「お別れをしてきたの? だれか、大切な人と」
「ああ、」
 チャコールグレーのジャケットに黒いボタンダウンのシャツ、黒のスラックスに深い焦げ茶の革靴。有り合わせのぶざまな――それでも、いつもとはあからさまに様相の違う装いを前に、気遣うようなやわらかなまなざしがそうっと注がれる。
「――そうできれば良かったのかもしれないんだけれど、生憎のところ。だからせめて、気持ちだけでもと思って」
 ひどくぎこちなく、それでもせめての気持ちを込めるように精一杯の笑顔を向けながら僕は答える。
「友達を亡くしたんだ。向こうがそう思ってくれているのかだなんてことに確証は持てないんだけれど」


 二年ほど前に行きつけになっていたバーで出会った歌うたい。
 新聞の紙面の片隅、いつもなら見落としてしまいそうなほんの小さな記事で彼の訃報を知ったのが、今朝一番の出来事だった。


「年の頃は僕よりも一回りとすこし上で――だから、この世を旅立つにはまだ随分と早かった。知人に連れて行ってもらったバーで歌をうたっていたのが彼だったんだ。すこし嗄れていて、それでも不思議な艶を帯びたやわらかな声で。人々が自らの人生を生きていく中で見過ごしてしまいそうなささやかな喜びを、胸にしまったままでいようとするような悲しみや苦しさを、そのひとつひとつをとても丁寧に色鮮やかに歌いあげる人だったんだ。その場に居る人はみな、たちまちに彼の演奏と歌に魅了された。彼は歓声に応えるように歌をうたう。魂を焦がすようなその歌声は、たちまちに空気の色を塗り替えるようにあたりいっぱいに響きわたる――」
 自分の中から生まれる言葉を通してはきっと、こんな景色は描けない――おなじ芸術家という道を選んだ者として、少なからずの嫉妬らしきものをおぼえたことは曲がりない事実だった。
「歌の中に落とし込まれる想いはあんなにも色鮮やかで饒舌なそのくせに、ひとたびギターを手放した彼はひどく寡黙だった。必死に言葉をかけたってろくに目も合わせてはくれない。自分のことだなんてろくに話すこともなければ、目の前にいる相手に興味を示してくれるようなそぶりだってろくに見せなかった。まるで、歌をうたっているあいだだけこの世と繋がっているように見えたんだ。人づてに聞いたところによれば、彼はほんとうに、まるで歌うことそれ以外には興味を示さないように見えたらしい。家族もいなければ、身を寄せる相手も作ろうとはしない。それだけの人を惹きつける才能がありながら、その日一晩の酒代くらいの報酬があればそれで充分だと言い張った。帰る家もろくにないままあちらこちらの町を渡り歩いて、その日暮らしの根無し草のように日々を過ごしていたらしくって」
 ――それもすべては人づてに聞いた根拠のない噂話にすぎなくって、もしかすれば、誰かの生み出した都合のよい『物語』に過ぎないなのかもしれないのだけれど。
「あこがれていたんだと思う。彼の生み出すものの途方もない切実な美しさにも、きっとその源にあったはずの、何者にも囚われようとしない生き方にも。言葉なんてひとつかふたつ交わせたのならいい方で、彼はきっと僕のことなんて記憶の片隅にほんの僅かに焼き付いていたのならいい方だと思う――それでも僕にとって、彼は特別な人だった」
「……うん、」
 言葉が途切れるのをじっと待つようにしたその後、ちいさな相槌の言葉が静かに落とされる。
「それは――」
 瞳を伏せるようにしながら、遠慮がちなようすで彼は答える。
「悲しいね、とても」
 音も立てず、静かに睫毛を揺らしながら告げられる言葉に、心はたおやかに波風を立てる。
 ひどく彼らしい言葉だと思った。まるで、胸にわき上がったその想いをすべて、静かに赦してくれるかのような。
「……そうなんだ」
 もつれた心を手繰りよせるようにしながら、ゆっくりと僕は答える。
「いつの間にか彼は僕のいた町を旅立っていた。それがあたりまえのことで、行く先を知る人は誰もいなかった。それでもいつかまた会えるはずで、探し出すことだってたやすいはずだと僕はそう信じていた。彼が歌うことを、自らの心を語ることをそう簡単に手放すとは思えなかったからね。そんな風にして、心のほんの片隅に彼を置いたまま日々を過ごしていて――今朝のことだよ。いつもどおりに朝刊を読んでいたら、偶然ちいさな記事が目に入ったんだ。ぼろぼろのジャケット姿で古びたギターケースを抱えた男が公園のベンチでひっそりと息を引き取っているのが近くに住む老婦人に発見された。彼の隣には薄汚れた白い犬がそっと寄り添っていたんだって。持ち物から彼だとわかったけれど身柄を引き受けてくれる相手は見つからないままらしくって」
 ひどく唐突な――ある意味ではとても『彼らしい』としか言えない人生の幕切れがそれだった。
「寂しいだとか悲しいだとか、そんな風に身勝手な感傷におぼれることが赦されるのかもよくわからなかった。それでもなんだか、胸の中にぽっかり穴があいたような気持ちになって――気がつけば、自然と足がここに向かっていたんだ」
 彼の魂が帰り着く場所が決してここではないことを知っている。それでも――見送る人々のいない孤独な魂が眠りに就けるように祈りを捧げられた場所があること、そこを護り続ける人がいること――そのすべてがまるで、安らかな救いのように思えたのだ。
 深く息を呑むこちらを前に、ゆっくりとまばたきをこぼしたのち、彼は答える。
「優しいんだね、君は」
「そんな風に言われる資格はないよ」
「だったら信じて? ほんのすこしでいいから」
 いたずらめいた響きを携えながら告げられる言葉に、心はそっとたおやかに波立つ。
「……ありがとう」
 こんな安堵感に心を包まれるのは、いったいいつ以来だろう。懐かしいような息苦しいような、幾重にも折り重なった感情がたちまちに心を覆う。
「ねえアレン、お願いがあるんだけれど」
「なあに」
 遠慮がちな問いを前に、首を傾げるように僕は尋ねる。そこに覆い被さるのは、羽根のようにやわらかなやさしい想いのかけらたちだ。
「祈りを捧げてもいい? 僕からも、彼のために」
「……うん、お願いするよ」
 心から告げる言葉を受け止めるように、子どものように無邪気でやわらかな笑顔がそっと零れ落ちる。


 もう出会うことの叶わないあなたの魂がどうか、安らかな場所へとたどり着けるように。
 祈りを捧げてくれるその姿を横目に、僕は口をかたくつぐんだままそっと瞼を閉じる。耳の奥ではいつかに聞いた、あの穏やかな寂しさを溶かし込んだ歌声がかすかに響き渡る。







 静かな眠りに就いた彼の魂の安らぎを想い、僕に出来ることがあるのだとすれば。
 ――決して彼はそれを喜んでくれるはずだ、なんてことは言えやしない。それでも。僕が望んだこと、僕が叶えたいとそう思ったこと、その手段はたったひとつしか思い浮かぶはずもなかった。
 大切なのはきっと、自らが選んだその答え、たどり着いたその手段、それらを信じて最善を尽くすことなのだ。


 深く息を吸い込み、いまいちど、画面の中に映し出された言葉たちに向き合う。
 そこに居るのは僕の心のかけらたちが生み出した、ここでだからこそ生きることの出来る、大切な『ともだち』たちの姿だ。





 昼過ぎから続いた雨の音がようやく途切れたその頃、不揃いなそのリズムがゆっくりとこちらへと近づいてくるのが聞こえた。
 湿り気を帯びた匂いは、雨のもたらしたものなのだろう。軋む蝶番の音を響かせながら、音の主は一歩、また一歩とこちらへと近づいてくる。
 大丈夫だろうか、何か身体をふくものを――とは言え、ひとたび告解室を飛び出し、ふわふわの毛皮に包まれたこの姿を人前に見せるわけにはいかない。
 思わず身をこわばらせるようにしたまま待ちかまえていれば、衝立の向こうからは待ちにまっていた第一声がダレンのもとへと届く。
「なあ、牧師様に聞いたんだ。あんたはみんなの悩みをここで聞いてくれるんだろう? いるんなら返事をしてくれるかい?」
 すこし嗄れたよく通る声――年の頃は牧師様と同じくらいなのだろう。かすかなたばこの匂いと湿り気を帯びた雨の気配を漂わせるその人の姿を脳裏に思い描きながら、ダレンは遠慮がちに言葉を投げ返す。
「ええ、いますよ。秘密はお守りしますのでご安心ください。きょうはどういったご用件でこちらにお越しですか?」
 息をのむようにして待ちかまえるこちらを前に、ごほんと、咳払いをこぼした後、男は答えるのだ。
「あんたのところにはいろんなやつらが相談に来るんだろう? だったら幽霊と話したことはあるのか?」
 思いがけない言葉を前に、ダレンは静かに深く息を呑み、そうっと耳を澄ませる。じっとりとした雨の香りにまじわるような煙草とほんのすこしのお酒の匂い、かすかな息遣い――姿こそ見えなくともそこにいる人の気配そのものは手に取るようにこちらへと伝わる。
 もし言葉通り、ほんとうに彼が『幽霊』だというのなら――幽霊とはこんなにもはっきりとした人の気配を纏うことが出来るのだろうか。それならそれは、生きている生身の人とどう変わらないのだろうか。
 幾重にも絡まる迷いに囚われながら、それでも務めて平静を装うようにダレンは答える。
「――私は皆様のお姿を見ることはできません。私に叶うのは皆様がそれぞれに言葉で伝えてくださるご自身の立場や想い、それらすべてをありのまま信じることだけです」
 みながそれぞれに『知ってほしい』と願うその姿――それこそが、ダレンが受け止めるありのままの『その人』なのだから。
「……おかげさまで、様々な方とこうしてお話をさせていただきました。それでも、ご自分が幽霊だとおっしゃる方とお話をさせていただくのははじめてです」
「へえ、」
 やわらかな相槌のそののち、満足げな息遣いまじりの返答が壁伝いにそっとこちらへと届く。
「それなら聞いてほしいんだ――自分がこうして生きているんだってことへの実感が日に日に薄れていくばっかりで、それなのに命の手綱を手放すことなんて出来ない。こんな自分にも何かが残せるんじゃないかと無様にもがき続ける幽霊は、これから先どんな風に生きていけばいいと思う?」











「黒い犬」本編に関してははこちらからどうぞ。




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